
- 作者: 内村鑑三
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1981/03/06
- メディア: 文庫
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内村鑑三の『キリスト教問答』はいつか読みたいと思っていた。
今日、読み終えることができて、良かった。
感想は、たしかにところどころはっとさせられることもあったのだけれど、他の本の方が、内村の体験がダイレクトに書かれていることも多い気がした。
しかし、いくつかのことは、とてもわかりやすかったし、興味深かった。
内村が言うには、聖書は霊の糧であり、マナだという。
今や世界最大の宗教の聖典なのだから、多くの人にとって読んでおくべき本だという。
まず、キリスト教においては、「来世」が問題になるという。
この来世は、単なる時間的な後の世の後世とは全く異なるもので、死後の世界のことを言う。
内村が言うには、健全なる来世観ほど人を偉大にするものはない。
詩人の天職は、盲目の世の人に、来世の実在を明らかにすることになるという。
他にも、いろいろと、印象深い以下のようなことが書いてあった。
クリスチャンではない人にとってはぶっ飛びな印象を与えるものが、今でも多いと思うので、当時はなおのことそうだったと思うが、日露戦争中にこれらを書き続けた内村はすごいと思う。
罪とは人に対して犯したものではなく、神に対して犯したもの。
罪をさとりえないことが、傲慢ということ。
聖書は、神と世界との関係、神と人生との関係を示すのが目的であり、科学や歴史とは異なるので、その観点からの批判は的外れ。
世界と人生を聖書的に理解する、つまり聖書が理解するように理解して、人は神の子どもとなり、宇宙の主人公となる。
聖書は道徳の書ではない。道徳の源である神に至る道に導いてくれる本である。なので、その人の道徳の程度に従って、神の真意を示している。
インスピレーションとは、神の霊が人の霊にくだって、人の霊を活発に働かせ、成し遂げさせること。
聖書に接してこそ、聖霊を多く受けることができる。
教会あっての信仰ではなく、信仰あっての教会である。
ダイヤモンドと箱は別のものである。
キリスト教の伝道は、信者をつくるためではなく、発見するため。
道徳には進化はない。道徳は改造されるもの。
堕落を癒すのは清めではなく、神への帰順である。
奇跡とは、霊の活動である。
などなど。
あと、特に驚いたのは、内村鑑三は、エゼキエル書の第十八章の第四節と第二十節を根拠に、あっさりとアダム的原罪、つまり原罪はアダムに由来するという説を否定していることだった。
しかし、内村は、人類は堕落しており、その意味で原罪があると述べる。
ジュリウス・ムレルという人の前世存在説をあげて、人間の原罪が前世に由来するという説もあげつつ、結局、原罪の由来はわからない、と述べている。
由来はわからないが、原罪と堕落は自分の中にあり、それがキリストへの信仰で救われたのも自分にとっての事実だと、内村は述べていた。
堕落とは、神から堕落することであり、罪とは神を捨てること。
堕落の結果が腐敗であり、腐敗は堕落の原因ではなく結果であること。
堕落とは、善が悪に負けたということ。
善とは神の性質であること。
などなど、考えさせられた。
そして、この本でも、内村ははっきりと無教会主義を打ち出し、西洋の教会によらない、日本人自身の手による、信仰にのみ依拠したキリスト教を打ち出している。
日本人自身の手によって、明治の頃に、このようなキリスト教の本が書かれたということは、今考えても、本当にすごいことだったと思う。