今日は

「イエスは愛で満たす」という讃美歌を歌ったのだけれど、とても良い歌だった。
エフェソ書の二章のあたりが今日の部分だったのだけれど、「エン・クリスト」という言葉が六回も繰り返すことや、「キリストは私たちの平和」という言葉や「隔ての壁」をキリストが取り壊したということが、印象的だった。
また、キリストの十字架によって神のいのちに私たちが奪還された、奪還してくださった、ということも印象的だった。
イザヤ書九章でそれらが預言されていたということも。
また、キリストが「かなめ石」であり、キリストにより異邦人も「神の家族」になったということも。
エペソ書の二章はぎゅっとキリスト教の要点が詰まったような箇所で、本当にすごい箇所と思う。
自分もまた、隔ての壁を取り払い平和に努める人間になりたいと読んでいて思った。

会が終わったあと、H先生に、

「神を愛しなさいということが、マルコ福音書でも申命記六章でも言われますが、具体的に神を愛するとはどういうことでしょうか?讃美歌を歌ったり聖書を読むことかなぁとおも思うのですが。」

と質問してみた。

すると、

「神を愛するとは、祈ること、神と交流すること、神に心を向けることです。神様の言葉に耳を傾けて聴き、自分の思いを祈りの中で語り、神と交流することですが、何よりまず第一は神に心を向けることですね。というのは、私たちはとかく神以外のものに心が向かって散ってしまい、なかなかそれが難しいのですが。」

ということをすぐに答えてくださり、なるほどーっと思った。




あと、今日は、別のところで、W長老が、初転法輪経をパーリ語で唱えてもくださり、とてもすばらしかった。
パーリ語初転法輪経は、意味はわからないけれど、節がついたその読経を聞いているだけで、なんと言えばいいのだろうか、さわやかな、喜びとすがすがしさに満ちた、鹿野苑釈尊と五人の弟子たちの、その光景の光が見えるような気がした。
あと、ともかく自分の心に気付いて、瞑想をするように長老がおっしゃられていたので、質疑応答の時に、へこんだり落ち込んだ時にあんまり瞑想をする気もしない時がありますが、どうしたらいいでしょう?と質問したら、瞑想はしないといけないと思い、やりたくなくてもやる、と思ってそういう時でも、そういう時こそ、瞑想をしてください、と言われて、なるほどーっと思った。

あと、今日は、パーリ仏典のファイルをゲット。
感謝感謝。
宝の山をいただくことができ、本当にありがたい。

帰りは、Mさんが車に乗せてくれて家の前まで送ってくださったのでとてもラクだった。



とかく人生は大変なこともあれば、落ち込むこともあるが、今日はキリストと仏陀の愛を格別感じたような気がする。
本当はいつもそそがれているのだろうけれど。
良い一日だった。