求安録再読

今日、内村鑑三の『求安録』の現代語訳を全部読んだ。


一度、たしか六、七年ほど前、原文を読んだことがあるのだけれど、全然その頃はわかっていなかったと今にして思う。


『求安録』は内村鑑三が、心の平和や安心を得るために、さまざまな実験や遍歴をし、最終的にはイエス・キリストへの信仰で落ち着くまでが書かれている。
その実験や遍歴の過程は、私には非常によくわかる気がした。


ポジティブ・シンキングや仕事や家族や哲学やリバイバルなどに安心を求めようとし、それができないということの実験の過程と結論は、私もいくつかは程度の差こそあれ身に覚えがあるし、今回読んでてとても共感させられた。


以前読んだ時より、若干、この経験が増えたことが、この本のすごさや良さがわかることの一助になったのだろうか。


また、内村鑑三のこの本を読んでいると、私には不思議と、親鸞聖人の書物を読んでいるのと似た感覚を覚えざるを得なかった。
その徹底した真実への探求や自己の内面への凝視は、私には非常によく似たものに思えてならない。


井上洋治さんが、法然上人のことをイエスの面影のある人と述べていたけれど、その表現を借りるならば、内村鑑三親鸞の面影のある人だと思う。


と言えば、おそらく、浄土真宗の人からもクリスチャンの人からも極めて違和感を持たれそうだが、どうも私は求安録を読んでますますその感を強くせざるを得なかった。


また、この六、七年ぐらいの間、親鸞聖人の著作や浄土真宗を、自分なりに触れて学んできたことが、私にとっては、この本の理解を深めてくれたような気がする。


というのは、私が以前、二十年ぐらい前に聖書を読んだ時に、とても感動しつつも、どうしてもよくわからなかったのが、キリストの「贖い」ということだった。


求安録では、キリストの「贖い」について、ラストの方では集中的に論究されている。


同じ一神教でも、ユダヤ教イスラム教と、キリスト教の根本的な違いは、このキリストによる贖いの有無だと思う。


その点、浄土真宗というのは、不気味なほどキリスト教と理路が似ている。
他の仏教は、すべて自らの業や行によって救いや解脱があるとする。
その点、ある意味、ユダヤ教イスラム教と似たような理路だ。
しかし、浄土真宗にいては、法蔵菩薩の願と行の回向によって救われるとする。
キリストの贖いと、理路としてはよく似ている。


もちろん、キリスト教が、イエスの歴史的な事実による贖いであるのに対し、法蔵菩薩の物語は歴史的には、少なくとも今の人間の世界の歴史には存在しない、極めて抽象的な、理念的な物語であり、そこに決定的な違いがある。
また、法蔵菩薩の場合、功徳の回向であるのに対し、イエスの贖いはその受難によると言える。


ただ、私の場合は、この常識では理解しがたい、法蔵菩薩の願行のことをそれなりに聴いてきたおかげで、昔は到底わからなかった、イエスによる贖いということの意味が、おぼろげながらわかるようになったし、それしかない、そこにしか救いがないという内村の信仰がよくわかる気がする。


ある意味、ユダヤ教イスラム教、あるいは初期仏教や聖道門仏教の方が、常識にはよくかなっているし、論理的には合理的に思われがちなのだと思う。
キリストによる贖いや、法蔵菩薩による救いというのは、あまりにも一見非合理な、論理がぶっ飛んだものだ。


しかし、そこにしか救いがないという徹底は、徹底した自己凝視と真実を求める徹底的な求道によってしか得られないし、そうした人には、他力回向やキリストによる贖いにおいてしか救いがないのだと思う。


もちろん、私は、親鸞聖人や内村鑑三のような自己凝視や徹底からは程遠い、彼らほどの真実心はかけらもないのだけれど、他の言葉は何も響かず、彼らの言葉ぐらいしか自分を救うものがないと、どうにもこの頃は思われてならない。
何を読んでも心にあまり響かないが、内村鑑三の言葉だけは、相変わらずとても心に響くと、今回『求安録』を読み直しても、ただただ素直に思わざるを得なかった。
それが自分における実験と言えば実験なのだと思う。