「羅云忍辱経」

「羅云忍辱経」の書下し文をつくってみた。


「羅云忍辱経」は、大正新修大蔵経に収録されてはいるものの、今までどこにも書下し文がなかったようなので、ほとんど読まれたことがないお経と思う。


しかし、忍耐(忍辱)の大切さをとても心に響く説き方で説いており、本当にすばらしいお経と思う。

多くの人に読んで欲しい、すばらしいお経だと思う。


そのうち、現代語訳もつくってみよう。




「羅云忍辱経」


西晋の沙門・法炬訳す


阿難曰く、吾れ仏よりかくの如く聞けり。一時、仏、舍衛国の祇樹給孤独園に在(ましま)しき。時に鶖露子(舎利弗サーリプッタ)、羅云(羅睺羅ラーフラ)と倶なりき。平旦(あさ)になるを以て、法服を著衣し、応器を執持し、城(まち)に入り食を求む。時に軽薄なる者あり。両賢を逢見し、意(こころ)に念って曰く、


「瞿曇沙門の第一の弟子と羅云の分衛(托鉢のこと)せり。」


即ち毒意を興す。地の沙土を取りて、鶖露子の鉢中に著(つ)け、羅云の首(こうべ)を撃つ。
師(舎利弗)、羅云を見るに、血流れて面を汚せり。


師曰く、


仏弟子と為(な)りては、慎みて毒を含むこと無かれ。まさに慈心を以て衆生を愍傷すべし。
世尊、常に云く、「忍は最も快なり」と。
唯だ慧者のみよく仏戒を聞きて悟る。終身犯さず。吾れ自ら心を摂る。忍を以て宝と為す。恣(ほしいまま)の心は悪を履(ふ)む。猶ほ自ら火に投ずるがごとし。貢高にして自見す。愚者の謂なり。殃禍を計らず当に還って己を害す。恣(ほしいまま)の心の禍は須弥よりも重し。年寿を畢已(おえる)を以て悪罪に当てるに、十六分中未だその一を減ぜず。


愚人悪を行うを作(な)し、清浄持戒の沙門に向う。猶ほ風に逆らって炬火(たいまつ)を把りて行きて、狂愚にして捨てず、必ず自ら身を焼くがごとし。人を弊(やぶ)り毒を懐き、自ら以って慧と為す。比丘の如きは沙門を四道に怙(たの)む。仏弟子と為りては、常に当に心を伏すべし。悪生じれば即ち滅す。勇の中の上なり。天神・帝王、多力と謂うといえども、悪を忍ぶその力の無上なるに如かず。」と。


羅云、血の流れ下って面に交わるを見て、水に臨んで血を澡(あら)い、而して自ら説いて曰く、

「我が痛みはこれ須なり。奈(いかん)ぞ彼(か)の長く苦しむ斯(こ)の人を悪(にく)まんや。この地はまた悪しきなり。余(われ)、慍(うら)みの心無く悲(あわれ)まば、奈(いかん)ぞ彼何ならんや。
仏は是れ吾が尊なり、吾に大慈を教う。狂悖の人は、志の趣くところ凶虐なり。沙門は黙して忍び、以って高徳を成す。凶者は狼残にして、愚人を敬す。沙門は忍を守り、狂愚は是(こ)れを軽んず。斯(こ)の人悪(にくま)んとも、我れ焉(いずく)んぞ能(よ)く悪(にく)まんや。輪転して際無し。豈に一向ならざらんや。
吾れ仏の至真の経の喩えを以て愚惑を誨(おし)えんと欲す。猶(な)ほ利剣を以て彼の臭屍を割く。屍は痛みを知らず。剣の利ならざるにあらず。乃(すなわ)ち死屍の知る無きなり。天の甘露を以て食とするに、彼の溷(きたな)き猪はこれを捨てて走る。甘露の美(うま)からざるに非ず。乃ち臭蟲の珍とせざるところなり。仏の真言を以て、世の凶愚を訓(おし)うるも、亦(ま)た然らざるや。」と。


師、徒と倶に還って、飯じ竟(おわ)って鉢を澡(あら)い、手を洗って口を漱(すす)ぎ、倶に仏の所に到って、仏足を稽首す。鶖露子退坐す。具(つぶさ)に本末を以って、仏に向かってこれを陳ぶ。


世尊、告げて曰く、
「夫(そ)れ悪心の興れば、興り己ってこれ衰う。軽薄なる者は命終るに、夜半に至って、当に地獄の中に選ぶ無く入るべし。獄鬼の加うる痛毒は至らざること無し。八万四千歳にして、その寿乃ち終る。
魂神(たましい)は更に毒を含み蟒(おろち)の身を受く。毒重く還ってその身を害す。終って而して復た始まり、続けて蝮(まむし)の形を受く。常に沙土を食(くら)う。万歳にして乃ち畢る。瞋恚の意を以って、持戒の人に向かう故に毒の身を受く。沙土を以て鉢の中に投ず故に世世に沙土を食う。而して死して罪の畢って乃ち出づ。生を得て人と為りて母のこれを懷く時、常に重病有り。家中日に耗(おとろ)う。
兒に生じては、頑鈍にして、都(すべ)て手足無し。その親驚き怪しむ。宗家皆然り。曰く斯れ何の妖かしぞ。来りて不祥を為す。即ち取りて之を捐ず。四衢路に著(あらわ)れば、人の往来して愕然とせざる無し。或いは瓦石を以て擲げ、或いは刀杖を以て皆その頭を撃ち、脳を踏み苦を窮む。旬月にして乃ち死す。死後の魂神は即ち復た更に生せば、輒(すなわ)ち手足無く、頑鈍なること前の如し。五百世を経て、重罪乃ち畢んぬ。後に乃ち人と為り、常に頭痛の患い有り。」と。


世尊重ねて曰く、
「鶖露子よ。夫(そ)れ人の世に処(お)るに、惟(ただ)忍ばざる者は、所生の処(ところ)にて、仏世に値わず。法に違し僧に遠く、常に三塗に在りて、終りて而して復た始むるに、輒(すなわ)ち劫の数有り。若(も)し余福を蒙らば、出づるを得て人と為るも、禀操にして常に愚にして、自らを虐げるに隨う。
乃ち心は聖を嫉し、至尊を謗毀す。人と為りは醜陋にして、衆に悪憎(にく)まるるなり。生まれて輒(すなわち)貧窮にして、仕えるに官を得ずして、願いと意と違(たが)う。天神・聖賢に祐助せられず。夜は常に悪夢なり。妖怪の首尾、飛んで禍は縱横なり。所処、寧(やすら)かならず、心は常に恐怖す。斯(こ)の所由(ゆえん)は、悪心を忍伏せざる由(ゆえ)なり。故に、然るしむるのみなり。
悪を忍ぶ行者は、生るる所は常に安らかにして、衆禍は消滅す。願えば輒(すなわ)ち志の如し。顏貎は煒曄にして、身は強く病少なし。財は栄え尊貴なり。
皆、忍辱・慈恵・衆を済(すく)うの由(ゆえ)に致る所なり。忍の福と為る、身は安く親は寧(やすらか)にして、宗家は和興し、いまだ嘗(かつ)て歓ばざるなし。
智者は深く見て、迮(た)ってその心を伏せ。心は人を誤り家を破り身を危くし、王法に戮せらるなり。地獄にて焼煮、或いは餓鬼と為る。亦(ま)た畜生と為る。皆心の過ちなり。」と。


世尊又た曰く、
「寧(むし)ろ利剣を以て腹を貫かれ肌を截られ、自ら火中に投ずるとも、慎みて悪を履むこと無かれ。寧(むし)ろ須弥を戴き、迮(た)ちてその命を毀(こぼ)たれ、巨海に投ぜられ、魚鱉に呑まるるとも、慎みて悪を為すこと無かれ。その義を知られざれども、慎みて妄言すること無かれ。仏の明法は、俗と相背く。俗に珍ぜらるるは、道の賤しむところ。清濁流れを異にし、明愚趣を異にす。忠は侫と相い讐(むく)い、邪は常に正を嫉す。
故に嗜欲の人は、我が無欲の行を好まざるなり。寧(むし)ろ然(も)える炭を呑むとも、三尊を謗ること無かれ。忍の明と為るや、日月を踰ゆ。龍象の力は、盛猛と謂うべくも、これを忍より比べば、万万の一に如かず。七宝の燿きは、凡俗の貴ぶ所なれども、然してそれ憂いを招き、以て災患を致す。忍の宝と為るや、終始安らかなるを獲(う)。十方に布施するは、大福ありといえども、福は忍に如かず。忍を懐きて慈を行ぜば、世世怨みなし。
中心は恬然なり、終に毒害無し。世は怙(たの)む所無し、唯だ忍のみ恃(たの)むべし。忍は安宅と為る。災怪生じず。忍は神鎧と為る。衆兵加えず。忍は大舟と為る。渡ること難きを以て可なり。忍は良薬と為る。能く衆命を済う。
忍ぶ者の志は、何ぞ願うこと獲ざらんや。若し願いて、皇帝の典の四天下に飛行し、第二天帝釈、及び第六天に上り、寿命極まり無く身体香潔ならんと欲せば、願う所は自然にして、猶ほ家の物のこれを取るがごとし。即ち志願を得。清浄なる沙門の四道にて、これを求めば、己の在にて向かう所を得べし。吾れいま仏を得、諸天の宗とせられ、三界に独歩す。忍力の致す所なり。」と。


仏、諸もろの沙門に告げり。
「当(まさ)に忍経を誦すべし。須臾も忘るることなかれ。これを懷き、これを識(おぼ)え、これを誦し、これを宣(の)べよ。当(まさ)に忍の徳を宣(の)べて以って衆生を済(すく)え。」と。
仏、経を説き竟(おわ)んぬ。諸もろの沙門は皆な大歓喜し、礼を作(な)して而して去りぬ。


羅云忍辱経