「後出阿弥陀仏偈」の現代語訳をつくってみた。
「後出阿弥陀仏偈」は、一切経に含まれているものの、誰がつくった偈なのかも不明で、不思議なお経である。
しかし、今回訳していて思ったのは、とても深い、不思議なお経だということだった。
特に末尾の、お互いに擁護しあって仏法を行じるべきだという一節は、現代に生きる我々の胸にとても響く一節だと思う。
「後出阿弥陀仏偈」 現代語私訳
法蔵菩薩を思えば 法蔵菩薩は世自在王仏に従い
諸もろの如来のように大いなる願いを発願し 四十八の本願を誓った
いくたびもの人生で諸もろの如来に出会ったことは はかりしれないほどの数であり
こうした過去世からの行をやめることなく努め 功徳をついに成就した
その世界は浄土と呼ばれ 仏としての号は無量(無量寿・無量光)
その国土は平らかで過ごすにやさしく 豊かで楽しくてすぐれた人々が多く集まる
宝石でできた樹木が種から 次々に並んで群がり生じ
幹と莖と枝と葉と花と それぞれの香りを持っている
一日に三回、風によってそれらの樹木はそよぎ やわらかに伸びて花を咲かせる
毛布のように柔らかく地に花びらがふりそそぎ 地面の上に平らかに敷き詰められている
山や坂が一切なく 海の水やその源は
ただ小川の水が流れていて そのせせらぎは仏法のお経を説いているようである
神々や人々はこの水に入って遊び戯れ 行きたいところに行くことができる
水を肩までつかりたいと思えば その思いのとおりになることができる
み仏のいのちは十方の砂の数ほどであり 光明は普く照らしてはてがあることがない
菩薩と仏弟子たちは 数を数えることができないほど多くいる
もしこの阿弥陀如来を見たいと思うならば 疑ってはならない、忘れてはならない
疑いがあれば蓮の花の中にあって 仏の説法にあわないこと五百年となる
疑いがなければ蓮のうてなに生まれ 合掌して阿弥陀如来の面前に往くことができる
そして十方に行きたいと思えばどこででも 瞬時に移動して戻ってくることができる
法蔵菩薩を思えば 長い間功徳を積んで修行し
本願の修行をこのように成就し 世尊と呼ばれるまでになった
仏が世の中に現れるのに遇うことは難しく 束の間あったとして仏法を聞くのは難しい
仏法を解説してくれる人には遇うことが難しく 仏法を学ぶ人もなかなかいない
もし後世の末法の世において 仏法が衰えようとする時は
お互いに助け合い守り合いながら 仏の無私無欲の教えを実行しなさい
仏はこの要点を説いた 各自が努力して仏法を思い仏法を実行しなさい
この無量の福(阿弥陀如来の幸福)を受け どの人生においても仏を敬い修行しなさい
原文