「朝鮮詩集」を読んで

朝鮮詩集 (岩波文庫)

朝鮮詩集 (岩波文庫)


今日、岩波文庫の『朝鮮詩集』を読み終えた。


金素雲という人が1940年、つまり戦前に、1905年から1940年に出された朝鮮の詩人の詩を集めて、日本語に翻訳したものである。


もうだいぶ前にブックオフで百円で手に入れて、本棚に入れっぱなしになっていた。
てっきり歴史的な詩集と思ったら、意外と近代の作品ということで、買った当初は興味が持てず、本棚に眠っていた。


ふと他に何も読む気がしないので、今日本棚を眺めていて、何気なく読み始めたのだけれど、読み始めて驚いた。
非常に新鮮で、わかりやすく、面白く、豊かな詩の世界がそこには広がっていた。


四十人の詩人のさまざまな作品の詩集なので、それぞれに個性はもちろん違うのだけれど、なんといえばいいのだろうか。
近代の作品であるのと同時に、朝鮮の深い伝統的な詩心がちゃんとある気がするし、それに何より、どの詩もすばらしい日本語に訳して生かしきっている訳者の金素雲の日本語力がすごすぎる。


本の後ろについている詩人たちの短い略歴を見ると、その多くは日本の大学に留学経験のある人がほとんどのようである。
朝鮮半島にとっては、植民地時代という、たぶん日本人からは想像がなかなかできない困難な屈曲を伴った時代だったのだろうけれど、とても豊かな精神はちゃんとそこにもあったんだなぁということを、この詩集を読んでいて感心させられた。


また、本の後ろの方についている解説によると、この本の出版に際して、随分と訳者の金素雲朝鮮総督府との間で苦労し、結局後半三分の一ぐらいは当時は出版できなかったようである。
その一方で、戦後になると、日本文化に媚びた糾弾されもしたらしい。


そうこう考えると、非常に稀有な、貴重な一冊なのかもしれない。
この一冊ができあがるためには、大変な苦労があったのだろう。


一方で、そうした背景を抜きにして、純粋に文学として見た時にも、この本はとても素晴らしい詩集だと思う。
岩波が文庫におさめた識見はたいしたものだと思う。


特に心に響いた作品は、私にとっては「桐の葉」と「その人」という詩だった。




「桐の葉」   韓龍雲


風のない空から 垂直に波紋を描いては静かに舞ひ散る桐の葉――、あれは誰の跫(あしおと)でせう。


霖雨(ながあめ)の霽(は)れ間を 西風に吹き追はれる黒雲の崩れた隙間から ちらりとのぞいた蒼い空――、あれは誰の瞳でせう。


花もない大木の 苔古りた肌のあたりに 仄(ほの)かにこもるえいはれぬ香り――、あれは誰の息吹きでせう。


源を知る人もない遠い山あひから流れては 河床の小石転(まろ)ばすせせらぎの音――、あれは誰の歌声でせう。


蓮(はちす)の踵(かがと)で涯しない海を踏み 紅玉の掌で西空を撫でさする落日の粧ひ 遠茜(とほあかね)――、あれは誰の詩なのでせう。


燃えくづれ 燃えつきては またしても炎ゆらぐ 消ゆる日のない心の嘆き――、これは誰の夜を護る か細い灯(ともしび)でせう。



「その人」   朴八陽


朝な朝な わたしはその人に行逢ふ
うつくしく聡明なその人に、
微笑のただよふその口もとに 朝の光が照りそふとき
え知らぬ幸福にわたしは酔ふ。


その人は怒りを知らない、
その人は渝(かは)らぬ親しさで話しかける、
その人は貧しきを卑しめず、
その人は富めるを畏れない。


いつも白い木綿の身づくろひは、
その人の心根のやうに浄くすがすがしい、
その人は働きながら書物を読み
人に逢へば腰をかがめて挨拶する。


その人は湖水のやうにもの静かで、
その人は生帛(きぎぬ)のやうにやはらかで、
その人は兄弟のやうに温く、
その人は学者のやうに知慧深い。


ついぞ愁ひを知らぬその人、
大空のやうに心のどかなその人、
澄み透った瞳に知慧はかがやき
引きしまった口もとに微笑の宿らぬ日とてはない。


朝な朝な わたしはその人に行逢ふ、
うつくしく浄らなその人に。