現代語訳 真盛上人 「奏進法語」
浄土に往生する御信心については、きっと御心においても日々に磨いておられることでしょう。
しかし、ご質問のことについて、少しだけ申し上げさせていただきます。
いつも念仏を称えて、その念仏の力によって浄土に往生するだろうと理解すること。
それも間違ってはおりません。
しかし、それでは、念仏と往生が別のもののようです。
ですので、いまだ全き安心とはいえない理解です。
ただ、いかなるありさまややり方にもこだわらず、南無阿弥陀仏と称えるのが、そのまま往生ということなのです。
「南無」というのは如来にまかせる心です。
この心は、即座に如来の光明の中に摂取され、その光明から捨てられることはありません。
この、迎えてくださり、摂取してくださる如来を、「阿弥陀仏」と称えあらわしているのです。
このようにおまかせする私たちの心と、救いとる如来の覚りとが、一つになっていることを、南無阿弥陀仏の「仏」と理解します。
ですので、「南無阿弥陀仏」ということにおいては、仏のお悟りがそのまま私たちの往生だとこそ御理解なさるべきです。
このように御理解なさって、ほんの少しの疑いの心もない状態であれば、手に数珠をもたず、口に念仏の声がない時であっても、この心を忘れていないことだけで念仏ということなのです。
とはいえ、御気持ちを御静めになる時は、ぜひぜひ念仏を称えることを積み重ねることに心を奮い立たせてお努めください。
これが、正しい身の上での正しい教えということでございます。
謹んで申し上げました。
原文
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20120420/1334886921