どろさん「日蓮上人書『念仏無間地獄抄』を破釈する 」

どろさんが昔書いていた文章を転載する。

たぶん、全集にも載っていないと思う。



【目次】

1.はじめに

2.【日蓮上人『念仏無間抄』のこと】

3.【念仏は釈迦の正法である法華経を誹謗し、こわす教えですか】

4.【念仏は釈迦を捨てて他人である阿弥陀仏にすがる忘恩・反逆の教えですか】

5.【念仏は時代遅れで用済みになった役に立たない教えですか】

6.【〈念仏は方便だから釈尊によって捨てられた教えですか】

7.【念仏は創始者でさえ救われなかった教えですか】

8.【『法華経』とはどんなお経ですか】



【はじめに】

 「念仏を唱えていても阿弥陀如来の浄土へは行けない。」
 「それどころか念仏を唱えていると地獄に堕ちる。」

 こういう教えを真面目に説いている集団があります。
 言わずと知れた創価学会など日蓮宗各派です。
 このような誹謗を受けながらも、私たち浄土真宗門徒法然上人・親鸞聖人のころから、他宗との法論を慎んで参りました。

 法然上人は『七箇条起請文』において、お釈迦さまに対して、こう誓っておられます。

 「一、学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。」(1)

 親鸞聖人の仰せを唯円坊が記し留めた『歎異抄』にはこうあります。  
 
 「たとえ諸門がこぞって、念仏は甲斐のないひとのためである、その宗は浅く卑しいと言っても、さらにあらそわないで、われらがごとく下根の凡夫、文字さえろくに読めない者の、信ずれば助かるとの教えを、うけたまわりて信じておりますりで、さらに上根の人には卑しくとも、われらがためには、最上の法にておわします。たとえ他の教えはすぐれていると言っても、自分にはその素質がないので、つとめがたいのです。われもひとも、生死の迷いをはなれることこそ、諸仏の御本意でありますので、お妨げにならないでください・・・」
 「争論のところにはもろもろの煩悩がおこる。智者は遠く離れなさい。」(2)

 蓮如証人はご文章でこうおっしゃいます。

 「一、諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。」
 「一 当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。」(3)

 しかしながら、昨今はインターネットの普及と共に、「念仏無間(念仏を唱えると地獄に堕ちる)」などという誹謗が日蓮宗創価学会のホームページに掲載されており、また信者の手によるそのような書き込みが掲示板やブログなどで目に付くようになりました。
 この教えにはなんの根拠もなく、日蓮上人が最高の経典であると仰いだ法華経にさえ反するものです。
 しかし念仏無間を教えられ信じている人たちは、「浄土真宗がこれになんらの反論もしないのは、やはり念仏無間の教えが正しいのだ」と自信を持っております。
 何も知らない一般市民はどのように見ているでしょうか。

 一向専心に念仏を唱えれば阿弥陀如来の本願に載せていただき、浄土往生は疑いないことであります。これは釈尊の直言であって、無間地獄に堕ちるなどという教えは釈尊の教えを否定するものと言わざるをえません。このような誤った認識がはびこっては浄土門全体のためにならないのではないだろうか、こう考え、争わずといえども宗門の立場と教えをはっきりとさせ、後々のために、浅学を顧みず邪義を破釈しておこうとする次第です。
 ここに記すことは、けっして自分の独りよがりの考えに陥らないように、経典の裏付けをはっきりさせ、経文にはできるだけ忠実に現代語訳をつけました。しかしながら専門の学問を積んでおらない在家の一末端門徒のこと、間違いもあろうかと存じます。
 その場合はご容赦願い、誤りが直ちに訂正できるよう、ご意見を御願い致します。



2.【日蓮上人『念仏無間抄』のこと】

 日蓮上人は、その生きておられた鎌倉時代の人々の悲惨な現実に心を痛め、これを救えない仏法とはなんぞやと鋭く考えぬかれた方でした。残念なことに、当時の浄土門の僧侶のなかには、人々の苦しみをよそに、教団の利益本位で行動していた方もおられたようです。民衆救済が僧の役割であるはずなのに、なんたることであるかと、日蓮上人は一部の念仏僧の堕落した生き方を見て、激しく軽侮されたことと思います。
 日本の国や、苦しむ衆生を救うには法華経しかないと上人は確信され、なかんずく法華経の神髄は「南無妙法蓮華経」にありという法門をたてられ、その題目を広めるためにいかなる迫害にもめげずに信仰を貫き通されました。栄誉を求めず、富も求めず、信仰一筋に生きられた、その面ではとても立派な方でした。

 しかしです。
 上人は「無南無妙法蓮華経」だけが正しい教えであり、その他の法門はすべて時代遅れで役に立たないと決め付けられました。そしてさらに、そのような教えにしがみついていることは、すなわちただ一つ正しい「南無妙法蓮華経」を誹謗するものだと一方的に断罪されました。
 「念仏を唱えていると無間地獄に堕ちる。」「律宗国賊である。」「真言宗は亡国の教えである。」「禅宗は天魔である。」と激しく非難されました。(4)
 とりわけ念仏については最大の魔であるといい、「念仏を広める僧侶を殺しても、蚊を殺したほどの罪にもならない」と最大級の罵倒をなげかけたのでした(5)。
 念仏に対する攻撃の激しさは、念仏を否定するために『念仏無間地獄抄』という書をわざわざ書き表すほどでした。
 『念仏無間地獄抄』は日蓮上人の念仏についての考え方が最もよくまとまっており、上人の教義の根幹に念仏否定があることがよく分かる書物です。
 そこでこの小文は『念仏無間地獄抄』を基本テキストにして、日蓮上人の教えの誤りを解いていきたいと考えます。

 【『念仏無間地獄抄』に書いてあること】

 『念仏無間地獄抄』に書いてあるのは、大きく分ければ六つです。

◇ 念仏は釈迦の正法である法華経を誹謗し、こわす教えである。
◇ 念仏は釈迦を捨てて他人である阿弥陀仏にすがる忘恩・反逆の教えである。
◇ 念仏は時代遅れで用済みになった役に立たない教えである。
◇ 念仏は釈尊によって捨てられた教えである。
◇ 念仏は創始者でさえ救われなかった教えである。
◇ 念仏は国に逆らって弾圧された教えである。

 日蓮上人は博覧強記の方で、どんな書もたくさんの経典を縦横無尽に引用して、理論的に教えを説かれる方でした。『念仏無間地獄抄』にもいろいろな経文が引いてあります。
 しかしどうも誤読も多い方で、普通に読めばそうは読めないだろうというような読み方を随所でなさっています。そのために論理についていくのが大変なのですが、そのあたりをしっかり押さえないと、どうして上人が間違っているのかが分からなくなりますので、なるべく経文にもとづいて破釈していこうと思います。煩わしいとお感じになるかも知れませんが、ご了承ください。
 それから、日蓮上人を破釈するのに私たちの経典である『大無量寿経』など浄土三部経に基づいても相手に伝わりませんので、ほとんどは『妙法蓮華経』を使い、法華経の教えから見ても日蓮上人の教えが誤っていることを示すことに致します。



3.【念仏は釈迦の正法である法華経を誹謗し、こわす教えですか】?

「念仏は無間地獄に堕ちる業因である。
 法華経は成仏し得道する直路である。
 早く浄土宗を捨て、法華経を持ち、生死の苦しみから離れ、悟りを得るべきである。」

 このように、『念仏無間地獄抄』に於いて日蓮上人はまず結論から述べています。
 根拠として提示されているのは『法華経譬喩品』です。
 
 「もし人が信じずに此の経を毀(こわ)し、誹謗(ひぼう)すれば、すなわち一切世間から仏の種を断ちきり、其の人の命が終れば阿鼻地獄に入るだろう。」
妙法蓮華経譬喩品第三)(6)

 そして、「方便の念仏」と「真実の法華」を比較対象し、「方便の念仏」を信じて「真実の法華」を信じない者は無間地獄に堕ちると結論づけているのです。

 「念仏無間地獄抄」には以下のように書いてあります。

 「念仏者は言う、我らの素養は法華経を学ぶに足りないので信じないだけだ、毀損や誹謗をしていないのに、なんの罪で地獄に堕ちるべきなのか。
 法華宗は言う、法華経を信じていないことは認めるのか。
 毀損・誹謗というのは、すなわち信じないことなのだ。信は仏道の源、功徳の母という。(中略)そこで法華経譬喩品の十四誹謗も、不信を以て本質としている。
 今の念仏門は不信といい誹謗といい、阿鼻地獄の苦しみを逃れることはできないのだ。」

 浄土門法華経を誹謗し、毀損しているなど、とんでもない意見です。
 また法華経が「信じない者は地獄堕ち」という教えだというのも大間違いです。
 日蓮上人は「なにごとにつけても経典にもとづくべきだ、人士の解釈にもとづいてはならない」と言います。(7)その言葉は正しいと思います。
 ところが自分はちっとも経典にもとづかないで、勝手なことばかり言うのが特徴です。
 しかも批判相手である浄土門の言い分も正しく理解していません。
 このことを示すため、まず法華経を見てみます。その後に浄土門の本当の主張を確かめます。

3.【念仏は釈迦の正法である法華経を誹謗し、こわす教えですか】?

法華経の思想】

 まず法華経です。法華経は信じない者にはどうせよと書いてあるでしょうか。

 「未来世において、もし善男子・善女人があって、如来智慧を信ずる者には、まさにそれらの人のためにこの法華経を演説して、聞知させなさい。これはその人に仏慧を得させるためです。もし衆生あって信受しない者には、まさに如来の余の深法の中において教えを示し、利喜しなさい。あなたたちがよくこのとおりにすれば、すなわち諸仏の恩に報いたことになります。」(属累品第二十二)(8)


 法華経を信じなければ地獄に堕とすどころか、他の教えを説きなさいとていねい書いてあるのです。
 釈尊の「余の深法」を説いて教えを示しなさいというのです。
 「余の深法」とは、法華経以外の教えのことです。
 『大無量寿経』にはつぎの一文があります。

 一向専心 乃至十念 念無量寿仏 願生其国 若聞★深法 歓喜信楽 不生疑惑
(『仏説無量寿経』巻下72)

 「深法」という言葉が見えていますが、これは『大無量寿経』を指します。
 『観無量寿経』にもやはり「深法」と書いてあり、ここでは仏法を指しています。(9)
 「深法」と翻訳されている言葉は、原文のサンスクリット語では、「正法」と訳されているのと同じ単語だそうです。阿弥陀如来の第十八願に見える、「唯除五逆正法」の「正法」です。つまり「余の深法」とは『大無量寿経』のことでもあり、広くは釈尊の教え全体を言うのです。

 それでは法華経には二つの教えがあるのでしょうか。

 「信じない者には余の深法を示しなさい」
 「信じない者は地獄堕ち」

 この二つは相互に矛盾していますね。
 一つの経典の中にに矛盾のあるはずがないので、それならば間違っているのは解釈の方です。

 法華経に書いてあることをよく読みましょう。
 地獄に堕ちる条件は、「信じない」+「法華経をこわす(うち捨てる)」+「誹謗する(あげつらい、あなどる)」の三条件です。
 これだけそろうと、もう助けられないよということです。
 けれども信じないだけならば、信じられるように、その人に合った他の教えを示しなさいというのです。
 こういうことなら、どこにも矛盾がありません。
 日蓮上人のように読んだら、経典内部に矛盾が生じます。
 矛盾のある方とない方、正しい解釈はどちらでしょうか。
 矛盾のない方が正しいに決まっていますね。

 この解釈が正しいことは、法華経の中身で分かります。
 「信じない者は阿鼻地獄だぞ」と書いてあると日蓮上人が仰有る譬喩品に、まさしく信じない人が現れているのです。
 それはお釈迦さまの弟子の中でも知恵一番と評されている舎利弗(シャリホツ)です。
 『観無量寿経』に出てくる、あの舎利弗です。
 その舎利弗が、釈尊を疑っていたと告白しているのです。(10)
 彼はまた、みんなが疑っているから、疑いを除くためにお話しくださいと釈尊にお願いまでしています。(11)
 彼らの疑いを取り除いたのは、釈尊の懇切丁寧な教えでした。
 釈迦在世中にしてこれなのですから、現代の聴衆が疑いを抱いたぐらいで地獄に堕とされたのではたまりませんね。そういう人には、やさしく説き聞かせなさいというのが法華経の教えなのです。
 なんで大聖人は法華経の行者のくせに法華経の教えを守らないで正反対のことを言うのでしょうか。

3.【念仏は釈迦の正法である法華経を誹謗し、こわす教えですか】?

 【浄土門の思想】

 つぎに浄土門の教えです。
 法然上人の『選択本願念仏集』八章には善導大師の『観経疏』散善義が引用してあり、こう書いてあります。

 「なんといおうか、仏法の不思議の力は。どうして種々の益がないことがあろうか。
 したがって一の法門を全うすれば、すなわち一の煩悩門より脱出するのである。
 したがって一の法門に入れば、すなわち一の解脱智慧の門より入るのである。」

 釈尊のすべての教えが正しく人を悟りに導いてくれると言っています。
 もちろんこの中には法華経も含まれています。
 それではどうして法華経の修行ではなく念仏を勧めているのでしょうか。

 「いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
 それにもかかわらず、そなたたちは、たとえそれが重要な修業の一つであっても、縁遠いものをもってきて修業をすすめ、我われをまどわしさまたげようとするのか。
 今、我われが願い求めているのは、我われに最もふさわしい修業法であり、
そなたたちが求めようとしているものではない。そなたが願い求めているのは、そなたにとって最もふさわしいものであろうが、我々が求めているものではない。
 誰もが、それぞれ願うところにしたがい、最も自分にふさわしい修業をすれば、必ず早く迷いの世界を出て、悟りを得ることができる。仏の道を歩もうとする修業者は、このことをよく知ってほしい。もし、教えを学ぼうとするならば、凡夫の立場から聖者の境地に至り、さらに悟りを得て仏になるまで、自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。また修業したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく、最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。こうした方法をとれば、多少の苦労はあっても、大きな仏益を得ることができよう。」(12)

 このように、法然上人は「仏縁」をキーワードに、自由な選択を求めています。
 「機縁」、すなわち「機根(素質)」にあった教えと出会うのが仏縁だということでしょうか。比叡山で智恵第一と言われたほどの上人ですが、愚かな自分には天台の修行で悟りを開くことはできないとの自覚のもとに、それまで愚か者のための程度の低い教えとされていた念仏を選択したのでした。

 親鸞聖人は『歎異抄』に残された言葉では、このように語られたそうです。

「たとえ他の教えはすぐれていると言っても、自分にはその素質がないので、つとめがたいのです。」(13)

 他の教えの中には当然法華経も入っているでしょう。その教えを信じないというのではなく、すぐれていることは信じているのだが、つとめがたいと仰有るのです。
 不信というのは経典に問題があると考えるから信じないことになるのでしょうが、親鸞聖人の仰有るのは、教えに問題があるのではなく、こちら側に問題がある。
 ですから不信ではなく、修行不能なだけなのですね。
 『教行心証』の化身土巻・末(104)では、こう仰有っています

 「ひそかに以(おもん)みれば、聖教の行証久しく廃れ・・・」

 廃れているのは人間の行う「行(修行)」とその「証(結果)」であって、お釈迦さまの教えが廃れたとは仰有っていません。ですから『歎異抄』と同じ思想がここにあるわけです。
 蓮如上人は「わがたのまず、信ぜぬばかりなり」と御文章に書いておられますが、これは仏法を疑っているから信じないという意味ではなく、他宗に入信しないというほどの意味でしょう。蓮如上人にとっては、阿弥陀如来を信じればそれはすなわち直ちに他の諸仏菩薩に帰することなので、当然法華経を流布しているはずの菩薩・摩訶薩にも帰しているという思想だったと思います。(第2帖3)
 
 このように法華経には「法華経を信じない者は地獄に堕とす」という思想はなく、しかも浄土門徒は法華経を信じないのではありません。もちろん学んだことがないので知らない人の方が多いでしょう。知らないのと信じないのとでは天と地ほども違います。 宗祖が「他の教えはすぐれている」とまで言い切っておられるのに、不信と決め付けるとは、大聖人はのっけから大ハズレなことを堂々と断言しているのです。
 論証が進めば、どこまでいってもこの調子であることが明らかになっていくでしょう。

4.【念仏は釈迦を捨てて他人である阿弥陀仏にすがる忘恩・反逆の教えですか】?

 【阿弥陀如来は他人ではありません】

 『念仏無間抄』において、念仏は他人である阿弥陀仏を頼み、私たちにとっては「主・師・親」の三徳を備えておられる、本当の師である釈尊との関係性を断ち切るから地獄堕ちだと大聖人は言います。

 「浄土宗には現在の父である教主釈尊を捨てて、他人である阿弥陀仏を信ずる故に、仏法最大の罪である『五逆罪』の咎によって、必ず無間地獄に堕ちるべきである。」
 「この仏(釈迦)を捨て、他方の仏を信じ、阿弥陀・薬師・大日等をおがみ奉る人は、『二十逆罪』咎によって悪道に堕ちるべきなのである。」

 まったく見当はずれの主張です。
 釈尊が「主・師・親」の三徳を備えておられるところまではその通りですが、そこから先はすべて大聖人の勝手な思いこみ・独断であり、経典に根拠をもちません。

 なぜならば阿弥陀如来の名を呼びなさいという教えは、他ならぬ釈尊が語られたのですから。
 「阿弥陀仏」という名を教示したのも、「南無阿弥陀仏」と唱えなさいと唱え方まで教示して下さったのも釈尊です。
 浄土三部経にそれは明らかですね。

 『仏説無量寿経』において釈尊から「無量寿仏」の名前が明かされます。
 無量はサンスクリット語の「アミータ」の意訳です。
 「無量寿仏=」「アミータ仏」=「阿弥陀仏」ということです。
 そして阿弥陀如来の浄土に往生したいなら、心をこめて念ずればよいと、釈尊が語られています。

一向専心 乃至十念 念無量寿仏 願生其国 若聞★深法 歓喜信楽 不生疑惑 
(『仏説無量寿経』巻下72)

 このように念仏は釈迦により奨励されています。
 また、この教えを「深法」と称していることにも注目です。
 前項で見た「余の深法」ですね。
 しかも、阿弥陀如来は我々と無縁どころか、法華経に堂々と登場しておられるのです。
 「薬王菩薩本事品」には女人が阿弥陀仏の安楽世界に往生すると書いてありますし、「化城品」には釈尊阿弥陀如来は前世で兄弟だったと書いてあります。法華経にこう書いてあるのに、どうして他人であるはずがありましょう。法華経が真実の教えだと日蓮上人は仰有るのですから、真実の教えに登場する阿弥陀如来も真実の如来に決まっているではありませんか。

4.【念仏は釈迦を捨てて他人である阿弥陀仏にすがる忘恩・反逆の教えですか】?

 【方便仏ということ】

 こういうと、日蓮宗系の人たちは必ずそれは違うといいます。
 阿弥陀如来は方便の仏だが、釈迦如来は方便の仏ではないと言うのです。
 たしかに阿弥陀如来は方便仏です。
 親鸞聖人は『教行心証』にこう書かれています。

 「しかれば弥陀如来は如より来生して報・応・化種種の姿を現したまうなり。」
 (『教行心証』(証)4)
 
 『唯信鈔文意』において親鸞聖人はもともと如来の本質である法身というものは色もなく形もないものだと語られており、一如からかたちをあらわされたのが方便法身としての阿弥陀如来であると説明なさっています。不可思議で、こころもおよばれず、ことばも絶えた、物質的存在であるとも、物質的存在でないとも言えないのが法身であると。だから目に見える阿弥陀如来を方便仏というのですが、方便は外形のことであって、内実は方便ではありません。(『唯信鈔文意』103)

 後に詳しく説明しますが、法華経は他の経典と違って方便としての経典ではなく、真実の教えが書いてあると日蓮上人は言います。
 法華経に方便ではない真実の教えが書いてあるのならば、そこに現れる阿弥陀如来も真実ということになるはずですが、日蓮上人は違うというのです。
 「体内の権」だと難しいことを言います。
 阿弥陀如来はどこまでも方便でしかなく、法華経に現れているのはただの「体内の権」であると。
 「体内の権」であるというのはどういう意味でしょうか。
 「体内」とは法華経の中という意味です。「権」とは「仮」という意味で、方便というのと同じ意味です。
 つまり、方便としての阿弥陀如来法華経に現れているのは、法華経の中の方便だということになります。
 なんのことはない、同じ内容を言い方を変えて二回繰り返しているだけで、何の説明にもなっていません。
 要するに説明がつかないのです。
 どうして説明がつかないかと言えば、法華経は真実の教え、他の教えは方便の教えということにしたから、矛盾が生じたのです。つまりそういう位置づけがそもそもおかしいのです。

 まとめます。

・念仏は釈尊の教えである。
釈尊に従っているのに釈尊を捨てているというのは言いがかり)
阿弥陀如来法華経に登場する。
(私たちと無関係という理屈は成り立たない)
・念仏は「余の深法」である。
(それを説きなさいと法華経に記してある)

これは釈尊の勅言です。
釈迦直々の勧めについてこれを否定するのみならず、
法華経を自分勝手な読解でゆがめて念仏を地獄堕ちだと決めつけ、念仏をすてろという。
こんな己義(自分本位の解釈)こそが、正法を誹謗するものであると言わざるを得ません。

5.【念仏は時代遅れで用済みになった役に立たない教えですか】?

 【日蓮の思想】

 「五時経判」というものがあります。
 天台宗の仏教解釈で、お釈迦さまが悟りを開かれてから亡くなられるまでを五つの期間に分けて、それぞれにどういう教えが説かれたかを配置したものです。
 日蓮上人はもともと天台宗の人で、天台宗と同じく法華経を第一の経典と考えた方ですから、この五時経判が正しいものとされています。

 『念仏無間地獄抄』で日蓮上人は仰有います。

 浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内、第三期の方等部の内より出たものである。
 この四巻三部の経は全く釈尊の本意ではなかった。
 ただしばらく衆生を誘い引きいれるための方便である。
 建物を建てるときの足場のようなもので、建物(法華経)が立ってしまえば取り払われなければならない。

 【すべての教えは方便である】

 方等経という言葉が出てきましたので説明しますと、方等とは方便のことです。
 方等経という言葉はあとでまた出てきますから、キーワードとして覚えておいてください。

 浄土三部経を方等経=方便経というのは間違っていません。
 そもそもお釈迦さまの教えはすべて方便なのですから。
 そもそも言語で真理を的確に説明することなど、できないことです。
 人間は不完全な知性と言語しか持っていませんので、世界の実相を言葉で説明しようとしても、説明限界があるのです。言葉で表そうとしてもできないものをなんとか言葉で説明しようとすれば、それは方便とならざるを得ません。
 詳しくは後の項で述べます。ともかくいまは、お釈迦さまの解いた真理とは言葉に出来ないもので、譬えなどで表現するしかないことだけ知っておいてください。
 そういうことなので、言葉で解かれた法華経もやはり方便なのです。他の経は方便で、法華経だけは真理という解釈は、釈尊が意図しないものであると思います。

 けれども法華経至上主義の立場からは、他の経は方便で、法華経だけは真理という教説を学問的に裏付ける必要がありました。そういう動機で作られたのが、「五時経判」です。後付の学説なので、その理論には矛盾がいっぱいあるのです。
 じつはこの解釈は天台宗のみが唱えているものです。他の宗派はこれが正しいとは考えていません。
 また浄土三部経が釈迦の本意でなかったという思想は大聖人だけが唱えていることで、もちろん経典に書いてあることではありません。
 法華経が出れば浄土三部経が用済みになるという思想も法華経のものではありません。
 つまりどれも全部デタラメなのです。
 そのことを示すため、まず「釈尊一代五時の説教」の矛盾を明らかにします。
 つぎに浄土三部経が用済みになっていないことを、他ならぬ法華経から証明します。

5.【念仏は時代遅れで用済みになった役に立たない教えですか】?

 【五時経判の誤り】

 天台の五時の教判とは、主な経典を時代区分して分類するものです。
 釈尊は最初に華厳経を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な阿含経を説き、その後、人々の理解の進み具合に応じて、方等経、般若経を説き、最後の8年間で法華経と涅槃経を説いたというのです。
 方等経の中に浄土三部経が入っていることはすでに述べましたね。
 五時経判の時代区分には多くの矛盾点が指摘されています。

 ?悟りを得て21日間に説かれたはずの華厳経の中に、早くもお釈迦さまの道場である祇園精舎が出てきます。華厳経は難しくてみんなが理解できなかったというのに、熱心な支持者が現れて、たった21日間で広大な祇園精舎を作ったことになります。あり得ませんね。
 ?同じく華厳経には舎利弗、目蓮というお弟子が出てきますが、彼らが釈迦に出会ったのは悟りを開いて後、7~8年目ごろです。21日間に出会うのは矛盾です。
 ?華厳経のつぎに説かれたはずの阿含経の中に、釈尊が亡くなる様子が説かれています。
 他にもあるそうですが、ともかく、こういうずさんな推論をもとに法華経が最高の教えだというのが「五時の経判」ですから、他宗派は認めていないのです。もちろん近代仏教学の研究では、五時経判はけんもほろろに扱われています。

 【法華経の思想 法華経以後も浄土三部経は大切】

 繰り返しますと、大聖人がおっしゃるには、
 「浄土の三部経とは釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出たものである。」
 浄土三部経は「方等経典」だというのですね。
 それは間違ってはいません。
 しかし法華経が説かれたのだから方等経典はもう用済みだと、いらぬことを付け加えるから間違いになるのです。
 なぜ間違いなのか、そのことを法華経自体から示します。

 法華経の結経である『仏説観普賢菩薩行法経』には次の通り書いてあります。

◆【方等経典】 は為れ慈悲の主なり。
(方等経典。為慈悲主。)

◆其れ 【大乗方等経典】 を誦読することあらば、当に知るべし、此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧より生ずるなり。
(其有誦読。大乗方等経典。当知此人。具仏功徳。諸悪永滅。従仏慧生。)

◆仏の滅度の後、仏の諸の弟子もし 【方等経典】 を受持し読誦し解説することあらば、念力強きが故に我が身及び多宝仏塔・十方分身の無量の諸仏・普賢菩薩文殊師利菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩を見たてまつることを得ん。
(仏滅度後。仏諸弟子。若有受持。読誦解説。方等経典。念力強故。得見我身。及多宝仏塔。十方分身。無量諸仏。普賢菩薩文殊師利菩薩。薬王菩薩。薬上菩薩。)

◆但 【大乗方等経】を誦するが故に、諸仏・菩薩昼夜に是の持法の者を供養したまわん。
(但誦大乗方等経故。諸仏菩薩。昼夜供養。是持法者。)

 まだまだありますが、切りがないのでこのへんにしておきましょう。
 このように、法華経それ自体は方等経典に高い価値を認めています。
 法華経だけがすべてで、他の経典は価値がない、あるいは法華経だけを信じよ、他の経典を信じては地獄行きなどという思想は大聖人がそう言っているだけで、法華経にそんな思想はありません。
 「仏の滅度の後、仏の諸の弟子もし方等経典を受持し読誦し解説することあらば・・・とあるとおり、釈尊が亡くなったあとも方等経を説くように示してあるので、もちろん念仏は足場だなどという文言は法華経のどこにもないし、そういう思想の片鱗さえ見いだせません。

 【大無量寿経の思想 末法のあとも念仏】

 『仏説無量寿経』下巻にはこうあります。

 「将来(末法が一万年続いたあと)すべての教えが滅びても、私(釈尊)は慈悲をもって、この経(『大無量寿経』)のみを百年留めよう。この経に遭遇する人は願い通りに解脱するであろう。

 このように、すべての法が滅びても無量寿経は残るというのです。
 無量寿経が残れば念仏も残ります。
 これが釈尊の教えです。
 それなのに、釈尊の弟子であり子であると自称する人が、どうして念仏はすでに時代遅れなどと正反対のことを言うのでしょう。

6.【念仏は釈尊によって捨てられた教えですか】?

 日蓮上人は天台宗の教えに基づいて、法華経以外の教えは時代遅れだといい、更に方便の教えは釈尊によって捨てられたのだと言います。
 『法華経』方便品にそう書いてあるというのです。

 「正直捨方便 但説無上道」
 正直に方便を捨て、ただこの上ない道を説こう。

 これまでの教えは方便(仮の教え)だった。
 これから説く法華経には方便はない。
 方便を捨てて、ただこの上ない教えを説こうと釈尊が仰有った、こう上人は言います。
 「正直捨方便。」
 この言葉により、法華経以外はもういらないという理屈になるのです。
 これもまた大間違いと言わざるを得ません。

 【方便とは何か】

 そもそも方便とは何でしょうか。
 方便というのは仮の教えでもなく、虚妄でもありません。
 方便というのは、サンスクリット語の「真実に導く巧みな手だて」を漢語に訳したものだそうです。
 また法華経の「正直捨方便」の部分のサンスクリット原典は、「いま私はためらいを捨てて説こう」なのだそうです(岩波文庫法華経』巻上p.129)。
 「ためらいを捨てて説こう」というのと「仮の教えを捨てよう」というのではずいぶん意味が違います。
 まあ天台智顗(ちぎ)さんも日蓮上人もサンスクリット語を知らなかったんですが、法華経全体を読めば、法華経以外の教えを捨てようなどという珍妙な解釈はできないはずなのです。

 法華経で方便は捨てられていません。
 「過去、私は方便を説いてきた」という釈尊の言葉があり、
 「いま、方便を説いている」ともあり、
 「私が亡くなった後の未来に於いて方便が説かれる」とも、
 つまり過去・現在・未来の三世において方便が語られているのですから。
 全然捨てられていないのですから。

 【なぜ方便が必要なのか】

 『法華経方便品』にその理由が書いてあります。
 私たち人間の認識力には限界があるので、世界の実相がつかめないのです。
 本当のことは如来にしかわからないのです。(14)
 そこで巧みな手だてを講じて、どうにかして真理に至る道を指し示そうとする、それが方便なのです。
 『法華経如来寿量品』に、こう書いてあります。

 「実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るがごとくならず。かくのごときの事、如来明かに見て錯謬あることなし。」

 「実」と「虚」は対立概念です。
 私たちの考えでは、並び立つことができないものです。
 しかしその二項対立は間違っているというのです。
 一つのものが、「実」であると同時に「虚」でもある。
 あると同時にない。
 これが実相だと釈尊が仰有るのです。
 そうは言っても、私たちにはそのような認識は不可能です。
 そこで方便が必要とされるわけです。
 方便なしで真実が分かったと思いこむことこそ、「増上慢」といって罪作りなことです。

6.【念仏は釈尊によって捨てられた教えですか】?

 【法華経は方便と無縁なのか】

 とんでもない。
 法華経ほど巧みな方便が駆使されている経典は他にありません。
 三車火宅のたとえ、長者窮児のたとえ、三草二木のたとえ、化城宝処のたとえなど、つぎつぎに方便(巧みな手段)をもって語られています。
 大聖人が最も大切な部分だという『如来寿量品』も、良医治子のたとえで語られています。
 こういうと日蓮上人は、それはちがうというでしょう。
 日蓮上人の弟子だと自認する人々が異口同音に言います。
 どのように語るか、ひとつ口真似してみましょう。

 権実相対が基本となって、方便は三種類に分かれます。法用方便、能通方便、秘妙方便です。「正直捨方便」の「方便」とは爾前経で説かれた通別の方便権教のことで、法用方便、能通方便の二つに当たります。秘妙方便は絶体妙の立場で言えば体内の権なので捨てられずに残ります。これが法華経の方便であり、それを除いて捨てられたのです。

 なんのことやらわかりませんね。
 日蓮上人の弟子はこのような難しい術語を使うので何やら難しいことを語っているように見えますが(本人たちもそう思いこんでいますが)、実のところ大したことは言っていません。 
 そもそも三種類の方便というのは天台の『法華文句』に典拠のある、天台宗だけに通じる考え方なのです。
 その意味を示すとつぎの通りです。

1.法用方便…人々の素養・能力に応じて説かれる方便
2.能通方便…法華経に導く方便
3.秘妙方便…法華経の中で説かれている方便

 もともと法華経だけを特別視する天台の教えを使って語れば、法華経の方便が特別のものになるのは当たり前すぎることです。
 簡単にいえば、

 「法華経の方便は真実の方便だ。」
 「方便経の方便は法華経の方便ではないから真実ではない。」

 こういうことなのですが、しかしこれは変です。
 この論の流れをはじめからおさらいするとその変なことがよくわかります。

1.法華経だけが真実の教えだ。
2.それは法華経だけが方便を捨てて真実を説いているからだ。
3.法華経にも方便はあるが、それは真実の方便だ。
4.なぜなら真実の教えである法華経を理解させるための方便だから。
5.どうして法華経が真実の教えであると言えるのか。
2.それは法華経だけが方便を捨てて真実を説いているからだ。
3.法華経にも方便はあるが、それは真実の方便だ。
・・・
 以下、エンドレス。

 これは循環論法と言います。
 その内部にいると矛盾が見えませんが、まったく何の証明にもなっていません。
 同じところをぐるぐる回っているだけです。
 法華経だけが真実だという断定から出発して、その断定を客観的に証明すべき次の項がまた法華経が真実であることを前提にしているから、結局は元の同じ所に戻ってくるだけで、何も言っていないのと同じことです。

6.【念仏は釈尊によって捨てられた教えですか】?

 【法華経の本当の思想】

 ★過去と現在の方便(法華経比喩品)

 「私は『先に』諸仏・世尊が、いろいろな因縁・譬喩・言辞をもって、方便して法をお説きになったのは、みな悟りのためだと言わなかっただろうか。
 このもろもろの所説はみな菩薩を成長させようとしたものである。
 しかも舎利弗、『いままさに』また譬喩をもって、更にこの義を明らかにしよう。
 もろもろの智恵ある者は、譬喩をもって理解することができるだろう。」

 ★「未来」に語られる方便 (法華経方便品)

「『未来世において』、もし善男子・善女人あって如来智慧を信じようとする者には、まさにそれらの人のためにこの法華経を演説して、聞知させなさい。その人に仏慧を得させるためためにです。もし信じない人々がいるならば、まさに如来の余の深法の中から教えと利益と喜びを示しなさい。あなた方がよくこのようにするならば、それはすなわち、諸仏の恩に報いることになります。」

 ★もっともっと未来まで
 {未来のもろもろの世尊、その数は量り知れない。このもろもろの如来等も、また方便して法を説かれるだろう。 
 一切のもろもろの如来は無量の方便をもって、もろもろの衆生を輪廻から解いて、欠けることのない仏の知恵の世界に入れたまうだろう。

 釈尊ははっきりと、法華経が説かれた後の未来において、「無量の方便をもって、もろもろの衆生を度脱」させることができるとおっしゃっていますね。

 これが法華経に書いてあることです。
 これが法華経の教えなのです。
 他の教典にも、その教典が未来においても有効であると書いてあります。
 これが法華経をも含めた、通仏教的な「方便観」と言えましょう。

 ですから、法華経には正しいことが書いてあるのに、日蓮上人が法華経とも矛盾した変なことを仰有っているのです。
 智恵浅い身である私たちが真理に向かうことができるようにと、釈尊は方便力を駆使して下さいました。
 釈尊が私たちに地獄行きの教えなどをくださったはずがないし、法華経が説かれた後、諸経の役割がおわったなどということもありません。

 【阿鼻地獄に堕ちるのはだれなのか】

 では、もう一度そのことを確かめるために法華三部経の最後に置かれている、「結経」である「仏説観普賢菩薩行法経」を開いてみましょう。
 こんな一節があります。
 法華経の最後の最後の部分です。

 「もし懺悔して諸罪を消滅させようと望むなら、まさに勤めて『方等経典』を読誦し第一義を思うべきである。
 もし王者・大臣・婆羅門・居士・長者・宰官、この諸人等、貪求して厭くことなく、五逆罪を作り、『方等経を謗し』、十悪業を犯すならば、この大悪報、悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎる。必らず定めて、まさに阿鼻地獄に堕つべし。もしこの業障を滅除しようと望むならば、慚愧を生じて諸罪を改悔すべきである。」

 五時教判の立場に立っても、法華経だけが真理で、方等経は虚妄のおしえだという思想は見いだせないのです。
 むしろ方等経を誹謗するのは阿鼻地獄に墜ちる罪であると説かれていますね。
 その罪を除くには方等経を学び唱えなければならないと。
 方便経を捨てろなどというのは、とっても恐ろしい結果を招く教えなのです。
 方便についてもっと知りたい人は本文末尾の解説をお読み下さい。

7.【念仏は創始者でさえ救われなかった教えですか】?

 【自分で書いた自殺の記録】

 日蓮上人は浄土真宗七高僧のひとりである善導大師が、念仏を普及した罪で錯乱し自殺したとのべておられます。
 私の実家などでは「正信偈さん」と言って親しんでいる『正信念仏偈』の、節回しの変わる所ですね、「善導独明仏正意」。あの善導大師ですが、どれほど罵られているか、ちょっと長くなりますが、現代語訳して紹介致しましょう。

 「(善導は)これによってにわかに錯乱して、住んでいた寺の前の柳の木に登って自ら頚をくくって身を投げ、死に終えた。邪法のたたりは踵を回さず冥罰ここにに見たり、 最後臨終の言葉に云う、「此の身いとうべし、諸苦に責められ、しばらくも休息無し」と。そして住んでいた寺の前の柳の木に登り、西に向い願って言うには「仏の威神、もって我を取り、観音菩薩勢至菩薩よ来たって又我をたすけたまえ」と唱えおわって、青柳の上より身を投げて自絶す。云云。
 三月十七日、くびをくくって飛んだところが、くくり縄は切れるわ、柳の枝は折れるわ、大旱魃の堅い土の上に落ちて腰骨を打ち骨折して、二十四日に至るまで七日七夜の間、悶え苦しみ、転がりはいずり回ってわめきさけんで死に終わった。
 さてもこれほどの高祖でさえも(阿弥陀如来は)浄土往生の人の内に入れてやらなかったと見える。
 このことは全く他の宗旨の誹謗ではなく、法華宗の妄語でもなく、善導和尚自筆の『類聚伝』の文である。云云。
 しかも流れをくむ者はその源を忘れず、法を行ずる者はその師の跡を踏むべし。云云。
 浄土門に入って師の跡を踏もうとするならば、臨終の時に善導と同じように自害するべきではないか、念仏者として首をくくらなければ師にそむく咎めがあるべきだが如何か。」

 無茶苦茶言っておられますねえ。仏法者たるもの、ここまで悪し様に言わなくても言いように思いますが、よほど念仏が気に入らなかったと見えます。その理由は後で見ることにしましょう。
 まず問題なのは、大聖人のつぎの言葉です。

 「このことは全く他の宗旨の誹謗ではなく、法華宗の妄語でもなく、善導和尚自筆の『類聚伝』の文である。」

 善導大師が錯乱して、木から飛び降りて腰骨を折り、苦しんで亡くなったという結末まで、他ならぬ善導が書いているのだから間違いない、と。
 いやいや、いくらなんでも自分が死んだことまで自分で書けないと思いますが。
 このあたり、どうも日蓮上人は筆が滑りすぎのようです。

 【「善導和尚自筆の『類聚伝』」とは何か】

 日蓮上人は、「善導和尚自筆の『類聚伝』に善導の自己記録が書かれている」と明言しています。
 しかしそれはちょっとあり得ないのです。
 『類聚伝』という書名は、『類集伝』という意味です。
 特定のカテゴリー(「類」)で集めた(「聚」)、第三者記録(「伝」)を表しています。
 つまり、すでに書かれた別の書を編集したものと思われるのです。
 中国の古典時代において、『伝』というのは第三者が書いた記録のことをいいます。
 自分で書いた自分の記録を『伝』とは言いません。
 今日こそ「自伝」などと言いますが、かつてはそうではなかったのです。
 古典時代に自己記録を『伝』と名付けている実例など、一つも無いはずなのです。
 すると、『類聚伝』という本があったとしても、それが善導和尚が書いたものであったなら、そこに善導和尚自身のことが書かれていたはずがありません。
 反対に、『類聚伝』に善導和尚自身のことが書かれていたのなら、それは善導和尚の作品ではあり得ません。
 つまり「善導和尚自筆の『類聚伝』に善導の自己記録が書かれている」という日蓮上人の証言は、信用できないのです。
 そうなると、日蓮上人はその本を見てもいないのに、見たように書いた公算が高くなります。

 さきほど、『類聚伝』という本が“あったとしても”と書きました。
 そう言うのは、「善導和尚自筆の『類聚伝』」なる書物があるということを書いたのは日蓮上人が初めてなのです。
 善導大師は自筆の『類聚伝』なるものを著したと述べていません。
 中国の高僧伝などにも善導がそういう書を著したという記録がありません。
 善導自筆の『類聚伝』の写本がどこにもありません。
 日蓮上人は『類聚伝』の原文を示していません。
 日蓮上人が現れるまで、善導自筆の『類聚伝』なるものに触れた人が一人もいません。
 よってそのようなものが存在した証拠がどこにもないのです。
 本当にそんな本があったのだろうか、私はかなり疑っています。

【王古の『新修往生傳』のこと】

 じつは善導大師の死去の模様について詳しく書き残してある本があります。
 唐の王古が編集した『新修往生傳』がそれです。
 『新修往生傳』には、善導大師が見事に大往生を遂げたと書いてありますが、そのあとで後世の人の伝聞として、自殺説も載せてあります。しかしそこには首をくくったとも、その縄が切れたとも書いてありません。苦しみのたうったなど、どこを探しても出てきません。浄土信仰にもとづく「捨身」であったことが書いてあるだけです。(15)
 一番大きな違いは死亡年月日です。
 善導大師は「永隆二年三月十四日」に亡くなっているのです。
 すると日蓮上人は3月14日に亡くなった善導大師が3月17日に首をくくり24日に死亡したと書いているのですが、あり得ないことです。
 これは一体どういうことでしょう。まったくのフィクションを、さも信憑性があるように日蓮上人が書いたのでしょうか。まさかそこまではするまいと思いますが、真相は全く霧の中です。
 ところで現在の仏教研究学説では、善導自殺説は否定される傾向にあるそうです。
 善導大師の信者の中に自殺者がいたという記録があるので、後世の伝聞である「善導自殺説」は信者と善導を混同したのではないかというのが、有力な学説なのだそうです。

 【日蓮上人と善導大師】

 さて、日蓮上人はどうして善導自死のエピソードをこんなに詳しく載せたのでしょうか。
 善導大師の錯乱自死というのは、じつは『念仏無間地獄抄』の中で、かなり重要な位置を占めているのです。
 法華経が正しいのか、善導大師の念仏が正しいのか、その分水嶺となるエピソードが錯乱自死だったのですから。
 直前に大聖人は法華経と善導の念仏を比較し、どちらが正しいのかと読者に迫っています。

 ↓↓『念仏無間抄』引用↓↓

 法華の文には「もし法を聞くこと有らん者は無一不成仏」とあり、
 善導は「法華経を行ぜん者は千人に一人も得道の者あるべからず」と定む。
 何れの説に付く可きか。
 此の両説水火なり。何れの辺に付くべきや。
 善導が言を信じて法華経を捨つべきか。
 法華経を信じて善導の義を捨つべきか如何。」

↑↑引用終わり↑↑

 「法華経には、この方を聞いたなら成仏しない者はないと書いてある。
 一方善導は、「法華経の修行をしても千人に一人も成仏できない」という。
 どちらの説に付くべきか。
 この両説は水と火である。いずれの側につくべきか。
 善導の説を信じて法華経を捨てるべきか。
 法華経を信じて善導の説を捨てるべきか、どうなのだ。」

 法華経につくのか(ただし本当の法華経ではなくて、日蓮上人風に改変されたもの)、善導につくのか、とすごい迫力です。
 で、その回答として、大聖人は現証を見れば明らかだといいます。
 善導自死の記述がここで展開されるのです。

 すなわち善導は錯乱して苦しみ悶えて死んだではないか、善導自身がそう書いているではないか、と。
 やはり法華経につくべきなのだという大聖人の結論は、 善導自死に支えられているのです。
 それがどうやら善導の自筆でもなく(自分が死んだことなんか書けませんが)、自殺説もくつがえされてしまいそうです。
 日蓮上人から700年後、答は決したようです。

【その他の誹謗について】?

  【捨閉擱抛(しゃへいかくほう)】の教えとは】

 『念仏無間地獄抄』とよく似た題名で、『当世念仏者無間地獄事』という短い文章があります。これは日蓮上人が弟子の浄円房に送った手紙です。
 そこに書いてあるのはこういう内容です。

 (浄土門は)人々に仏教を捨てよ、仏門を閉じよ、仏教を閣(お)けよ、仏教を抛(す)てよと言ってやめさせている。これによって日本国中の無智な人々が草木がなびくようにこの教えに従っているので、法華宗真言宗を喜ばなくなっている・・・(16)

 「真言宗は亡国の教えだ」と言っているのは日蓮上人なのですから、真言宗のために嘆いているような文言は見せかけではなかろうかと思いますが、それはともかく。
 浄土真宗は「仏教を捨てよ、仏門を閉じよ、仏教を閣(お)けよ、仏教を抛(す)てよ」と教えているでしょうか。
 これははなはだしい誹謗中傷です。
 ただし、「捨閉擱抛(しゃへいかくほう)」(捨てよ、閉じよ、さしおけよ、なげうてよ)と法然上人が『選択本願念仏集』に書かれたのは事実です。
 でもその意味がまるで違うのです。
 その本当の意味を述べる前に、浄土門仏教の成立について述べたいと思います。

  【浄土門のはじまり】

 親鸞聖人の師である法然上人は比叡山で知恵第一といわれたほどの僧侶でしたが、一切経を四度も読破して、なおも悩みの中にあったということです。
 記録された法然自身の言葉で、その悩みを打ち明けてもらいましょう。

 また、凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし、たとえば猿の枝につたうがごとし。
 まころに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。
 いかでか悪業煩悩のきずなをたたんや。
 悪業煩悩のきずなをたたずば、なんぞ生死繋縛(しょうじけばく)の身を解脱(げだつ)することをえんや。
 かなしきかな、かなしきかな。いかがせんいかがせん。
 ここに我達ごときはすでに戒(煩悩をさえぎり)、定(煩悩を抑え)、 慧(煩悩をたちきる聖道門の修行)の三学の器にあらず。
 この三学のほかに我が心に相応する法門ありや
 『元祖大師御法語』より

 いくら修行しても、どうしても心がふらふらとして一定しない。
 あれを考え、こちらに興味を引かれ、私の心の移ろいやすいことはまるで猿が枝から枝へと飛び移っていくようなものだ。
 こんなことで悟りなど得られるのだろうか。
 私にはまともに仏法の戒を守る力も修行を修める力もない。
 こんな私がどうすれば救われるというのだろう・・・。

 このような煩悶を繰り返す中で、一切経を読み抜くこと五度目にして、善導の『観無量寿経疏』に目を開かれ、「南無阿弥陀仏」に出会ったのだそうです。
 これが日本における浄土門のはじまりでした。

【その他の誹謗について】?

  【浄土門の思想】

 浄土門の立脚点は他の宗派と異なります。
 他の宗派がお経の優劣をいうのに対し、浄土門は修行者の素養を言います。
 いくら立派な教えでも、修行者に実践できなければその人にとっては意味がありません。 法然上人の「選択集」では、あくまでも「その個人にとっては」という態度が最初から最後まで貫かれているのが特徴です。
 源信の『往生要集』が引用されてあり、そこにこの思想が要約されています。

 「今念仏を勧めるのは、他のいろいろな素晴らしい修行をやめよというのではない。
 ただ念仏は男も女も、貴族も庶民も、度にあっても家にいても、座っていても寝ていても、時と処とを選ばないので、行いやすい行である。臨終に往生を願い求めるなら、そのために相応しいのは念仏のほかにないからである。」

 法然上人はつぎのように分かり易く説いています

 「念仏は誰にでも出来る修行である。他にも有り難い修行はあるが、まっとうできる者が少ないので万人向けではない。そこで阿弥陀如来は一般の衆生を浄土に招くため、難しい修行を課さずに、行いやすい修行を選び、それを本願となさったのであろうか。
 仏像を作ったり寺社を建設することが大切な功徳だというなら、貧しい者はあきらめてしまうだろう、しかし富める者は少なく貧しい者ははなはだ多い。
 もし救いの条件として智恵がすぐれていることが必要とされるなら、智恵なき者はあきらめてしまうだろう、しかし智恵ある者は少なく、智恵なき者ははなはだ多い。
 たくさん学び知識を蓄えることを救いの条件としたならば、あまり学んでいない者はあきらめてしまうだろう、しかし学んだ者は少なく、学びの少ない者ははなはだ多い。
 戒律を守ることを救いの条件にしたならば、戒律を守れない者はあきらめてしまうだろう、しかし戒律を守れる者は少なく、守れない者ははなはだ多い。・・・。」
 『元祖大師御法語』より

 難しい修行をしようとしてもできないならばそれでもいい、念仏ならばあなたにもできるではないか、と説いているのです。
 この姿勢は、さきに見たたとおり、法然自身が悩みぬいたからこそ、生まれたものだと思います。

【その他の誹謗について】?

5.【捨てよ、擱け、閉じよ・・・とは】

 そのうえで法然上人は語られます。

 すべての人々に向けて、浄土門を選ぶように呼びかけます。
 「それ速やかに生死を離れんと思えば、聖道門と浄土門という二種のありがたい教えのうち、しばらく聖道門をさしおいて、選んで淨土門に入れ。」
 その呼びかけに応えて浄土門を選ぼうと思った人に向けては、いままでの修行と掛け持ちはできないと説きます。
 「淨土門に、はいろうと、思えば、正雑二行の内に、しばらく、諸々の雑行を、投げ捨てて、選びて、正行に帰すべし。」
浄土門に入信した人には、瞑想や観察行などの浄土教の修行ではなく念仏を勧めます。
「正行を修せんとおもわば、正助二業の内に、なお助業を傍らにして、選んで、正定を、もっぱらにすべし。」
「正定の業というは、即ち、これ佛の御名を称するなり。」

 「選べ」というのは主体的選択を迫っているのですね。

 「我また、これかのもろもろの経論を信ぜざるにはあらず。ことごとく皆仰信す。しかるに仏、かの経を説きたまふ時は、処別に、時別に、対機別に、利益別なり。」

 「我また」とは、何が「また」かと言えば、「他宗を信じる方々と同じように」という意味です。
 私も他宗と同じように、釈迦の説かれた諸々の教えを、ことごとくみな信じ仰ぐものである。ところで釈迦の説かれたものは、所により、時により、相手により、もとめる目的により、さまざまなのだ。

 「願はくは西方の行者、おのおのその意楽に随つて、或いは法華を読誦して、もつて往生の業とし、或いは華厳を読誦して、もつて往生の業、或いは遮那・教王および諸尊の法等を受持読誦して、もつて往生の業とし、或いは般若・方等および涅槃経等を解説し書写して、もつて往生の業とせよ。これ則ち浄土宗の観無量寿経の意なり。」

 釈迦八万四千の法門はそれぞれ成仏の因なので、それぞれ相応しいと思う法門を選んで修行しなさいというのです。浄土教の根本経典のひとつ、「観無量寿経」が説いているのはそのことなのだ、と。

 これで、捨てろとか置けというのが、釈迦の教えを捨てろと言っていると曲解するのですから、ほとんどためにする論難と言って良いかと思います。
 捨てろというのは、浄土門の修行を選ぶなら、他の門は捨てよというだけのことです。
 真言宗を修行するなら天台宗の修行を掛け持ちできません。これと同じ事ですから、他の宗派とおなじことを言っているにすぎません。
 であるのに文理を曲解し、「念仏を唱えると地獄に堕ちる」とか、経文にある釈迦の直言「南無阿弥陀仏」を排泄物にたとえるなど、日蓮上人の非難はあまりと言えばあまりです。
 日蓮上人は『秋元御書』につぎのように書いておられます。

 「南無妙法蓮華経を唱えながら、一方では南無阿弥陀仏とも唱える、こういう行いは飯に糞をまじえ、石・砂を入れるようなものだ。
 法華経の文に、ただ大乗経典を受持せよ、その他の教えの一節でも受け入れるなと説いてあるではないか。」

 自分の立場からは法華経以外の教えはただの一節も受け入れるなと強く主張するくせに、他の立場に対しては、そういうのは仏法を誹謗し地獄に堕ちるものだ、そんな奴は殺してしまっても良いなどと主張するのは、いかがなものでしょうか。
 しかも法華経が述べているのは「大乗経典を受持せよ」ということであって、「法華経だけを受持せよ」などと書いてありません。「ここでいう大乗経とは法華経のことだ」というのは日蓮上人がそう信じたということでしかありません。こんな根拠で他宗の僧侶を殺害することを肯定するなど、僧侶を自称する者の言葉とはとても信じられません。
 このような日蓮上人の教えが原因で、『法華経』までもが誤解されているのはとても悲しいことです。
 本当の『法華経』というのはそんな奇妙で苛烈で排他的なお経ではないのですから。

法華経とはどんな教えですか】

 法華経の成立は、釈尊滅後からほぼ500年以上のちのこととされていて、現在の仏教学では紀元前後よりあとに成立したと推定されています。
 仏教学者中村元先生は、「長者窮子の譬え話」の主人公が金融業者なので、貨幣経済の非常に発達した時代につくられたのだろうという理由から、法華経が成立したのは西暦40年よりあとであると推察しています。

 法華経では、法華経に縁を結べば、その寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解されます。そして一切の衆生が、いつかは必ず仏になると説きます。
 法華経成立当時、仏教各派は四分五裂して互いに教理を争っていました。そこに「釈尊の教えは見かけはちがっていても本質は一つ(一乗)」と説いたのが法華経でした。
 いわば仏教統一理論として生み出されたのです。
 よく法華経には中身がないと指摘されます。すごいことが書いてあるぞ、これからすごいことを説くぞとばかり書いてあって、どこまで行ってもその教えが明かされないというのですが、それは法華経の成立を考えれば当たり前なのです。中身は法華経にあるのではなく、他の教えにあるのです。法華経の役割は、それらが一つであることに気づかせるところにあったのですから。
 世界はひとつだという意味は、二つに理解されます。
 「世界は一つだ。国は違ってもお互いに認め合おう。」
 「世界は一つだ。ローマにひれ伏せ。」
 法華経の本来の教えは前者であったのに、いつか後者の意味に取り違えられ、極めて排他的な解釈がされることになってしましました。

 私の読んだところでは、法華経にはこうしなさいと書いてあると思います。

 人の悩みやその原因をちゃんと理解していて、正しく見たり、考えたり、語ったり、行動できる人になりなさい。
 間違った考えや思想にとらわれている人がいても頭ごなしに叱りつけず、自分の行動で相手を導こうとしなさい。
 かたくなな人にも、なんとか分かって貰うよう知恵を働かせなさい。
 自分の生き方に自信をもちなさい。
 なぜならあなたは今の自分に生まれるはるか過去に於いて、この世界を救おうと決意し、努力した人だからです。だからこの世に於いてもそう生きなさい。
 あなたは一人ではありません。孤独ではありません。
 自分だけが幸せになろうとしてはいけません。みんなの幸せを求めて生きることを幸せだと感じることの出来る人になりなさい。
 そのための苦労を惜しんではなりません。
 このように生きれば迫害もありましょうけれど、恐れてはいけません。試練を受け止めて喜べる人になりなさい。
 釈迦が説いたさまざまな教えを大切にしなさい。
自 分が修行している教え以外の、仏の教えをそしってはなりません。
 その本質はひとつ(一乗)だからです。
 こうすればあなたはすべての悩み、苦しみ、迷いから解き放たれて、心安らかに生きることが出来るでしょう。

 私が読んだところでは、法華経には、教えを伝えるときにこうしてはならないと書いてあります。

 語り説くときや教えをよむとき、他人や他の教えの誤りを説いてはいけません。
 他の教えを述べる教師たちをを軽んじ、慢心してはなりません。
 学ぼうとするものの好き嫌い、長所短所を言ってはなりません。
 誰かを名指しでその誤りを指摘してはいけません。
 誰かを名指しで良いところを褒めてもなりません。
 また怨みや嫌悪の心を生じてはいけません。

 どこを読んでも、法華経にはこういうことは書いてありません。

 迫害を受けるのが正しい証拠です。
 他の教えは時代遅れで役に立たないから、そんなものを信じていると不幸になります。
 南無妙法蓮華経を唱えると、法華経全部を理解したことになり、成仏できます。

【本文註】

(1)『七箇条起請文』
「一、 別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、
 本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」
(2)たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、「われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの、信ずれ ばたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。 たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文 候ふにこそ。故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば往生はいよいよ一定と おもひたまふなり。あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑をあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。
(3)第2帖3
(4)『諌暁八幡抄』、『御義口伝上』など
(5)立正安国論
殺に三有り、謂く下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。・・・。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して、具さに下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微の善根有り。是の故に殺さば具さに罪報を受く。・・・。善男子、若し能く一闡提(ここでは法然上人と念仏僧を指す)を殺すこと有らん者はち此の三種の殺の中に堕せず。
(6)若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん・・・ 乃至 其の人命終して 阿鼻獄に入らん
若人不信 毀謗此經 則斷一切 世間佛種 或復顰蹙 而懷疑惑 汝當聽説 此人罪報 若佛在世 若滅度後 其有誹謗 如斯經典 見有讀誦 書持經者 輕賎憎嫉 而懷結恨 此人罪報 汝今復聽 其人命終 入阿鼻獄
(7)唯人師の釈計りを憑みて仏説によらずば何ぞ仏法と云う名を付くべきや言語道断の次第なり 『持妙法華問答抄』 
(8)於未來世。若有善男子。善女人。信如來智慧者。當爲演説此法華經。使得聞知。爲令其人。得佛慧故。若有衆生。不信受者。當於如來餘深法中。示教利喜。汝等若能如是。則爲巳報。諸佛之恩。 
(9)遊曆十方、供養諸佛。於諸佛前、聞甚深法。經三小劫、得百法明門、住歡喜地。是名上品下生者。
(10)初聞佛所説 心中大驚疑 将非魔作佛 惱亂我心耶 佛以種種縁 譬諭巧言説
 其心安如海 我聞疑網斷
(11)而今於世尊前。聞所未聞。皆墮疑惑。善哉世尊。願爲四衆。説其因縁。令離疑悔。
(12)何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。すなわち汝が求むる所に非ず。汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。また我求める所に非ず。この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。少し功労を用いるに、多く益を得るなり。
(13)(2)を参照
(14)不須復説。所以者何。佛所成就。第一希有。難解之法。唯佛與佛。乃能究盡。諸法實相。所謂諸法。如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。 
(15)導謂人曰。此身可厭。諸苦逼迫。情偽變易無暫休息。乃登所居寺前柳樹。西向願曰。願佛威神驟以接我。觀音勢至亦來助我。令我此心不失正念不起驚怖。不於彌陀法中以生退墮。願畢於其樹上投身自絕。
(16)末代の凡夫此れを捨てよ此の門を閉じよ之を閣けよ之を抛てよ等の四字を以て之を制止す、而て日本国中の無智の道俗を始めて大風に草木の従うが如く皆此の義に随つて忽に法華真言等に随喜の意を止め建立の思を廃す

【解説】

1.法華経に於いて「方便経」は捨てられていない

 「正直捨方便」を日蓮上人は「方便経を捨てる」と解釈しておられますが、それは誤りであるようです。
 「正直捨方便」を“方便を以て説かれた教え”を捨てるとは読めないからです。
 法華経において、“方便”と“方便を以て説かれた教え”は意味と表現が異なります。
 法華経に於いてただ“方便”とあれば、それは手段・方法のカテゴリーに属します。
 “方便を以て説かれた教え”は別の表現がされています。

 法華経は、方法としての“方便”については「方便」「方便力」「無量方便」などと形容されるか、「方便をもって・・・引導して」などと表記されています。
 これらの表現はすべて方便品に現れています。
 これに対して“方便を以て説かれた教え”は「方便所説の法」などと表現されています。 あるいは名詞形ではなく文脈において、
 『過去世の無量の滅度の仏も 方便の中に安住して、またみなこの法を説きたまえり。現在未来の仏、その数量りあること無きも、またもろもろの方便をもって、かくのごとき法を演説したもう』(比喩品)
 などと、「法」について語っていることがはっきりと顕されているのが普通です。

 このように、“方便”と“方便を以て説かれた教え”は法華経において厳密に区別され、使い分けられています。
 “方便”と“方便を以て説かれた教え”を区別しないで法華経を論じるのは、あたかも「比喩」とあればすべて「比喩品」のことを指すというに等しい誤った論理ではないでしょうか。

 さて問題の「正直捨方便」は、明らかに“方法としての方便”に類する表現です。
 ですから現代語に意訳すれば、「スッパリと言おう」とか「ズバリ言うわよ」に近いのではないでしょうか。
 そこには「方便経を捨てる」などという意味は含まれていない。
 私はそう解釈します。
 だから方便が捨てられたはずの法華経に「余の深法を広めよ」とか「方等経を読誦せよ」などという釈尊の勅があるのは、全然不思議なにことではないのです。もともとそれらは、捨てられてなどいなかったからです。

【解説】

2.「付嘱」についての誤った解釈

 法華経至上主義は、方便経がすでに捨てられたという時代観に基づいています。
 その徴証として、日蓮仏法では釈尊の弟子たちに法華経の伝道が禁じられたことになっています。古い弟子はもういらないと釈尊が切り捨てたようなことを言っているのです。
 法華経以前に唱えられた教えは釈尊の古い弟子に向けて伝えられたもの、法華経は新しく現れた修行者に伝えられたものと解釈するのです。
 
 『従地涌出品第十五』に於いて、釈尊の呼び声に応えて、無数の新しい修行者が地面を割って現れるスペクタクルシーンは、法華経の中でも圧巻です。
 地面から湧くように現れた修行者なので、「地涌の菩薩」と称されます。これが法華経信者のことだということになっています。
 これを「付嘱」があるとかないと言います。
 「付嘱」とは釈尊から教えを広めてもよいよと許される、いわば免許皆伝みたいなものです。

 さてこの伝道主体の交代という説ですが、日蓮上人はまたもやとてつもない誤読をしているのです。
 その冒頭において、古い弟子である文殊菩薩などの諸菩薩や摩訶薩釈尊に向かい、私たちに法華経を伝道させてくださいと御願いしますが、釈尊がこれを止めたというのです。
「世尊よ、若し我等に仏の滅後に於て此の娑婆世界に在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし」
 と申し出た文殊菩薩などの古い弟子に対し、釈尊はそれを制して、
 「止みね、善男子よ!」
 と言って、菩薩・摩訶薩たちの伝道を禁じて、地涌の菩薩を呼び出した。
 そこで文殊菩薩などの諸菩薩や摩訶薩法華経の伝道を禁じられたのであると。

 ところがこれが無茶苦茶な誤読なのです。
 このとき、「止みね、善男子よ!」と止められた菩薩さまたちですが、どこからお越しになった方たちなのか、そのすぐ手前に書いてあります。

 「そのときに他方の国土のもろもろの来れる菩薩・摩訶薩

 このように他方の仏国土から来られた方たちなのです。
 文殊菩薩と一緒にいた娑婆世界の菩薩さまではないのです。しかし余所の菩薩さまに助けていただかなくても、釈迦如来がこれまでに教化した菩薩さまが娑婆世界にはたくさんいらっしゃった。だから釈迦如来は「止みね、善男子よ!」と言って、娑婆世界の地涌の菩薩を呼び出したわけです。
 これまでに修行していたお釈迦さまの弟子たちと役割が交代したのではないのです。
 これまでに修行していたお釈迦さまの弟子たちに加えて、地涌の菩薩が働き始めるのです。
 このあとの説法を文殊菩薩たちは一緒に聞いていますし、このあと、どこにも地涌の菩薩だけに伝道を託したという記述はありません。
 ですから古い弟子も新しい弟子も法華経を伝道してよいのですし、古い弟子が切り捨てられたということもないので、以前の教えが用済みになったということもないわけです。
 『法華経 安楽行品』では、伝道を禁じられたはずの文殊菩薩ほかの娑婆世界の菩薩さまたちが、未来世界に於いて法華経を伝道するようにと釈尊から求められています。この矛盾を日蓮仏法の修行者は一体どう納得しているのでしょうか、まことに不思議なことです。
 おそらく『法華経』をまともに読んでいないのでしょうね。

【解説】

3.法華経の優位性ということ

 法華経には他の経にない利益があるといいます。
 いわく、悪人成仏、女人成仏、二乗縁覚の成仏が説かれれている。永遠の仏陀が説かれている、など。
 他の教えにはこういうものがないと教えられているので、信者さんたちは信じ込んでいます。しかし浄土真宗門徒さんなら誰しも、それは変だぞと気づきます。悪人成仏や女人成仏なら阿弥陀如来も説いておられるからです。
 つまりここは日蓮上人の、こう言っては何ですが、嘘なのです。
 ご本人もこのことは自覚しておられたようで、『一代聖教大意』につぎのように書かれています。
 ある人が日蓮上人にたずねるのです、他の経典にも悪人が仏になると書いてあるではないかと。二乗縁覚の成仏も書いてある。女人が仏になることは四十八願の中の三十五の願にあるではないか、と。
 すると日蓮上人は答えます。
 「そこが肝心だ。法華経の勝れていることは、その問いの答えにあらわれるのだ」と。
 ではどんな答が用意されているのかといえば、
 「秘蔵の故に顕露に書さず。」
 それは秘密なのだというのです。
 聞いた人はがっくりしたと思います。
 もちろん、答があればちゃんと答えたでしょう。
 日蓮上人に答はなかったのです。答のないまま、いまも相変わらず法華経には悪人成仏、女人成仏、二乗縁覚の成仏など、他の経にない利益があると伝道し続けています。
 どうしたものでしょうかねえ。

【解説】?

4.「久遠実成」も方便である。

 釈尊が寿命を終えて入滅なさったというのは方便であると日蓮信者はいいます。
 ほんとうは永遠の存在なのだといいます。これを「久遠実成」といいます。
  そしてこのことを明かしてあるのは法華経だけなのだから、最も勝れた経典なのだと。
 しかし釈尊が有無を超え、時間も超越した存在であることは、なにも法華経だけが説いたわけではありません。
 『金剛般若経』にはこうあります。

「『如来が来る、去る、座る、寝る』。もし、このように説く者がいるならば、彼は、わたしが説いた、法を解してない。というのも、如来は、普遍に存在しており、どこから来ることも、どこに去ることもない。それだからこそ、如来と名付けられるのである。」

 この「来る、去る」はどこかから来てどこかへ去るという、空間的なことだけを説いているのではありません。
 『無量寿経』には「独生独死独去独来」とあります。
 「独去独来」というのが生まれて死ぬことだというのは、誰にでもわかりますね。
 このように、ブッダの永遠性は他の経典でも説かれているのですが、では永遠に存在するというのは、文字通りの実体の有り様を説いているのでしょうか。
 そうではないと思います。
 『宝行王正論』(ラトナーヴァリー)にはこう書いてあります。

 「実際は、有でもなければ、無でもないのに、どうして、無であると、恐怖してしまうのか。 涅槃は、有と無の囚われを、越えることである。」
 「無を否定し、有を言えば、無を認めている。無を肯定して、無を言えば、有を認めている。無の裏に有、否定が無であり、肯定が有である。」
 「生じるものでもなく、滅するものでもなく、続くものでもない、三時を越えている世界が、どうして、実際に存在していると、言えようか。」
 「過去もなく、現在もなく、未来もないのに、どうして、時間の区別が付くと、言えようか。真実から見るなら、輪廻と涅槃の分別さえない。」

 このように、「有る」とか「無い」で分別できないのが実体なのですね。
 そこで「無いのではない」ことを説くために久遠実成(永遠の仏陀)を語り、「有るのではない」ことを説くために始成正覚(人間としての仏陀)を説いた。
 久遠実成の「実」に囚われると執着になり、それもまた人間の無明なのだと思います。

【終わりに】

 これまでの論述で、念仏は地獄堕ちの教えという日蓮聖人の教えにまったく根拠のないことがお分かり頂けたでしょうか。
 もしもそのような誤った考え方の人から念仏を非難されたなら、ここに書いてあることを参考にして、その妄執をはねのけていただきたいと思います。
 念仏は法蔵菩薩が五劫という長い時間をかけ、人智でおよびもつかない厳しい修行のはてに導きだし、私たちに約束して下さった無上の法であり、深法であり、釈尊がていねいに教えて下さった、私たちにとってただ一つの救いの行であります。
 これはまったく疑いのないことなのであって、たとえ他から口汚く罵られようとも、莞爾とした笑みをもって受け止め、一向専心の念仏行にいそしみたいものです。
 論証つづきの面倒な文を最後までお読み下さり、有り難うございました。
 
南無阿弥陀仏