「念仏者の生き方の鏡」  (現代語訳・吹野清胤「念仏行者渡世のかがみ」)

「念仏者の生き方の鏡」  (現代語訳・吹野清胤「念仏行者渡世のかがみ」)


写(うつし)
南無阿弥陀仏
遺書


子や孫に届いた時に、心がけや理解のきっかけにでもなってくれればと思い、私が受けとめ理解したことのおおまかなことを、以下に書き記して残しておきます。



一、 自分はとても深い悪を根源的に抱えた存在であると思うならば、他の人に対して恨みを持ったりすることは一つも無くなります。人を恨む気持ちは、自分は善い存在だと思うところから起こります。よく考えれば、自分は深い悪を根源的に抱えた愚かな存在なのです。


一、 この命が終わった後に浄土に往生するということについて、自分の判断や処置を起すならば、ただ心を痛めるばかりであり、いつまでも安らかな思いはないことでしょう。自分の判断や処置を阿弥陀如来の本願に任せきってこそ、安らかな心はあることでしょう。自分の力がいったいどれほどあると思って、自分の力で判断し処置しようとするのでしょうか。


一、 長い年月の間、仏教の教えを聴聞したからといって、その手柄や効果で浄土に往生することはできません。また、仏教の教えを詳しく知ったとしても、浄土に往生することができるわけではありません。この命が終わったあとに浄土に往生するということは、ただ「信の一念」(阿弥陀如来から賜った信心)にあります。


一、 「信の一念」(阿弥陀如来から賜った信心)というのは、阿弥陀如来から信心をいただいた最初の一瞬ということです。つまり、南無阿弥陀仏の名号によって阿弥陀如来が私を救ってくださると受けとるだけのことです。さかしらに文章の上の理屈にばかり夢中になって、難しいことを言うならば、浄土への往生もまた難しいことです。私たちが浄土に往生するために必要な心も実践も阿弥陀如来の側で成就してくださった完全な南無阿弥陀仏の名号であるのに、どうしていろいろと自分が判断し処置しようというのでしょうか。簡単なことであれば簡単なことであるほど、阿弥陀如来から振り向けられた功徳が深く重いと受けとめたならば、ただひとすじに阿弥陀如来を仰いでおまかせする他はないことでしょう。そのようにおまかせする信心も、自分の頭が良いからおまかせする信心が起ったのではありません。もっぱら阿弥陀如来の本願力が、私に信心を与えて、救いとってくださるということなのです。このようにお任せした上は、阿弥陀如来の御恩に報いるためにこの命のある限りは、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏を続けていくだけのことです。このことも自分の判断や処置で称えることではありません。阿弥陀如来から賜った信心の最初の一瞬が、阿弥陀如来の本願力によるのであれば、それから多くの念仏を称えていくこともまた、阿弥陀如来の本願力なのです。阿弥陀如来の本願力を尊ぶべきです、喜ぶべきです。


一、 念仏を称えて生きていく身であれば、生き方や振る舞いにはよくよく注意して慎みを持って生きるべきです。水が清く澄んでいれば、その水面に映る月の光も鮮やかなものです。生き方や振る舞いが悪いものであれば、念仏の光が自分を通して現れることが難しくなってしまいます。


一、 怒りの心がもしも起ってきた時は、剣を鞘から抜き放って阿弥陀如来にいま自分は立ち向かっているのだと思うべきです。(そう思えば、そんなことができるはずはありません。)このような時は、早く南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、と称えて懺悔すべきです。


一、 歩いている時も立ちどまっている時も、坐っている時も寝ている時も、阿弥陀如来様の目の前にいて、み仏にお仕えしている身なのだと本当に思うならば、どうして悪い心のようなものを起すことができるでしょうか。また、どうして生き方や振る舞いをおろそかにすることができるでしょうか。阿弥陀様の目の前にいるのです、慎むべきです、慎むべきです。


一、 自分で好んでいるわけではなく、なんらかの縁に触れて煩悩が起きてしまうのは、火を消したあとに煙がたっているようなもので、浄土に往生する妨げとはなりません。ですので、悲しんだり疑ったりするべきではありません。このように縁が触れれば煩悩が起ってしまうことは、凡夫にとっては地金の本性だと親鸞聖人は仰せになられています。しかしながら、悪人をも救ってくださるのが阿弥陀如来の御本願だと言われていることを間違って理解して、煩悩を自らの主人として悪を行うことを恐れない状態であることは、いま先ほど言った煙ということではなく、強いて地獄へ堕ち、自分の身を焼き滅ぼす火をわざわざ求めているものです。はかりしれない過去世以来、悪をつくり善くないことをなしてきた私たちが、不思議なことに今回の人生で悪人をも救いとってくださるという阿弥陀如来の願いに救っていただいた以上は、自らの生き方を慎んだ上にもなお慎むべきです。悪を好むような者を善人とは経典も親鸞聖人もおっしゃられておりません。如来から信心をいただいた人を善人とも妙好人とも最上の人とも、お経や親鸞聖人はおっしゃっておられるのです。


一、 心に喜びがあること、あるいは喜びがないということをもって、浄土に往生できるかどうかと考えるべきではありません。昔の言葉に、「如来から賜った信心は歓喜の心を生じますが、歓喜の心が浄土に往生する原因というわけではありません。火は煙を生じますが、煙が物を焼くわけではないようなものです。」とあります。ですので、浄土に往生することができるのは、ただ南無阿弥陀仏です。たとえ心に喜びがない時であっても、このような者であればこそ、阿弥陀如来が願いをかけてくださっているのだと思えば、すぐにまた喜びとなっていきます。


一、 私を批判する人がいた時は、その人は私にとって人生を良く導いてくれる先生なのだと思うべきです。たとえ批判する人の側に間違いがあった場合であっても、そのことはかえって念仏の道にめぐりあえたわが身が幸せであることを確認させてくれるという意味での良い先生なのです。


一、 火事の家の中のようなものであるとお経の中で言われているこの人間世界で暮していれば、苦しみがあるのは当然のことです。この苦しみがあるからこそ、阿弥陀如来が願いを起してくださっているのです。この人生の苦しみがあったならば、ますます阿弥陀如来がかけてくださっている願いを仰ぐべきです。もしも、この人間世界でたった一日であっても無事に平穏に暮らすことができたならば、火事の中の家のような人間世界に暮らすこの身にとっては、不思議なほど幸せなことだと喜ぶべきです。たとえ身体が一生病気で悩まされることがあっても、悲しみ歎く心を転じて、ひたすら人間に生まれたことを喜ぶべきです。人間に生まれたから、阿弥陀如来の願いに遇うことができたのです。また、人間であることによってどれほどの妨げがあるとしても、地獄の苦しみには比較できません。そうであるのに、(このたび念仏の信心をいただいて)仏の覚りを得ることができるということには浅い喜びしか起さないということがあるのは、真実の信心の人にはあるまじきことです。よくよく思いめぐらせるべきです。この人生の今ある妨げや苦しみは、かりそめの夢ではないでしょうか。仏の覚りを得ることが、本来の人の心にとっての現実ではないでしょうか。そうであるならば、つまらない夢のことがらを歎くよりも、はかりしれないよろこびである本当の現実のことを喜ぶことこそかえって真実のことでしょう。


一、 この世を捨てたといって、この現実社会で生きていくための道徳を捨ててはなりません。世を捨てるということは、かりそめのものであるこの人間世界に執着しないということです。本当に世を捨てた人は、かえって現実社会での道徳はしっかりとしているものでしょう。


一、 人と出会い、別れる時は、今生での最後の出会いと別れだと思うべきです。また会えると思っていれば、真剣さがおろそかに自然となってしまいます。特に、仏教の上での出遇いについては、この心がけが特別に大事です。


一、 他人は自分です。自分は他人です。一般的に、他人に対して何かをする時は、受ける側の人の心になって行うならば、間違いは少ないことでしょう。


一、 今日行っていることに関して、場合によっては自分が疲れるのが嫌だと思って、他の人にその行為をさせて、その疲れを他人の側に押し付けようとする心が起るものです。世の中に自分が一人だけで住んでいると思うならば、一つとして苦にすることはないはずです。


一、 衣食住の三つのことは、阿弥陀如来から恵まれたものです。決して不足を言ったりせず、役に立たないことに費やしたりせずに、ただただ自分の身には恵まれすぎたことだと喜び、ありがたくいただくべきです。


一、 観光や娯楽などに心をそそいでいるのは、まだ仏教を味わうことが少ないからです。本当に仏教をよく味わい、この人生は御恩返しの一生だということが理解されたならば、役に立たないことには多くの時間を費やさないものです。


一、 自分は仏教者なのだと偉そうにしては決していけません。仏のみ教えを仰げば仰ぐほど、自分の身は謙虚に低くなっていくはずです。


一、 仏教を学ぶことに関しては、どこまでも善い先生を求め、そのもとで理解していくべきです。しかしながら、名声を求めたり、金銭的な利益を求めるような者になってはいけません。仏となる身となったことを喜びとするお念仏の信心をいただいた身が、わずかな世間的な名声や利益に執着していったいどうするのでしょうか。


一、 他の人々にほとけのみ教えを伝え広めて信心をとらせる身となったからといって、他の人にのみ勧めようとするならば、自分のことがお粗末になりやすいものです。まずは自分がしっかり仏のみ教えをいただいた幸せを喜んでいるならば、他の人はその姿を見て、自然と喜んでいくようになるものです。


一、 み仏の教えの上において、名声や金銭的な利益にばかり執着して、思い上がり、他の人と争って心を痛めるようなことになるよりは、念仏を称えて浄土に往生できることを喜んでいるべきです。


一、 この人に対してはあの人のことを批判し、あの人に対してはこの人のことを批判する。そうであるのに、自分に対して自分のことを批判するのは本当にめったにありません。情けないことです、情けないことです。


一、 この命が終わったならばどこに行くのか、浄土に往生するのかという重大な事柄に関しては、たとえ同じ事柄であっても、私たちはもともと愚かな凡夫なのですから、何度質問しようとも、恥ずかしいと思ってはなりません。地獄に堕ちることよりも恥ずかしいことはないのです。忘れてしまったことは何度も何度もお尋ねし質問するべきです。そうではあるのですが、愚かであるということに開き直って横着な人間になってはいけません。


一、 どれほどとどめようとしても、止めることが難しいのが悪い行いです。また、どれほど注意しても、起すことが難しいのは浄土に往生していく道の心です。残念に思うべきです。めったに得ることができない人間の身を、悪い行為をすることに任せているうちにいのちを失ってしまう人がいるのに、浄土に往生するという重大な事柄を阿弥陀如来の願いにお任せすれば、限りないいのちをいただくことができるということを喜ぶ人は本当にめったにいないのです。


一、 御法話の席においては、あんまり前に突出して席をとるべきではありません。まず、他の方々の中で、耳が遠かったり、身体が不自由な御同行がいらっしゃれば、その方に御講師の先生に近い席をお勧めして、自分の身が健康ならば末席の方に控えて聴聞していくべきです。また、御同行の中に、もし浄土真宗の理解を間違えて述べている人などがいたとしても、決してあざ笑ったりするような心は持ってはいけません。たとえば、自分の家族の中に目の見えない人がいて、間違って井戸の中に落ちようとしているならば、決してただ眺めて笑っているような場合ではないことでしょう。


一、 世間の人は、知識を増やして、人の上に立つことを喜びとします。しかし、この人生はこの人生限りのものではないと知り、このいのちが終わってもずっといのちは続いていくということを知っている者は、自分の愚かさを自覚して、人の下になって支えて、かえってそのことに多くの喜びを見出していくものです。


一、 人と集まって話し合う時にも、役に立たない言葉は言わず、念仏にその言葉をとりかえていくべきです。南無阿弥陀仏というすぐれた行為は、私たち凡夫にふさわしいものとして仕上げていただいた、あらゆる行為のお徳がつめこまれた素晴らしい名号です。ですので、この名号を称えていくことが、何よりもこの人生を御恩返しのものとしていく素晴らしい行為なのです。


一、 たとえ、本当に小さなささやかな昆虫であったとしても、決して粗末にしてはいけません。南無阿弥陀仏がその中に込められているのです。また、思いめぐらせば、遠い昔の私の姿です。み仏の教えを受ける縁から遠い者ほど、気の毒に思い、慈悲の心をかけるべきです。親鸞聖人は「この世界は皆兄弟だ」とおっしゃられたのですから、私たち生きとし生けるものはきっとみんな血を分けた家族なのです。


一、 ともすれば、自分の心の好き勝手に自分の心を任せやすいものです。どんな事柄も、どんな事に対しても、如来からいただいた御信心に御相談して、この世を過ごしていくべきです。


一、 氷はかたいものですが、太陽の力によってもとの水に溶けるものです。私たちは罪業が深く情けない存在ですが、阿弥陀如来の願いの御力によって、今回、仏の覚りを開かせていただくのです。


(和歌の訳は省略)


くれぐれも、このいのちが終わったらどこに行くのか、浄土に往生すべきだという一大事に関して、間違いを犯さぬように心を用いるべきです。


明治二十一年九月 吹野清胤 (捺印)
子孫に伝えます
南無阿弥陀仏



原文
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20120422/1335093804