政治というのはそう簡単に変わるものでもないが、では全く変わらないものかと言えばそうでもないのだろう。
可塑性といえばいいのか。
変わりうる余地があり、可能性の束であるのが、政治というものなのだろう。
しかし、この二十年ほどの日本の政治を見ていて、途方もない疲労感と虚無感と無力感を時には感じるのが、おそらくは大半の日本人だろう。
無関心と無気力の分厚い壁。
おそらくは、他人のそれをどうこう言うより、自分の中にあるそれを見つめて、自分なりに乗り越えていくしかないのだろう。
絶望というものほど、安易なものもない。
希望が虚妄であるように、絶望もまた虚妄に過ぎない。
変わらない分厚い壁があるとしても、ほんのささいな変化をちょっと積み重ねれば、分厚い壁も突き崩せる時もいつか来るかもしれない。
新渡戸稲造が言うには、自分もまたこの世界の一翼を担っていると考えると良いそうである。
自分もまたこの世界の一翼を担っているならば、無力な一翼になってしまうのではなく、微力であっても微力な分だけの一翼になった方が良いような気もする。
とはいえ、自分が生きている間に、この国の世直しはありえるのか、かなり疑問な気もする。
それでも、あまり落ち込まず、淡々と、世の流れは流れとして受け入れて、その上で微力ながら何かの微力を積み重ねるしかないのだろう。
人一人ができることはたかがしれている。
さほど世を憂いても仕方ない。
そのうえで、なおかつ、にもかかわらず、全くあきらめてしまわずに、世界の一翼を微力ながら担って生きていくこと。
それはしんどいが、しかし、楽しい人生なのかもしれない。