現代語私訳 善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第三十一節
また、般舟三昧経には、以下の意味のことが述べられています。
「釈尊は、跋陀和菩薩におっしゃいました。
「十方のあらゆる方角のさまざまな仏たちがすべて目の前に現れるという観想の集中があります。
もし速やかにこの観想の集中を実現したいと願う人は、いつもこの観想を守り習い保って、疑いの思いが髪の毛一筋ほどもないようにするべきです。
もし出家の男女や在家の男女がこの観想の集中を学び実践したいと思うならば、七日七夜の間睡眠をとらず、さまざまな散り乱れる心を捨てて、ひとりで一つの場所にとどまって、西方の阿弥陀如来の御身体が、純粋な金色であり、三十二相を具え、その光明がくまなく照らしており、比べようもないほど端正な御姿であることを思いなさい。」と。
一心に観想して心で念じ口に念仏し、どの瞬間の思いも絶えることなく阿弥陀如来を念仏し続けるならば、釈尊は「七日経った後には阿弥陀如来の御姿を見る」とおっしゃいました。
たとえば、ある人が、夜に星座を見るようなものです。
ひとつの星は、ひとりの仏です。
もし出家の男女や在家の男女がこの観想を行うならば、すべての星をみるように、すべての仏を見ることでしょう。」と。
この文章もまた、経典による証明となります。
これも、阿弥陀如来の三つの力が加わるために阿弥陀如来の御姿を見ることができるのです。
「集中」(「三昧」)とは、念仏者の心と口が称名念仏していて全然雑念や妄想がなく、瞬間瞬間において心が集中し、称名の声がずっと続くならば、心の眼が開き、阿弥陀如来がはっきりと御姿を現すのを見ることができます。
このことを「定」とし、また「三昧」といいます。
阿弥陀如来の御姿を見る時、また浄土の聖なる方々やさまざまな浄土の荘厳も見えます。
ですので、阿弥陀如来の高度な集中力によって阿弥陀如来と浄土を見る・阿弥陀如来と浄土の荘厳に出遇う縁(見仏浄土三昧増上縁)といいます。