浄土真宗における「己を島とし、己をよりどころとしなさい」という言葉の受けとめ方について

K先生に、以下の質問をしてみた。


Q, 法句経に「己を島とし、己をよりどころとしなさい」という有名な言葉があります。多くの仏教関連の本にもよくとりあげられますが、浄土真宗の観点からはこれはどのように受けとめるべきでしょうか?自力の行として、方便の説として、捨ててかえりみられないものなのでしょうか?


それまでの話に、ちょうど観無量寿経の方便・真実、自力・他力の話があったことの延長から、質問させてもらった。


K先生の答えは以下のようなものだった。


A,  「己を島とし、己をよりどころとしなさい」という言葉の意味は、法句経に説かれた当時の意味としては、もちろん他力のみ教えとは関係ないこととして言われているものです。
 「己を島とし、己をよりどころとしなさい」ということの意味は、もちろん自分の煩悩や自分の都合を中心にしなさいという意味ではなくて、「仏法の基準を自分の中にしっかり持つ」という意味ですね。
 仏法の善悪の基準をしっかりと自分の中に置いて定めていくこと。自分中心の善悪の基準でもなく、世間の善悪の基準でもなく、仏法における善悪の基準をきちんと自分の中に持って、仏法の善悪の基準に照らした時の善に励みなさいというのが、法句経のこの言葉の、当時における意味ですね。
 そのうえで、この「仏法」という時に、それが自力の教えか他力の教えかということになってきます。
もちろん、法句経が説かれた当時においては他力の浄土教というものは説かれていなかったかもしれませんし、特に文献学や歴史的な議論でいえば全くそのとおりでしょう。
しかし、そのことと離れて、手前味噌の話になりますが、後世の私たちが、あくまで後世の浄土真宗の者としてのこの私が、それではどのように受けとめるか、という問題がありますね。
そのことについて言えば、阿弥陀如来のみ教えを自分の中心に置くこと。つまり、一般論や他人事とせずに、あくまでこのみ教えを自分の中に聞きうけていくことです。他人がそんなものは何の効果もないと言ったりいろいろ言っても、それは他人の話であって、自分はこのみ教えをしっかり聞いていくということ。自分の中心にこの他力の御教えの真実を聞き開いていくこと。一般論や他人事ではなく、あくまで自分の身の上のこととして阿弥陀様の御法義を聞きうけていくことが、浄土真宗における「己を島とし、己をよりどころとする」ことです。つまり、「他力のみ教えを自分の中心に置いた己が、己の人生にとって島となり、よりどころとなっていく」という、そういうことでしょうね。


との答えだった。


なるほどーっと思った。
やっぱり、自分であれこれ考えてもよくわからないことは、その道の人に率直に質問するのが一番だなぁ。
とてもためになる質疑応答で、ありがたかった。