「知恵の書」再読

聖書の中に「知恵の書」という書がある。


旧約聖書続編、つまり第二正典のものなので、普通の聖書には収録されていない場合が多い。


箴言やシラ書とともに知恵文学に分類される書だが、とても面白い。
伝説だとソロモンが書いたことになっているが、おそらくはヘレニズムの影響の強い時代に書かれたものらしい。
だが、明瞭に聖書の他の書物の中に通底している思想をわかりやすく描き出しているところがあって、なるほどーっと思うことが多々ある。


たとえば、


「生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。」
(知恵の書 第一章 十四節より)


という箇所は、あらためて、なるほどと思う。


とかく効率が優先される現代文明になると、規格にあわぬものは捨てられたり排除される場合がある。


しかし、なんであれ、本当は生かすために生れたのであり、生かすべきものなのだろう。


また、


「人を滅ぼすねたみとも手を切ろう。
ねたみは知恵と何のかかわりもないからだ。 」
(知恵の書 第六章 二十三節より)


という箇所などは、なかなか面白い。
福沢諭吉も、『学問のすすめ』の中で、「怨望」つまり嫉妬こそ、百害あって一利ない感情だと批判し、足の引っ張り合いのような嫉妬こそが封建社会の通弊であり、文明社会はそのような感情をなくすべきだと述べていた。
なかなかそれが難しいのだろうけれど、ねたみと知恵は相反するものだということは、覚えておくべきかもしれない。


「知識に基づいて話す力、
恵みにふさわしく考える力を」
(知恵の書 第七章 十五節より)


という言葉も面白い。
知識や根拠に基づいて話すことの大切さはもちろんだが、ここで気になるのは、「恵みにふさわしく考える力」という表現である。
おそらく、今現在の自分にすでに与えられているものの価値を十分認識し、それを生かすということだろう。
今の日本や日本人に最も大切なことかもしれない。


「知恵と縁を結べば死を免れ、
知恵と交わす愛には優れた楽しみがあり、
その手の業には量り難い富がある」
(知恵の書 第八章 十七、十八節より)


という言葉も、とても面白い。
これによれば、知恵は、命・楽しみ・富の三つを与えるということである。これに、次の節では賢さと名誉も追加されているので、五つと考えても良い。
知恵と縁を結ぶことこそ、何よりも喫緊のことであるし、良いことかもしれない。


それにはどうすれば良いかというと、


「知恵を愛する人には進んで自分を現し、
探す人には自分を示す。
求める人には自分の方から姿を見せる。 」
(知恵の書 第六章 十二、十三節より)


と述べられているので、知恵は知恵を愛する人には、進んで姿を現してくれるそうである。
たしかに、この便利な世の中、聖書やタルムードや他のさまざまな書籍も、読もうと思えば、ネットや図書館で読むことができる。
要は自分が進んで知恵と縁を結ぼうとしていくかどうかなのだろう。
そうすれば、知恵も必ず答えてくれる。


あと、この知恵の書で結構興味深いのは、偶像崇拝についての記述である。
偶像崇拝を批判するのは聖書に一貫したことで、十戒の中にも偶像崇拝を戒めてあるが、知恵の書の面白いところは、偶像よりも偶像をつくる人間の方が力があり偉大だと述べているところである。
もちろん、人間以上に神が偉大だということとワンセットで述べられていることなのだけれど、偶像よりも偶像をつくる人間が偉大であり、その人間をつくった神はさらに偉大であるというのが、ユダヤ教に一貫した思想なのだろう。
これは全くそのとおりだし、とかく人類がともすれば忘れがちな、大事な視点だと思う。


箴言とシラ書も面白いが、知恵の書もあらためて素晴らしいと思う。
これと、ミシュナのアヴォート篇を合わせて、知恵文学の四書として日々に読めば、相当な賢者になることができるのではないかと思われる。