吹野清胤 念仏行者渡世のかがみ

吹野清胤「念仏行者渡世のかがみ」という本をタイピングしてみた。

明治二十一年に書かれた本らしい。
今は全く忘れられている本。

しかし、本当にすばらしい、念仏者がこの世を生きていく上での心がけが明瞭に書かれた稀なる本だと思う。

吹野清胤という人物がどのような人物だったか全然わからないが、自分が一生の間で受けとめて味わってきた念仏の智慧を、子孫のために遺言として書き残したものらしい。

多くの人に読んで欲しい。





吹野清胤 「念仏行者渡世のかがみ」


写(うつし)


南無阿弥陀仏


遺書


子孫に至り、心得の端にもならばやと思い、予が受得せるあらましを、左にしるして残し置きぬ。


一、 極悪深重のものと思えば、人に対して恨みとすること一つもなし。ひとを恨むは、我を善きものと思うゆえなり。我はくれぐれも極悪深重のいたずらものなりと存じ候。


一、 往生について、わがはからいを起さば、ただこころを痛めるばかりにて、いつまでも安き思いはあるべからず。わがはからいを御本願にうちまかせたてまつればこそ、こころ安くはあるべきなり。わが力いかほどあると思はば、自力をはからいと為すや。


一、 年久しく聴聞せしとて、その功にても往生すべからず。また、法義をくわしくしたりとも、往生かなうべからず。往生は、ただ信の一念にあり。


一、 一念というは、信楽開発の一念なり。すなわち南無阿弥陀仏にてたすけたまうと信ずるばかりなり。さかざかしく文相にのみ耽りて、むつかしく申さば、往生もまたむつかしきなり。我らが願行御成就ありし円満の徳号なるに、何とてさまざまにはからうことの候や。易ければ易きほど功徳は深重なりと承れば、ただひとすじに仰いで信ずるほかはなかるべし。その信ずる心もわが賢くして信ずるにはあらず。偏(ひとえ)に他力より信ぜさせてたすけたまうなるべし。さて、信じての上には、仏恩報謝のために命のあらん限り南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と相続いたすばかりなり。それもわがはからいにて称うるに非ず。一念の信心他力なれば多念もまた他力なり。尊むべし、喜ぶべし。


一、 念仏申す身は、品行をよくよく慎むべし。水清ければ写る月影もあざやかなり。品行悪しければ、念仏の光り顕われ難し。


一、 瞋恚のこころ起らば、つるぎを抜いて如来に向かうたりと思いぬべし。かかる時には早く南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と懺悔すべし。


一、 行住坐臥、如来の御前に仕えたてまつり居ると真実思わば、いかで悪し様なる心の起こさるべきや。また、いかで行状をも粗略にせらるべきや。如来の御前なり、慎むべし、慎むべし。


一、 自ら好まざれども縁に触れて煩悩の起こるは、火を消したる跡の煙の如きものにて、往生の障りとはならざれば、悲しみ疑うべからず。これらを凡夫の地性とは仰せられ候なり。しかるに、悪人摂取の御本願と言えるを心得違えて、煩悩を主とし悪を恐れざるありなば、前(さき)に言える煙には非ずして、強いて地獄へ堕ち、わが身を焼くべき火をわざわざ求めるものなり。無始以来、造悪不善の我らが、不思議にもこのたび悪人摂取の御本願にたすけられまいらせつる上は、慎みてもなお慎むべきことなり。悪を好むを善人とは仰せられ候わず。信心の人を善人とも妙好人とも最上人とも仰せられ候なり。


一、 喜び喜ばぬを以て往生の得否を思うべからず。古語に、「信は歓喜を生ずれども、歓喜は往生の因にあらず。火は煙を生ずれども、煙は物を焼かざるが如し。」とあれば、往生すべきは、ただ南無阿弥陀仏なり。たとい喜びなき折にも、かかるものなればこそ御本願のましますなりと思えば、直ぐにまた喜びとなるなり。


一、 我を誹謗せる人あらば、善知識と思うべし。たとい誹謗者に誤りあるにせよ、わが身の仕合わせを喜ばしむるの知識なり。


一、 火宅に住まば苦しみあるは当然なり。苦しみあるゆえに御本願のましますなり。苦しみあらば、いよいよ御本願を仰ぐべし。もし、一日たりとも無事に暮らさば、火宅の身には不思議の仕合わせと喜ぶべし。たとい身は一生病(やまい)に悩むとも、歎くこころをひるがえして、ひたすら人間に生まれしことを喜ぶべし。人間に生まれしゆえ、御本願に遇いたてまつるなり。また、人間にていかほどの障りあるとも、地獄の苦しみには較ぶべからず。しかるに、仏果を得るとには喜び浅きあり、真実信心の人にはあるまじきことなり。よくよく思いめぐらすべし。今日の障りは仮妄の夢ならずや。仏果を得るとは本心のうつつならずや。しかれば、由(よし)なき夢を歎かんより、無量快楽のうつつを喜ぶこそなかなかまことなれ。


一、 世を捨てたりとて俗諦を捨つべからず。世を捨てるとは、仮妄の境界に執着せざるを言うなり。真実世を捨てたる人はかえって俗諦は堅固なるべし。


一、 人に逢い別れる時は今生の暇乞(いとまご)いと思うべし。また逢うと思えば深切もおのずからおろそかになるなり。また、御法については格別のことなり。


一、 人は我なり。我は人なり。総じて人に向かいて事を為す時は、受ける人のこころになりて事を為さば、誤りも少なかるべし。


一、 今日の所作に、あるいはわが疲れを厭いて、それを他人へ譲らんとする心起こるなり。世の中に我(われ)ひとり住むと思えば、一つとして苦にする事なきはずなり。


一、 衣食住の三つは如来の賜物なれば、必ず不足を申さず、無益の事にも費しをなさで、ただただわが身には過分の賜物と喜びありがたく頂戴すべし。


一、 花鳥風月等に心を寄せるは、未だ法味の少なきがゆえなり。真実御報謝の身と知られなば、無益の時間は費やさざるなり。


一、 我は仏法者なりとて必ず身を高く持つべからず。法を仰がば仰ぐほど身は低くなるべきものなり。


一、 法義はあくまでも善き師を求めて弁(わきま)うべし。ただし、名聞利養の沙汰者にはなるべからず。仏果を喜ぶ身がわずか世間の名利に執着して何にかはせん。


一、 教人信の身なればとて、人をのみ勧めんとせば、わが手許(てもと)大様になりやすし。まずわが身の仕合わせを喜び居なば、人はそれを見ておのずから喜びぬものなり。


一、 名聞利養の法義沙汰者となりて我慢に誇り争いを起してこころを痛めんよりは、念仏申して往生を喜ぶべし。


一、 この人に向かいてはかの人の事を誹謗し、またかの人に向かいてはこの人の事を誹謗す。しかる所、我に向かいて我の事を誹謗することは至りて稀なり。あさまし、あさまし。


一、 往生の一大事、たとい一つ廉目(かどめ)にせよ、我らはもとより愚痴の凡夫なれば、いくたび尋ねるとも、恥とは思うべからず。地獄に堕つるより恥かしきことはなきなり。忘れしことは幾度も幾度も尋ね問わせ候べし。さあればとて愚痴をたのみにはすべからず。


一、 いかほど留めても止みがたきは悪事なり。またいかほど諌めても発(おこ)り難きは往生の道なり。惜しむべし。受けがたき身を悪事には任せていのちを失う人はあるとも、往生の一大事を御本願に任せて無量寿のいのちを喜ぶ人は甚だ稀なり。


一、 御法の席にあまりぬきん出ては座すべからず。まず他に耳遠く身不自由なる同行あらば、それを知識と御座近く進めまいらせ、わが身は壮健なれば末座に控えて聴聞しいたすべし。また、同行の中にもし領解を心得違えて述べらるる等のことあるとも、必ず嘲り笑う如きのこころを持つべからず。たとえば、家族に盲人ありて、誤りて井中に落ちんとせば、決して眺め笑うの場合には非ざるべし。


一、 世間者は物知りとなりて人の上に立つを喜びとすれども、後世者は愚痴になりて人の下にいて喜びは多きものなり。


一、 人の談合の節にもなるべく無益の詞(ことば)は念仏にかえらるべし。南無阿弥陀仏の妙行は我ら凡夫に相応したる万行円備の嘉号なれば、報恩の大行なり。


一、 たといわずかの虫とても必ずおろそかにすべからず。南無阿弥陀仏の籠らせたまうなり。また思いめぐらせば、古(いにしえ)のわが身なり。仏法の縁に遠きものほど不憫に思いあわれみを懸くるべし。聖人(※親鸞聖人)は四海皆兄弟と仰せられ候えば、我ら一切衆生は皆血を分けた親族なるべし。


一、 ややもすればわが心に任せやすし。何事も何事も御信心に伺いたてまつりて世を運ぶべし。


一、 氷は剛(こわ)きものなれども、日輪の力にて元の水に解けるなり。我らは罪深くあさましきものなれども、御本願の力にてこのたび仏になるなり。


秋の夜を 啼いてありせる 虫の音は わが古(いにしえ)の 声にぞありける
隔てける こころの雲に さえられて とおき眺めや 山の端の月
皆人の 何歎くらん いそとせの あだし浮き世に 身を任せつる
夢の世を うつつとのみに 心得て ゆめにもしらぬ うつつなりけり
別れては また逢うことの かたければ なごりときけよ 法(のり)の言の葉
いずこより いずこへ行くや しらねども やどれる音の 庭の松風
古(いにし)えも 今も末をも 隔てぬは うき世の外(ほか)の こころなりけり
ちり果てて 色も香りも むなしきは 花のまことの すがたなりけり
あらむより 憐れと思え 世の人の 重ねる罪の 末のなげきを
怒るなよ 御法(みのり)の庭に すめる身は 弥陀の心の ねがうまじきを


かえすがえすも往生の一大事を誤らざるようこころを用い候べし


明治二十一年九月


吹野清胤 判


子孫に伝う


南無阿弥陀仏