長嶋さんの追悼の番組をテレビで見ていて、紹介されていた文章でいくつか胸打たれるものがあった。
一つは、サトウハチローの詩である。
サトウハチロー 「長嶋茂雄選手を讃える詩」
疲れきった時
どうしても筆が進まなくなった時
いらいらした時
すべてのものがいやになった時
ボクはいつでも
長嶋茂雄のことを思い浮かべる
長嶋茂雄はやっているのだ
長嶋茂雄はいつでもやっているのだ
どんな時でも
自分できりぬけ
自分でコンディションをととのえ
晴れやかな顔をして
微笑さえたたえて
グランドを走りまわっているのだ
ボクは長嶋茂雄のその姿に拍手をおくる
と同時に
「えらい奴だなァ」と心から想う
ひとにはやさしく
おのれにはきびしく
長嶋茂雄はこれなのだ
我が家でのんきそうに
愛児達とたわむれている時でも
長嶋茂雄は
いつでもからだのことを考えている
天気のいい日には青空に語りかけ
雨の日には
天からおりてくる細い糸に手をふり
自分をととのえているのだ
出来るかぎり立派に
長嶋茂雄はそれだけを思っている
その他のことは何も思わない
ボクは長嶋茂雄を心の底から愛している
自分をきたえあげて行く
長嶋茂雄のその日その日に
ボクは深く深く 頭をさげる
良い詩だと思う。
あと、立教大学にある長嶋さんの記念碑の言葉と、3年前に福岡の嘉穂中学に送ったという手紙の文面に胸打たれた。
・ 立教大学にある長嶋茂雄記念碑の文章:
「自分の持っているもの、
そのすべてを出し切ったら、
悔いのない一生になるはずです。
そのために社会に出たら
自分をどう表現したらいいのか。
僕はそれを学ぶのが学生生活だと思います。
自分を甘やかさないで、
何事にも積極的に取り組んで、
社会に出たら示すものをたくさん蓄えてください。」
・ 福岡の嘉穂中学に宛てた手紙(2022年):
「この度は、メッセージをいただきまして、誠にありがとうございました。みなさんが心を込めて書いてくださったメッセージをひとつひとつ、しっかりと読ませていただきました。私のことを知らないみなさんが、「道徳」の授業をきっかけに興味を抱いてくださり、そして、感動までして下さったことに、嬉しく、逆に私の方が、勇気をいただきました。つつしんで御礼申しあげます。
先日、私は、86歳になりました。みなさんからすれば、ごく普通のおじいちゃんにしかすぎません。ただ、そんな私が、今でも大切にしている思いが、この度、みなさんが教科書で学ばれた『へこたれない心』です。そして、そのへこたれない心を作っている源が、『努力』なのです。努力とは、あることを成し遂げるために、休んだり怠けたりすることなく、一生懸命、つとめあげることを言います。聞きなれた言葉ではあるけれど、実は、とっても意味が深い、格好いい言葉なのです。そこで、私は、未来を担うみなさんに、この度、この言葉を贈ろうと考え、色紙にしたためました。利き腕は動かないため、左手で思いを込めて、ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて、そしてみなさんの顔を想像しながら、書き上げました。
負けそうになった時、くじけそうになった時は、ぜひ、へこたれない心を思い出して、努力にはげんでください。この度は、本当にありがとうございました。」
その他、知的障害者のロックグループがバックコーラスをお願いしたら、快く引き受けて一緒に歌って録音してくれた、という話や、遠征先の宮崎のホテルでは従業員全員ひとりひとりに必ず気さくに話しかけて感謝や料理がおいしいと言っていた、という話や、札幌でよく行くうなぎ屋の大将が若くして息子を亡くした時に、会いに来てくれて、ともかくお店を続けて欲しい、と言ってくれて、それがなければ自分はとっくに店を畳んでつぶれていたろう、と言っていた話などが、胸に残った。
テリー伊藤が、学生運動で負傷して視力も悪化し、自分の人生もめちゃくちゃなときに、病院のベッドでラジオ中継で長嶋の試合を聞いていて、長嶋が打ってくれたら自分の人生はやり直せる、やり直そう、思い祈りながら中継を聞いていたら、本当に打って勝ってくれた、と目を潤ませながら話していたのも印象的だった。
さだまさしも、13歳で上京して一人暮らしで苦学する中、いろんなストレスや孤独や鬱屈した思いがあったのが、長嶋の試合の活躍ですべて気持ちが明るくなって救われて乗り越えることができた、と話していた。
それらを見ていて思うのは、これは決して西洋的な意味ではなくて、日本的な意味でだけれど、長嶋さんはある意味、戦後の日本にとって「神」だったのではないかと思う。
昭和の時代においては、長嶋さんと美空ひばりは、何か他を絶した、現人神みたいなものだったんだろうなぁと思う。
これが西洋的な意味や制度的なものになってしまうとおかしくいびつになってくるんだろうけれど、日本の古来の自然な自発的な形の、人なんだけど何か人を超えたものを体現しているような存在として、長嶋さんはあったんだろうなぁと思われた。
ああいう人はもう現れないのかもしれない。
戦争中は敵性スポーツとして野球は抑圧されていたそうだが、戦後に焼け野原で自由にプレーすることができるようになった、その中で現れた、底抜けに明るいスターだったのだろう。
野球の能力や業績においては長嶋さんを超える人はその後にいたし、これからも現れるかもしれないが、ああいう人はもういないのだろうと思う。
せめてその光のいくばくかを、知っている人は忘れずに大切な思い出にすることができるぐらいだろうか。
一つは、サトウハチローの詩である。
サトウハチロー 「長嶋茂雄選手を讃える詩」
疲れきった時
どうしても筆が進まなくなった時
いらいらした時
すべてのものがいやになった時
ボクはいつでも
長嶋茂雄のことを思い浮かべる
長嶋茂雄はやっているのだ
長嶋茂雄はいつでもやっているのだ
どんな時でも
自分できりぬけ
自分でコンディションをととのえ
晴れやかな顔をして
微笑さえたたえて
グランドを走りまわっているのだ
ボクは長嶋茂雄のその姿に拍手をおくる
と同時に
「えらい奴だなァ」と心から想う
ひとにはやさしく
おのれにはきびしく
長嶋茂雄はこれなのだ
我が家でのんきそうに
愛児達とたわむれている時でも
長嶋茂雄は
いつでもからだのことを考えている
天気のいい日には青空に語りかけ
雨の日には
天からおりてくる細い糸に手をふり
自分をととのえているのだ
出来るかぎり立派に
長嶋茂雄はそれだけを思っている
その他のことは何も思わない
ボクは長嶋茂雄を心の底から愛している
自分をきたえあげて行く
長嶋茂雄のその日その日に
ボクは深く深く 頭をさげる
良い詩だと思う。
あと、立教大学にある長嶋さんの記念碑の言葉と、3年前に福岡の嘉穂中学に送ったという手紙の文面に胸打たれた。
・ 立教大学にある長嶋茂雄記念碑の文章:
「自分の持っているもの、
そのすべてを出し切ったら、
悔いのない一生になるはずです。
そのために社会に出たら
自分をどう表現したらいいのか。
僕はそれを学ぶのが学生生活だと思います。
自分を甘やかさないで、
何事にも積極的に取り組んで、
社会に出たら示すものをたくさん蓄えてください。」
・ 福岡の嘉穂中学に宛てた手紙(2022年):
「この度は、メッセージをいただきまして、誠にありがとうございました。みなさんが心を込めて書いてくださったメッセージをひとつひとつ、しっかりと読ませていただきました。私のことを知らないみなさんが、「道徳」の授業をきっかけに興味を抱いてくださり、そして、感動までして下さったことに、嬉しく、逆に私の方が、勇気をいただきました。つつしんで御礼申しあげます。
先日、私は、86歳になりました。みなさんからすれば、ごく普通のおじいちゃんにしかすぎません。ただ、そんな私が、今でも大切にしている思いが、この度、みなさんが教科書で学ばれた『へこたれない心』です。そして、そのへこたれない心を作っている源が、『努力』なのです。努力とは、あることを成し遂げるために、休んだり怠けたりすることなく、一生懸命、つとめあげることを言います。聞きなれた言葉ではあるけれど、実は、とっても意味が深い、格好いい言葉なのです。そこで、私は、未来を担うみなさんに、この度、この言葉を贈ろうと考え、色紙にしたためました。利き腕は動かないため、左手で思いを込めて、ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて、そしてみなさんの顔を想像しながら、書き上げました。
負けそうになった時、くじけそうになった時は、ぜひ、へこたれない心を思い出して、努力にはげんでください。この度は、本当にありがとうございました。」
その他、知的障害者のロックグループがバックコーラスをお願いしたら、快く引き受けて一緒に歌って録音してくれた、という話や、遠征先の宮崎のホテルでは従業員全員ひとりひとりに必ず気さくに話しかけて感謝や料理がおいしいと言っていた、という話や、札幌でよく行くうなぎ屋の大将が若くして息子を亡くした時に、会いに来てくれて、ともかくお店を続けて欲しい、と言ってくれて、それがなければ自分はとっくに店を畳んでつぶれていたろう、と言っていた話などが、胸に残った。
テリー伊藤が、学生運動で負傷して視力も悪化し、自分の人生もめちゃくちゃなときに、病院のベッドでラジオ中継で長嶋の試合を聞いていて、長嶋が打ってくれたら自分の人生はやり直せる、やり直そう、思い祈りながら中継を聞いていたら、本当に打って勝ってくれた、と目を潤ませながら話していたのも印象的だった。
さだまさしも、13歳で上京して一人暮らしで苦学する中、いろんなストレスや孤独や鬱屈した思いがあったのが、長嶋の試合の活躍ですべて気持ちが明るくなって救われて乗り越えることができた、と話していた。
それらを見ていて思うのは、これは決して西洋的な意味ではなくて、日本的な意味でだけれど、長嶋さんはある意味、戦後の日本にとって「神」だったのではないかと思う。
昭和の時代においては、長嶋さんと美空ひばりは、何か他を絶した、現人神みたいなものだったんだろうなぁと思う。
これが西洋的な意味や制度的なものになってしまうとおかしくいびつになってくるんだろうけれど、日本の古来の自然な自発的な形の、人なんだけど何か人を超えたものを体現しているような存在として、長嶋さんはあったんだろうなぁと思われた。
ああいう人はもう現れないのかもしれない。
戦争中は敵性スポーツとして野球は抑圧されていたそうだが、戦後に焼け野原で自由にプレーすることができるようになった、その中で現れた、底抜けに明るいスターだったのだろう。
野球の能力や業績においては長嶋さんを超える人はその後にいたし、これからも現れるかもしれないが、ああいう人はもういないのだろうと思う。
せめてその光のいくばくかを、知っている人は忘れずに大切な思い出にすることができるぐらいだろうか。