■終戦68年、平和への祈り新た…戦没者追悼式
(読売新聞 - 08月15日))
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130815-OYT1T00654.htm
あれから六十八年。
敗戦の直後の時代、なぜ破局に陥ったか多くの人が真剣に考えた。
丸山真男や大西巨人は「無責任の体系」「責任阻却」と分析した。
しかし、それらの真摯な思索は、いったいどこまで生かされたのか。
六十六年後、311でこの体質が今も生き続けていることを私たちは目の当たりにした。
結局、日本は何をしてきたのだろう。
今なお、無責任の体系と責任阻却ばかりが横行しているとすれば、この国の未来はどうなるのだろうか。
アベノミクスという実体のない言葉で世の中は浮かれているが、安倍政権の政策は、要は財政赤字と原発行政への「無責任の体系」「責任阻却」である。
人は、歴史や記憶を語り継がず、耳を傾けずにいれば、どんなにつらい体験も深刻な反省も、忘れられ、何も生かされることがなくなってしまうのだろう。
せめても、八月十五日は、歴史を思い起し、あの戦争ではかりしれない苦しみや悲しみを経験した人々の思いや一人一人の物語にできる限り思いを馳せ、それらの人々の死や人生を無にしないようにあらためて心したいと思う。
皇后陛下は、以前、『橋をかける』という本の中で、読書とは、自分の外にも、そして自分の心の内側にも、橋をかけること。
人の魂に、根っこと翼を与えてくれること。
読書を通じて、現実の複雑さに耐える心の知恵や力を身につけ、そして平和の道具となることを、とてもわかりやすく、おっしゃっておられた。
どこかの国の指導者は、「言葉は無力なれば」などともっともらしいことを言っていたが、言葉こそ、過去を無にせず、真に生かし、未来をつくるための、橋であり翼であり根である。
ゆめゆめ、無教養な粗雑な低劣な日本人にならないように、明く直く清き心をこそ、深い優しい心をこそ、過去の先人の痛切な言葉や歴史や良い書物に触れて、記憶を語り継ぎ受けとめる中で育むことをこそ、この日も、他の日も、日々に心がけたいとあらためて思わずにはいられない。