真朗上人法語

真朗上人法語


そもそも得生浄土の要道は、ただ安心の如何にぞありける。
それ安心とは即ち三心なり。
三心とは即ち一心なり。一心とは即ち、俯してこの身の拙なきを顧りみ、仰いでかの願の深きを頼み、口に南無阿弥陀仏と称ふるが即ち本願摂取の正定の業なりと信じて、疑いの心なき一心をば、往生の安心とは申すなり。
かく安心決定せし上は、ただ明け暮れに仏の御名を称うるが、信行具足の人にして、決定往生疑いあるべからず。
しかるに、馴るるに怠たるは、我等凡夫の常にして、已作の煩悩業も罪過も嫌い給わぬが本願と、耳おろそかに聞きなれて、己が三業を護るの心なく、生きてはこの世の王法にも触れ、死してはかの仏の願網にも漏れなん人のあらんを、深くあはれみたまひて、往生業の御法の上に、更に戒門の一路を開き、堪うるに任せて、現作未作の悪業をも護らしめ、この土ばかりは十方衆生の御喚声(およびごえ)に随いて、吾れ人ともに、順次の往生を逐げしめんとの御教えは、うつも抱くも、ともにこれ世の父母のわが子を育つる慈悲にこそありけれ。
およそ、わが朝、中古以来、念仏弘通の高祖知識に乏しからざるその中に、わが祖国師の世に出でましまして、弘く我等が為にとて、この戒称二門を以て御化導ありし、広大深重の御恩徳を、厚く信じ奉り、事毎(ことごと)に悪しきを慎み、称名念仏怠たらざる、これ当流安心獲得の人にして、往生一定、めでたかるべきものなり。あなかしこ。
明治十二年五月日