劉暁波の詩集『独り大海原に向かって』を昨夜読み終わった。
読後感は、なかなかうまく言い表せないのだけれど、不思議な深い印象を受けたと言えばいいのか。
混沌としたものややるせない鬱積した思いと、清冽な希望や光のようなものが、深い悲しみや怒りとともに、撹拌されていた。
劉暁波は2010年にノーベル平和賞を受賞した中国の文筆家・詩人で、天安門事件に深く関わったために以後は政府当局の厳しい監視や拘禁・弾圧を受け続け、2017年に亡くなった。
この詩集にも、一年ごとに書いた「六・四」つまり天安門事件に対する追悼の詩が多く収録されている。
どれも天安門事件で非業の詩を遂げた人々のことと、あの日の暴力と悲惨さと、その後の経済発展の中で事件が風化させられ忘れさせられていくことへの抵抗が記されている。
また、この詩集には、獄中の劉暁波を献身的に支えた妻の劉霞への愛の詩の数々も収録されている。
苦難の多い人生だったろうけれど、このような純粋な深い愛に恵まれたことは、どれほど劉暁波にとって支えとなり、また稀有なことかと読みながら思わされた。
象徴的な表現でありながら、実感のこもった混沌とした詩の数々は、劉暁波の人生の苦難に裏打ちされたものであり、同時代でものほほんとした先進諸国の多くの文芸にはあまりありえない迫力のあるものだった。
同時代にこんな詩人がいたのかと、読みながら深い感銘を受けた。
未だに中国では、劉暁波が抗議し続けた言論弾圧や人権抑圧は有形無形に社会に張り巡らされており、なかなか変わらないようである。
また、天安門事件そのものがもはや風化させられ、多くの人はそもそも知りもしないのかもしれない。
それは中国国内のみならず、欧米や日本においても、天安事件の記憶はだいぶ風化してしまっているのだと思う。
しかし、劉暁波の詩の数々は、あの日にあったことを痛切に思い出させ、考えさせ続けてくれる貴重なものだと思う。
また、その後の歳月において、愛や自由とは何なのかを、身をもって生きた人の、貴重な言葉の数々なのだと思う。
ちなみに、ひょっとしたらそうだろうかと思いながら詩を読んだあと、解説を読んでいたら、劉暁波は洗礼は受けていないものの、深くイエス・キリストを尊敬し、アウグスティヌスやルターを愛読していたそうである。
そういうところから、この圧倒的なに強い権力にも個人で対峙して恐れない勇気ある精神力が生まれたのだろうか。