報恩講

明日は、親鸞聖人の御正忌報恩講
本願寺ではこの一週間ほどずっと法要があっているようで、ネットの中継もずっとあっているようだった。


浄土真宗とは何か。
ということを、当然私は語ることができるほど浄土真宗をわかっているわけではないのだけれど、私がこの頃思うのは、永遠のいのちと光に関して、日本の歴史的な文脈や土壌において深められ展開されてきたもの、という風に思う。


キリスト教のテゼの歌に、


「すべてに満ちあふれる、いのちの主、ハレルヤ。
すべてに満ちあふれる、光の主、ハレルヤ。」


という歌があるのだけれど、これをはじめて聴いた時、「これって浄土真宗じゃんか」と思った記憶がある。


キリスト教も、すべてに満ち溢れるいのちと光を讃えるものだけれど、浄土真宗もまさにすべてに満ち溢れる光といのちのを讃えるものである。


南無阿弥陀仏というのも、要はそういう意味で、無量光仏・無量寿仏、つまりはかりしれない光といのちに目覚めて帰依します、という意味だ。


おそらく、親鸞聖人という方は、もちろん理屈も徹底して考え抜いて教行信証というすさまじく分厚い中身の濃い本も書いているけれど、このすべてに満ち溢れる光といのちというのを、本当に感じて、その思いを当時の人々に伝えることができた人だったんだろうと思う。


ただ、浄土真宗は、日本の文化や歴史の文脈の中において展開されたものなので、そこに良さもあれば、限界もあったのかもしれない。
宗教の垣根や枠を超えて、純粋に、すべてに満ち溢れる光やいのちの主ということを求めるならば、必ずしも浄土真宗の枠にこだわらず、キリスト教などからも学ぶことは今日多いとも思う。


もちろん、その逆もまたしかりである。
おそらくは、法然親鸞という人は、世界の歴史でも稀なぐらい、徹底してこのすべてに満ち溢れる光といのちに向き合い、肉迫し、そこに生きようとした人だったんだろうと思う。
そのような人が日本にいたということは、本当にありがたいことだったと思う。


ただ、現在の浄土真宗の寺や僧侶や門徒の中で、どれぐらいの割合の人が、本当に真剣に求道心を持ち、また求道心を持つ人に応えることができているかは、若干疑問なところがある。
本当に生き生きとした光といのちに触れる道筋になっているかも、疑問なところがある。


だが、後世のそうした形骸化は、べつに親鸞聖人の責任というわけでもないのだろう。


南無阿弥陀仏
すべてに満ち溢れる光といのちへの目ざめに立ち返ります。


これは、最もうるわしい言葉であることは確かだと思う。


今日が御正忌なんだなぁと思ったせいか、だいぶ前に買って本棚に入れっぱなしになってた大平光代さんの対談本の『いまのあなたのままでいい』という浄土真宗の本も、今日さらっと読んでみた。
ほっとするような、良い本だった。
そういうのも、不思議な縁やはからいの中にあることかもしれない。


浄土真宗について偉そうなことを語るほどのことは自分には到底できないけれど、そういったことを、今日はあれこれ感じたり考えたりした。