O先生との質疑応答メモ

O先生との質疑応答メモ


(昨日、O先生に、一時間ほど一対一でいろんな質疑応答をさせていただいた。
八十二か三になられるはずだけれど、とてもお元気で、信じられないぐらい密度の濃い御話を次々にしてくださった。
以下のメモは、あとで記憶をもとに書いたものなので、細部は不正確なところも多いと思う。
しかし、とりあえず、備忘録として書いてみた。)


Q, 阿弥陀如来が言葉になって、名号になって、衆生を救うという話を受け取ろうとする時に、どうも今まで考えてもよくわからないことに「法蔵菩薩」の話があります。「法蔵菩薩」とは、いったいどのように受けとめるべきなのでしょうか?


A, 法蔵菩薩とは、願を持った人間のこと。具体的にいえば、釈尊のことだわな。
でも、歴史そのもののことが書いてあるわけではない。しかし、全く架空の話かというと、そうではない。
真理というのは、いきなり真理としてそこに見えるわけではない。釈尊が願を持って見つけてくれたから、我々もいま真理を受けとめることができるわけだわな。
真理を見つけるために、釈尊が修行をし、いろんな行を積んだ。その働きが、法蔵菩薩の物語となっている。
もっと言えば、私たちの今の底に、法蔵菩薩は働いている。
法蔵菩薩の働きを、どこか遠くの、遠い昔の自分と関係ない話と思ったら、もう駄目で、何にもわからんわな。
そうではない。今の根底には無限がある。
私たちの存在の不安の根底に、それをなんとか救いとろうとする無限の働きがある。
法蔵菩薩のことを書いた本はあんまりないもんね。


Q, はい。阿頼耶識だとか、如来蔵だとか、書いている本や論文もありますが、いまいちそれでもわからないのですが。


A, 阿頼耶識というのは、単なる言い換えに過ぎない。法蔵菩薩とは何か?阿頼耶識だ、と言われて、しばらくはわかった気がするけれど、結局単なる言い換えだわな。
阿頼耶識というのは、要するに、今の私の心の根底に働くものでしょう。この働きを聞かにゃならない。


Q, 法蔵菩薩が今の根底にある無限の働きというのは、具体的にはどういうことでしょうか?


A, 法蔵菩薩の物語は、もう私が救われるための行はすべて完成していて、もう大丈夫だよということを伝えるための物語で、細部にそこだけこだわっていてもしょうがないわな。
もう大丈夫だよ、救いの行は名号として完成している、大丈夫だよ、ということだわな。
(このことをおっしゃっている時の先生の眼は本当に優しくて、そのことにもとても感銘を受けた。)



Q, 私はどうも他力ということがいまいちよくわからず、他作自受の問題がよくわからないのですが。


A, 何がわからんかね?


Q, たとえば、自分が善根功徳を積んで、それで善い結果が生じる、自分が悪行為をすると、それで悪い結果が生じる、という初期仏教の言っていることはわかりやすいですし、そのために具体的な瞑想や道徳が述べられているので、私にはわかりやすいのですが、それに対して、名号を受け取るだけで救われると言いましても、実際生きていればいろんな悩みや不安もあり、実感としてよくわからない場合があります。


A, 現実の、生きている間のことは、努力しないと結果が生じないので、言う通り努力することが大事だわね。
だが、存在の不安の根底には、生死の問題がある。
そして、生死の問題というのは、因果だけじゃ救われない、「因果を破る」というのが浄土真宗だ。
親鸞聖人が横超とおっしゃったのは、横紙破り、因果を破るということだわな。
生死の問題、死を前にする時、人は無限に向かい合う。
そして、生死の問題は因果だけじゃなくて、因果を破ることによって救われることがある。救われることができる。
救われざるものが救われる、というのは、論理としては矛盾だわな。
しかし、この救われざるものが救われる、という論理としては矛盾していることが、いのちとしては事実だというのが、親鸞聖人のおっしゃられたこと。
これは昔からあるたとえだけれど、竹の筒の中に虫がおった。
その虫が、竹の中から出たいと思って、天井から出れば出られると思って、なんとか天井を食い破って上に出た。
しかし、竹だから、また上に竹の節があるね。
それで、またえらいこと時間がかかって、上の天井を出たら、また節がある。
これが、親鸞聖人のことばでいえば「竪超」、つまり自力聖道門の道だわな。
不可能ではないかもしれないが、恐ろしく時間がかかる。
これが、煩悩を抱えた人間にとっての、因果に即して救われようとする道だわな。
しかし、竹の筒の中に入っている虫を救ってあげたいと思い、外から、この筒の横に穴を他の人が開けてくれた。
ここから出てくるように呼びかけてくれた。
それで、虫が横の穴からひょいっと外に出ることができた。
これが親鸞聖人がいう「横超」、他力浄土門だわな。


法蔵菩薩が仕上げてくださっている。
私が生れる前から、私の救いは成就されている。
聞いたから助かるんじゃない。
助かるを聞く。


つまりは、阿弥陀様の話というのは、いのちがいのちを肯定することだわな。
死なない間は、生きているということだよ。


昔、とても優秀なエンジニアの知人がいて、四十歳ぐらいで癌で亡くなった。
とっても優秀な善い人だった。
いろんな人が見舞に来るんだが、みんな「がんばれ、がんばれ」と言うそうなんだな。
それで、その人は、みんながんばれというからさびしいと言っていた。
でも、僕は一言もがんばれとは言わなかった。
がんばるな、大丈夫、と言った。
だから、その人はとてもよろこんでおったよ。
それは、僕が真宗だから、いのちがいのちを肯定しているからなんだ。


私が生まれる前に、私の救いが完成していて、名号となって届けられている。
これはいのちがいのちを肯定している、ということだね。


Q, その救いということについて、どうもよくわからないことがあります。浄土とは何なのでしょうか?私は涅槃と同義かとも思うのですが。


A, 浄土とは、浄土真宗における涅槃の表現の仕方であって、浄土は涅槃だわな。
それは全くそのとおり。
だから、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」。
そのことをはっきり言わんといかん。
そうであるのに、いまは偉い真宗の学者でも、浄土と涅槃が別のように言ったり、そこを曖昧に言う者がいる。
それじゃいかんわな。
浄土は涅槃よ。
そこは間違いないし、間違えちゃならない。



Q, 今日は本当に貴重な休憩の御時間をありがとうございました。


A, 問いを持つことはとても大事で、質問することはとても大事だね。
信心の問題は妥協しちゃならん。
無量寿経の中で、法蔵菩薩が世自在王仏に道を尋ねると、「汝みずからまさに知るべし」といったんは世自在王仏が突き放すね。
でも、法蔵菩薩は引き下がらないで、さらに重ねて問うと、世自在王仏は突き放したままではなくて、ちゃんと応えている。
あれは、信心の問題では、決して妥協せず、退いたりせず、進んで問いをしていくことの大切さと、それに応えることを教えている。
あの箇所を、ただ読み流していちゃいかんわね。


質問する時に、ただ理屈のことを聞いても仕方ないけれど、そうではなく、実存がかかった質問を大事にすることはとても大切。
それをどこまでも論理的に考えていくことは、とても大事だわね。
先ほど、浄土真宗は、いのちは、論理を超える、因果を破るということを言ったけれど、それは実存をかけた問いをつきつめて、論理を尽くして、その向こうにあること。
親鸞聖人も、ものすごく論理的だね、教行信証を読むと。
信巻の三心釈のところで、「仏意測りがたし」と言った上で、しかし、「ひそかにこの心を推するに」と述べて、つまり私たち凡夫の心がどうしようもないから、仏様が三心をたててくださったんだ、ということを述べている。
「仏意測りがたし」で仏様の心はわからない、と言った上で、「ひそかにこの心を推するに」、つまり自分としてこう考える、そして実存からの問いと答えを展開していく。
あれが本当の実存で、論理だわね。


いまは、真宗の学者でも、実存がかかっていない、知識だけのことになってしまっているのが多い。
哲学というのは、無限を相手にすることなんだけれど、その哲学をよくわからないのに、哲学のような理屈じゃだめだなどと言って、そしてただの知識だけを述べている人がいる。
それじゃいかんね。


(以上。それから、いろいろな人物についての面白い御話や、よもやま話、O先生の人生についての御話などもお聞きすることができた。貴重なひとときだった。)