メモ

「つつしみて軽心をもつて三業をほしいままにすることなかれ。業道分明なり欺くべからず。」
(軽々しい心で身体・言葉・心の三業を野放しにしてはなりません。自業自得の道理は明白です、決してごまかすことはできません) 
(善導大師)


「あまねく衆生に勧む。三業を護り、行住坐臥に弥陀を念じ、一切時中に地獄を憶して、増上の往生心を発起せよ。誓願して三塗の業を作らざれ。」
(善導大師)

「願わくば、わが身浄きこと香爐のごとく、願わくば、わが心智慧の火のごとくして、 念々に戒定の香を焚焼して、十方三世の仏を供養したてまつらん。」
(善導大師)



「あまねく勧む、三福を弘めて、ことごとく五焼を滅せしむ。 心を発して功すでに至れば、念を係くるに罪すなはち消ゆ。」
(皆様に勧めます、三福(親孝行や道徳や因果の道理を深く信頼すること等)を広めて、五戒に反する悪行をこの世にないようにさせます。信心が発起して如来の功徳回向がすでに届いているので、念仏するごとに罪はたちまち消えていきます。)
(善導大師)


「歴劫よりこのかた懐ける嫉妬、我慢、放逸は痴によりて生ず。つねに瞋恚毒害の火をもつて、智慧・慈・善根を焚焼す。今日思惟しはじめて惺悟して、大精進随喜の心を発す。」
(長い輪廻の中でずっと持ってきた嫉妬やおごりたかぶりや放逸は、無明によって生じてきました。輪廻の中で、いつも怒りや自他を害する心の火が、智慧や慈悲の心や功徳を焼き尽くしてきました。今日、そのことを思いめぐらし、はじめて目が覚めて、念仏に大いに精進し随喜する心が起きました。)
(善導大師)


「三界は火宅にして居止しがたし。仏の願力に乗じて西方に往かん。般舟三昧楽、慈恩を報ずることを念じてつねに頂戴せよ。」
(善導大師)


「ゆめあひ勧めて貪瞋を断ぜよ。貪瞋の因縁聖土を障ふ。みづから悟ることを得ずして永く沈淪す。同行あひ親しみてあひ策励し、畢命を期となして仏前に到らん。」
(善導大師)



「般舟三昧楽、悲喜交流して深くみずから慶ぶ」
(念仏三昧のよろこびよ、悲しみと喜びがこもごも交じって心を通り抜け、深いよろこびが私の心に起こります。)
(善導大師)



「洪鐘響くといえども、かならず扣(つ)くを待ちてまさに鳴る。 大聖の慈を垂れたまふこと、かならず請を待ちてまさに説くべし。」
(鐘は鳴るとしても、人が撞いてからはじめて鳴る。それと同じように、釈尊が慈悲の説法をするのも、人が質問をしてはじめて行われる。)
(善導大師)




「ただ願わくば、わが身、身は虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽さん。 われ身業をもつて恭敬し供養し礼拝し、来去を迎送して運度して尽さしめん。 またわれ口業をもつて讃歎し説法して、みなわが化を受けて、言の下に道を得るもの、尽さしめん。 またわれ意業をもつて入定観察し、身は法界に分身して機に応じて度して、一として尽さざるはなからん。 われこの願を発す。運々増長してなほ虚空のごとく、処として遍せざるはなく、行流無尽にして後際を徹窮し、身に疲倦なく心に厭足なからん。」

(ただ願わくば、私は、身体はこの宇宙と同じくゆきわたり、心も宇宙にひとしくゆきわたって、生きとし生けるものの性質をよく観察し尽くすことができますように。私は身体の業によって、生きとし生けるものを敬い、養い、礼拝し、来るものを迎え、去るものを送り、悟りへ運び救い尽くすことができますように。また、私は言葉の業によって、仏を讃歎し、仏の教えを説法し、皆が私の良い感化や影響を受けて、その言葉の力によって正しい道を得させ尽くすことができますように。また、私は、心の業によって、瞑想し、観想し、身体を宇宙に分けて、生きとし生けるもののそれぞれの機根に応じて救い、ひとりももらすことなく救い尽くすことができますように。私はこの願いを起します。いつも少しずつこの願いに沿って成長し、あたかも宇宙のように行きわたらない場所はなく、そのための行為は尽きることなく続いて、ずっと未来のはてまでも貫徹し、身心ともにたゆむことがありませんように。)



「もし苦の因を作ればすなはち苦の果を感じ、もし楽の因を作ればすなはち楽の果を感ず。 印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。 疑ふことを得ず。」
(善導大師)


「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。 しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。」
(善導大師)



「いうこと典に関らざるは君子の慚づるところなり」
(典拠なく何かを言うことを立派な人物は恥とするものです)
(善導大師)



「諸仏の大慈、心に応じてすなはち現じたまふ」
(善導大師)



「ただ一切の生命において慈心を起すは、すなわちこれ一切衆生に寿命安楽を施す。またこれ最上勝妙の戒なり。」
(善導大師)



「念仏というは、すなわちもっぱら阿弥陀仏の口業の功徳、身業の功徳、意業の功徳を念ず。 一切の諸仏もまたかくのごとし。」
(善導大師)


「あるいは人ありて三種分(慈心不殺・読誦大乗・六念)なきを、名づけて人の皮を着たる畜生となす、人と名づくるにあらず。」
(善導大師)





「秀存語録」を読んでいたら、なるほどーっと思う箇所があった。

「一八七 念仏為本」
 
 『涅槃経』に云く、「我は欲を根本となす、一切苦悩は愛を根本となす、一切疾病は宿食を本となす、一切の斷事は闘諍を本となし、一切悪事は虚妄を本となす。」
 我等は、「念仏を本となす」べき也。

なるほどーっ。
「念仏為本」って、こういうことだったんだなぁ。。



「明け暮れに、仏の心にしたがはむと思ふべきなり。わが名をあげむ、こがねを多くたくはへんなど思ふて文などよむは、あさましきことなり。仏の心といふは、広くもろもろの生きとし生けるものを安らかにせむとなり。」(一蓮院秀存)



「専求浄仏土必成如是刹」(無量寿経


「凡夫の眼は一部を知りて全てを裁くの眼なり、仏の眼は智慧と慈悲の眼、すべてを知りて、全てを救うの眼なり。」(武内洞達)




「海には水ばかり、水を受けもつ底あり、才市は悪ばかり、悪を受けもつ阿弥陀仏あり、うれしや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」
(浅原才市)

「信機流れて慚愧となる、慚愧あるが故に、憍慢ならず。信法流れて歓喜となる、歓喜あるが故に、卑屈ならず。」
(松島善海)



「(華厳)
一輪の 華を飾りて 今日もまた 浄土へかえる 旅を続けむ」
(山本仏骨)



「宿(さき)の世に いかなる縁(えにし) ありてかは 弥陀につかふる 身とはなりぬる」(永観律師)



「安養(浄土)の行者、宿善すでに大なり。甚だ自愛すべし。ゆめゆめ軽んずることなかれ。自ら知る、宿福甚幸なり。何ぞ当来の勝利を疑わんや。」(珍海『決定往生集』)


「往生をうることは念仏の益なり。教法にあうことは宿善の故なり。もし宿善にあらずして直に法にあふといわば、なんぞ諸仏の神力一時に衆生をつくし、如来の大悲一念に菩提をえしめざる。しかるに仏教にあうに遅速あり、解脱をうるに前後あるは、宿善の厚薄にこたえ、修行の強弱による。」
覚如上人)



「往生の因とは宿世の善ならず、今生の善もならず。教法にあうことは宿善の縁にこたえ、往生をえることは本願の力による。」
覚如上人)




「善きことばをば喜びて、悪しきことばにくじけざれ」

「私にとって、愛しく好ましいもののすべては、変わりゆく、離れてゆくものである。」

「自分の心のありさまによく通達したものになろう」

「生じつつある苦こそがまさに生じるのであり、滅しつつある苦こそがまさに滅するのである。」
釈尊


「世の別は業に由りて生ず。思、及び、思の所作なり。思は即ち是れ意業なり。所作は謂く身・語なり。」(倶舎論、業品)



政治に魂の救済を求めるべきではなく、魂の救済を求めるならば個人的な信仰をもってしてすべきで、政治はそこから峻別し、政治に共同性や魂の救済を求める議論の欺瞞性を批判的に検討する。というのが、たぶん西洋の伝統にはあったのだろう。これはとても大事なことだと思う。



「吟味されざる人生は、人間にとって生きるべからざる人生なのです。」(ソクラテス


「(最大の幸せとは)毎日、徳についてもろもろの言論をわが身に作ること」(ソクラテス


「不正を犯すこと、より優れたもの(神や人間)に不服従であること、は悪しくまた恥ずべきことである。」(ソクラテス


「身体にも金銭にもかしづいてはならない。魂にかしづき、それができるだけ最上のものであるようにすることだ。」(ソクラテス


『山本仏骨法話集』第二巻を読み終わった。本当にすばらしくて、ただただよろこび味わい讃嘆するばかり。浄土真宗の信心とは何か、光明とは何か、念仏生活とは何か、明晰に明瞭に教えられる。浄土真宗とは何かを知りたい人は、これを読むのが最も良いかもしれない。「浄土の影をうつす」私も心がけよう




「われらいまだかつて道を修せざるがゆえに、いたづらに無辺劫を歴たり。
いまもし勤修せずは、未来もまたしかるべし。
かくのごとく無量生死のなかには、人身を得ることはなはだ難し。
たとひ人身を得たれども、もろもろの根を具することまた難し。
たとひ諸根を具すれども、仏教に遇ふことまた難し。
たとひ仏教に遇ふとも、信心をなすことまた難し。」

源信『往生要集』)




「いまこの界の衆生は、三十二相において、たれか一相をも得たる、五神通においてたれか一通をも得たる。 灯・日にあらずはもつて照らすことなく、行歩にあらずはもつて至ることなし。 一紙なりといへどもそのほかを見ず。 一念なりといへどもその後を知らず。 燓籠いまだ出でずして、事に随ひて礙あり。 」
源信『往生要集』)


「一世の勤修は、これ須臾のあひだなり。 なんぞ衆事を棄てて浄土を求めざらんや。願わくばもろもろの行者、ゆめ懈ることなかれ。」(源信『往生要集』)



「もし人ありて、我見を執すること須弥山の大きさのごとくせんをば、われ驚怖せず、また毀呰せず。 増上慢の人の、空見に執着すること一髦髪を十六分になさんがごとくせんをば、われ許可(ゆる)さず」
(無上依経)
「もしある人が、我剣に執着して、須弥山のように大きな自信を持っていたとしても、私は驚きもしませんし、とがめもしません。
しかし、悟りもしないのに悟ったと思いあがっている人が、空の見解に執着した時は、その執着が髪の毛を十六分にしたほどわずかなものであっても、私は許しません。」


「この念をなすべし、「願わくば、仏の光明、われを照らして、生死の業苦を滅したまへ」と。 」(源信『往生要集』)


「この念をなすべし、「いま弥陀如来は、はるかにわが身業を見そなはすらん」と。」(源信『往生要集』)



「極楽を願求すること、これ自利の心にあらず。しかる所以は、いまこの娑婆世界は留難多し。甘露のいまだ沾わざるに、苦海朝宗しぬ。初心の行者、なんの暇ありてか道を修せん。ゆえにいま菩薩の願行を円満して、自在に一切衆生を利益せんと欲ふがために、まず極楽を求むるなり。自利のためにはせず。」
源信


「もし相好を観念するに堪へざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。行住坐臥、語黙作々に、つねにこの念をもつて胸のなかに在くこと、飢して食を念(おも)うがごとくし、渇して水を追うがごとくせよ。」(源信


「修するところの功徳と及び三際の一切善根とを、自他法界の一切衆生に回向して、平等に利益し、罪を滅し善を生じてともに極楽に生じて、普賢の行願を速疾に円満し、自他同じく無上菩提を証して、未来際を尽すまで衆生を利益し、法界に回施して、大菩提に回向するなり。」(源信


「阿耨菩提の意、すなはちこれ薩婆若に応ずる心なりと。「応」というは、心を繋けて、われまさに仏に作るべしと願ずるなり。」(大智度論


「たとえば、竜の行くに、雲すなわちこれに随うがごとく、心もし西に逝けば、業またこれに随う。」(迦才)



「十方世界のもろもろの有情、念々に安楽国に往生す。彼すでに丈夫なり。われもまたしかなり。みずから軽んじて退屈をなすべからず。」(源信



「この念をなすべし、「われ、いますでに仏の尊号を聞くことを得たり。 願わくば、われまさに仏に作(な)りて十方の諸仏のごとくあるべし」と。」(源信


「念ずべし、「願わくば仏、わが宿業をして清浄ならしめたまへ」と。」(源信


「この念をなすべし、「弥陀如来はわが三業を照見したまうらん。 願わくば、世尊のごとく慧眼第一に浄なることを得ん」と。」(源信


「この念をなすべし、「弥陀如来はつねにわが身を照らし、わが善根を護念し、わが機縁を観察したまう。 われもし機縁熟せば、時を失わずして接を被りなん」と。」(源信


「念ずべし、「われいづれの時にか本有の性を顕すことを得ん」と。」(源信


「この念をなすべし、「あるいは大千の猛火聚を過ぎ、あるいは億劫を経とも、法を求むべし。われすでに深三昧に値遇せり。いかんぞ退屈して勤修せざらん」と。」(源信


「自法に愛染するがゆゑに、他人の法を毀訾するは、持戒の行人なりといへども、地獄の苦を脱れず。」(大智度論


念仏三昧、六つの助縁。
持戒不犯。不起邪見。不生驕慢。不恚不嫉。勇猛精進して、頭燃を救ふがごとくす。読誦大乗。



「つねに心が師となりて、心を師とせざるべし。」(源信


「念ずべし、「いま、わが惑心に具足せる八万四千の塵労門と、かの弥陀仏の具足したまえる八万四千の波羅蜜門とは、本来空寂にして、一体無礙なり。 貪欲はすなわちこれ道なり。 恚・痴またかくのごとし。水と氷との、性の異なる処にあらざるがごとし。 ゆえに経にのたまはく、「煩悩・菩提は体無二なり。 生死・涅槃は異処にあらず」と。 われいま、いまだ智火の分あらざるがゆえに、煩悩の氷を解きて功徳の水となすことあたわず。 願わくば仏、われを哀愍して、その所得の法のごとく、定慧力をもって荘厳し、これをもって解脱せしめたまへ」と。」(源信


「われ一切の過を悔いて、もろもろの道徳を明かしたまえと勧め、帰命して諸仏を礼したてまつる。無上の慧を得しめたまえ。」(弥勒菩薩本願経)


「大菩提心と、三業を護ると、深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずとは、願に随ひて決定して極楽に生ず。」(源信