梯実円 「教行信証の宗教構造」

教行信証の宗教構造―真宗教義学体系

教行信証の宗教構造―真宗教義学体系


本当にすばらしい本だった。

御念仏に縁のある人や興味のある方には、一生に一度はぜひ読んで欲しい名著と思う。
いのちあるうちにこの本にめぐりあうことができ、読むことができて本当によかったと、読んだ人は必ず思うと思う。

生死一如、自他一如、怨親平等
それが実相であり、如来や浄土の領域であること。
しかし、凡夫である普通の人間は、自分を中心とした妄念の虚構の中で生きていながら、そのことに気づかず、実相・如来の領域については全く思いもよらない。
その凡夫の私が、如来のはかりしれない働きかけとおはからいのおかげで、念仏申す身に育てられ、本願をそのまま聴く信心をめぐまれるということの不思議。

親鸞聖人の説き明かした、はかりしれない深さと明るさとよろこびに満ちた風光が、この本には本当にわかりやすく解説されている。

浄土真宗や御念仏に縁のある方、興味のある方には、ぜひともオススメしたい一冊である。


「三世を超えた如来の智願が招喚の勅命(南無阿弥陀仏)となって一人一人の上に印現しているのが信心である。信心はそのまま勅命であるというような信の一念は、時を超えた永遠が、時と接して時の意味を転換するような内実を持っていた。
このような信の一念において、私の時間の意味、すなわち私の人生の意味と方向が転換する。それは煩悩にまみれた、しかも悔いに満ちた過去の中にも、大悲をこめて私を念じたまうた久遠の願心を感じ、そこに遠く宿縁を慶ぶという想いが開けてくる。また次第に迫ってくる死の影におびえ、人生の破滅という暗く閉じられた未来への想いを転じて、臨終を往生の縁と聞き開くことによって永遠の「いのち」を感じ、涅槃の浄土を期するという「ひかり」の地平が開けてくるのである。こうして信の一念という「いま」は、新たな過去と将来を開いていくような「現在」であるといえよう。本願を信ずるただ今の一念は、こうして如来、浄土を中心とした新しい意味を持った人生を開いていくのである。それを親鸞聖人は現生正定聚という言葉で表されたのであった。」(二〇六頁)

「また、親鸞聖人はこのような天親菩薩・曇鸞大師の真実功徳釈を承けて、「真実は如来なり」といわれたのであるが、そこから三つの事柄が明らかになる。第一は、真実は一面では如来・浄土として現われるが、一面では大悲本願の救いという形で万人の前に顕現してくるということである。そして救済の確かさを人々に信知させ、必ず救われるという疑いなき信心となって私どものうえに実現してくるということである。親鸞聖人が信心の徳を讃嘆して、「たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず」といい、信心とは如来の真実が私の上に顕現している姿であるから至心といい、真実信心といわれると釈顕された所以である。
第二には、法蔵菩薩の修行のありさまは、私どもに何が真実であり、何が虚偽であるかという、真実と不真実の判別の基準を示しているということである。自己中心的な想念に閉ざされている私どもは、是非、善悪の基準を自己におき、自是他非というゆがめられた価値感覚をもってすべてを計っていきがちである。こうした自己中心の想念を破って、万人が本来そうあらねばならない真如にかなった真実の生き方を聞くことによって、自分の生きざまの虚偽を思い知らされていく。いわゆる機の深信が呼び覚まされるのである。
こうして第三には、如来の真実を基準にした、正しい意味の是非・善悪の価値観が育てられていく。そして正しい生き方とは何であるかという道理の感覚が次第に育てられ、わが身の愚かさをつねに顧みつつ、み教えに導かれて生きようとするようになる。『蓮如上人御一代聞書』に「わが心にまかせずして心を責めよ」といわれるような生き方がが恵まれてくるのである。「責める」というのは、行いの過失や罪をとがめることであるが、ここでは、自分の犯した罪を恥じ、つつしむことを意味していた。私どもは、ともすれば人には厳しく、自分には寛容になりやすいものである。そしていろいろと言い訳をして、自分の罪を自分で許してしまいがちである。そうした自分勝手な考えた方や行動を厳しくたしなめ、私どもを悪から守ってくれるのが仏法の真実なのである。
如来の真実を仰ぐものには、自身の醜い行いを自己弁護したり、目を背けたりしないで、まっすぐに見つめて慚愧し、力のかぎり身をつつしみ、「和顔愛語」とか、「少欲知足」といわれた経説を、及ばずながらも実践していこうとするような行為の基準と方向性が明らかになる。それをたしなみというのである。そこにはいい意味での「いのち」の緊張感も生まれ、生きがいのある日々を送るようになる。それが如来のご照覧のもとに営まれていく人生というものである。」(二四七頁)