報恩講

今日は親鸞聖人の御正忌報恩講
本願寺西本願寺)が、いつもネットで法話中継を毎年してくれるので、今年も聞いた。


それを聞きながら、ふと、以前、東本願寺所蔵の国宝の親鸞伝絵を博物館で見たことを思い出した。
親鸞聖人の涅槃の様子が描かれている箇所で、横たわりながら、とても静かなやわらかな笑顔を湛えている親鸞聖人の笑顔がとても印象的だった。
あのように、笑みを湛えながらこの世を去っていくことができれば、何よりも一番良いのかもしれない。
そして、それがいかなる人も、必ずできると説いたところが、法然上人や親鸞聖人のすごさだったのだと思う。
余計なことを言わず、ただ仏様の御恩の深さをよろこんで、念仏を称える。
それが法然上人や親鸞聖人の平生の、そして臨終のありかただったけれど、なんと自分のような凡夫はそこから程遠いものかとあらためて省みられる。


浄土真宗というのは、要するに、そのような生き方やこの世の終わり方の中の、スタイルとして、姿勢として、あるのだと思う。
以前、テーラワーダ仏教の団体の在家の中心人物で、非常に品性下劣でガラの悪い人間を見て、心底失望したことがある。
それと比べて、浄土真宗の人は、いったいに温厚でまともだと思う。
僧侶は別として、在家の質からいうと、そういうわけで、私はあんまり前者にいこうとは思えなくなった。
もちろん、釈尊にもダイバダッタがいたわけだし、テーラワーダの僧侶の方々はどの方も人類の宝とも言うべき素晴らしい方々で尊敬せずにはおられないけれど、在家の質を比較した場合は、必ずしも一概にどちらが良いかは言えない気がする。


たぶん、浄土真宗は、雑毒の善というものや宿業というものを深く見つめており、かつ如来の御慈悲というものを深く味わう宗教なので、おのずとそこに謙虚さや柔軟性というものが出てくるのだと思う。
私はそうしたところに、なんともゆかしさとなつかしさを感じる。


長い長い輪廻の中のいのちだということを、教えてくれるところが、仏教の他とは違うところなのだと思う。
この生まれてから死ぬまでの間だけのいのちでなく、もっとはるか過去から、そしてはるか未来へ続くいのちだと。
その中で、選んできた原因が、結果を生じてきているのだと。


そのうえで、業縁の中でどうにもならない凡夫にも、称えやすく保ちやすい念仏によって、微かに、しかし確実に、光が差すところが、浄土真宗の特色なのだと思う。


やっぱり自分は、浄土真宗なんだなぁと、報恩講のシーズンは、あらためてひしひしと感じる。

去年とおととしは、御本山にお参りに行くことができたから、今年もまたお参りにいけるといいなぁ