メモ 浄土教における善悪

どうも、法然上人や親鸞聖人は善悪を分別しない生き方を説いていたという誤解をされている方がいるようなので、明確に違うことを指摘しておきます。

まず、法然上人は、以下の文章を見れば、小さな悪も慎むべきことを明確に説いていたことは明確です。

「罪は十悪五逆の者も生まると信じて、
 小罪をも犯すさじと思うべし。 」(一紙小消息)

「十重を保ちて、十念を唱えよ。
四十八軽を、守りて、四十八願を頼むは、心に深く、希うところ也。
おおよそ、何れの行を、専らにすとも,心に戒行を、保ちて、浮綯うを、守るが如くにして、身に威儀に、油鉢を、かたぶけずば、行として成就せずと、云うこと無し。願として、円満せずと、云うこと無し。しかるを。
我ら、或いは四十を、犯し、十悪を行ず。彼も、犯し、これも、行ず。一人として、誠の戒行を、具したる者はなし。
諸悪莫作,諸善奉行は,三世の諸佛の通戒也。
善を修する者は、善趣の報を得、悪を行ずる者は、悪道の果を感ずという、此の因果の道理を聞けども、聞かざるが如し。
初めて、云うに、能わず。然れども、分に従いて、悪業を、止めよ。
縁にふれて、念仏を行じ、往生を期すべし。 」(元祖大師御法語後編十八 (登山状))



「念仏して往生するに不足なしといいて、悪業をもはばからず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をもはげまさざらん事は、仏教のおきてに相違する也。たとえば、父母の慈悲は、よき子をも、あしき子をもはぐくめども、よき子をばよろこび、あしき子をばなげくがごとし。仏は一切衆生をあわれみて、よきをもあしきをもわたし給えども、善人を見てはよろこび、悪人を見てはかなしみ給える也。よき地によき種をまかんがごとし。かまえて善人にして、しかも念仏を修すべし。是を、真実に仏教にしたがうものという也。」
(『元祖大師御法語』第二十一「随順仏教」)


次に、親鸞聖人もそうであったことは明確です。

「まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。

 しかるになほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬになほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり、毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。

 はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ。かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには、まことにこの身をもいとひ、流転せんことをもかなしみて、ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。

 この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。」(御消息 第二)


往生には、善悪は関係なく、阿弥陀如来の平等の慈悲によって摂取されているという信心によって往生するとされていますが、だからといって、生き方がどうでもいいなどということは法然上人も親鸞聖人も説かれていません。
むしろ、念仏を主とするがゆえに、煩悩への繊細な感覚が育てられ、悪い縁をできる限り遠ざけ、善い縁を求める生き方を心がけていくのが念仏者としてあるべきこととして説かれているわけです。