善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第三十七節

善導大師『阿弥陀如来を観想する教えの入口』(観念法門) 第三十七節



また、無量寿経四十八願についての経文の中に、以下のような意味のことが説かれています。
「たとえ、私が仏になれるとしても、十方のあらゆる方角の生きとし生けるものの中で、この上ない悟りを得たいという心を起こし、さまざまな功徳を修めて、真心をこめて浄土に往生したいという願いを起こしたとします。その人が、命が終わろうとする時に、私が浄土のさまざまな聖なる者たちを連れて、その人の前に現れるのでなければ、私は悟りを開いて仏にはなりません。」(第十九願)と。
これもまた、阿弥陀如来に摂取されて浄土に往生させていただく縁(摂生増上縁)です。


また、同じ四十八願文の続きの箇所に、以下のような意味のことが述べられています。
「たとえ、私が仏になれるとしても、十方のあらゆる方角の生きとし生けるものの中で、私の名号(南無阿弥陀仏)を聞いて、浄土に思いをかけて、真心をこめて回向して私の国である浄土に往生したいと願うとします。往生が果たし遂げられることがなければ、私は悟りを開いて仏にはなりません。」(第二十願)
これもまた、阿弥陀如来に摂取されて浄土に往生させていただく縁(摂生増上縁)です。


また、無量寿経四十八願についての経文の中に、以下のような意味のことが説かれています。
「たとえ、私が仏になれるとしても、十方のあらゆる方角に、女性がいて、私の名前(南無阿弥陀仏)を聞いて、歓喜し、信心を得て、この上ない悟りを得たいという心を起こし、女性の身を厭い嫌ったとします。命終わった後に、また女性の身となるならば、私は悟りを開いて仏にはなりません。」(第三十五願)
この願の言わんとするところは、阿弥陀如来の本願の働きによるために、女性が阿弥陀如来の名号を称えれば、命が終わる時にはすぐに女性の身を転じて男性となることができます。阿弥陀如来が手を引いて、菩薩の身となることを助けて、宝石でできた蓮の花の上に坐らせてくれます。
阿弥陀如来に従って往生し、阿弥陀如来の説法を囲む集まりの中に入って、生と死の二つを離れた悟りを開きます。
すべての女性は、もし阿弥陀如来の名号にこめられた本願の働きによらないならば、千劫・万劫もの長い長い間、ガンジス河の砂の数ほどの劫を重ねたはかりしれない長い時間が経っても、ついに女性の身を転じることはできないことでしょう。このことを知るべきです。今、出家や在家の人で、女性は浄土に往生することができないと言うならば、それは間違いです。そのことを信じてはなりません。この文章もまた、経典による証拠です。
これもまた、阿弥陀如来に摂取されて浄土に往生させていただく縁(摂生増上縁)です。