利井鮮妙  八万法蔵章法話

利井鮮妙和上の『八万法蔵章法話』を読んで、感嘆のあまり、全文タイピングしてみた。
仮名遣い等を現代に読みやすくあらため、若干注をつけた他は、原文とおり。
明治の昔の本だけれど、とてもわかりやすい。
自力・他力のことは、現代人もとかく誤解しやすいことだけれど、非常にわかりやすく明快に説き明かしてくれている。
蓮如上人の『八万法蔵章』について最良の解説の一つだと思う。


(タイピングするにあたり、カタカナの部分をひらがなにしたり、送り仮名を若干読みやすく改めた。なお、(※)の印は私が付した注である。出典は略称が多かったので、可能な限り追跡して出典の原書名を確定した。)




利井鮮妙 『八万法蔵章法話



勧学・利井和上 述  鈴木如波 記


左の一篇は本 一月 西河原西光寺において同窓会の節 法話されたるものなり。



「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。されば聖人(親鸞)の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。
このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。」
(※蓮如上人『御文章』五帖)


この宝章を伺いまするに、一に造由(※つくった原因)、二に編次(※編集の過程)、三に入文(※文章そのものの味わい)と分ちて御話いたしましょう。


一に造由とは、蓮師(※蓮如上人)がこの一章を御製作なされた思し召しを伺うのであります。
歓喜抄』(※高遠院慧空『御文歓喜鈔』)によれば、加賀の白山の附近に四十万(しじま)村という在所があります。
蓮師の御教化に帰依する道俗が日々に群集して非常に隆盛でありました。
しかるに、白山の社僧が(禅宗または山伏という)常に往来して、ややもすれば当流の門徒を謗り法義を妨げて申すには、
真宗の教えは取るに足らぬ。何となれば、肉食妻帯を許すなどは、破戒の甚だしきもので、決して仏法ではない。
また、女人成仏などというが、女人は永不成仏(※ずっと成仏できない)と嫌われ、仏法の非器(※器ではない)と捨てられたものが、どうして成仏することができるか。」
などと悪口雑言をいたしました。
しかし、御弟子や同行はその難問に対して答うることができません。よって、その旨を蓮師に申し上げたところ、蓮師はこの一章を御染筆ありて、かの社僧の目に当たるところに置かしめなされた。
社僧はこの御文を見て不審を起し、ついに我執を止めたということであります。
また、加州(※加賀、石川県)善性寺の物語によれば、往古当所に大乗寺・祇陀寺・善性寺という三ヶ寺ありて皆禅宗でありたが、善性寺が一番先に蓮師に回心懺悔して帰依いたされた。法敬坊と号すはこれであります。無二の信者となられ、蓮師に随順し、ついに大乗寺・祇陀寺にも御文を見せてともに帰依いたさしめられた。その後、大乗寺・祇陀寺は金沢に移り、善性寺のみ今に存して蓮師御真筆のこの御文があると申すことであります。


この「八万の法蔵」等の語は蓮師の御語ではありません。
ゆえに「といへり」とのたまうてあります。
『類雑集』五(四十九丁)(※原文には『類聚集』とあるが『類雑集』の誤り)に天照大神の託宣が載せてあります。
その文に「依那切竹の上にも和光の光あり。二親の重服ありといえども、慈悲の家をは出でず。千日の註縄(しめなわ)を曳くといえども、不善の門に向かわず。八万の聖教に通達すといえども、後世を知らざるものは無智のものなり。一文を解せずといえども、後世を恐るるものは有智のものなり。」(原(もと)は漢文なれども便利のため延書にす。『類雑集』全部十巻あり、撰者明らかならず。明暦三年丁酉出版せしものなり)とある文を引いて社僧を化導したまうたのであります。
社僧はこの御文を見て心に思い当たり、「神様も八万の聖教を知るといえども後世を知らざるものを愚者なりと仰せられてある。してみれば真宗は一向「きたなき」「おかしき」宗旨と思いしに、神様の託宣に符号したる宗旨なれば、真に見上げた宗旨なり」と讃嘆し帰依したのであります。


以上は『記事珠』(※慧琳『御文記事珠』)の説でありますが、『明燈鈔』(※道隠『御文明燈鈔』)の説では、なるほど事縁の上からいえば『記事珠』の説の通りなれども、しかし社僧の事縁がなくともこの一章は御作あるべきはずである。なぜなれば、『御一代聞書』にも、その当時聖教を読みて我れ物知り顔の風情にて人に高慢ししかも我が身の後生の大事を知らざるものを誡めたまうてある。
蓮如上人仰せられ候ふ。聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖 教よみあり。一文字をもしらねども、人に聖教をよませ聴聞させて信をとらするは、聖教よまずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実によみもせず、法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなりと仰せられ候ふ。」、
また「聖教よみの、仏法を申したてたることはなく候ふ。尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、前々住上人(蓮如上人)仰せられ候ふよしに候ふ。」
とありて、常に聖教を読みながら高慢にして我が往生の大事を知らざるものを誡めんがための御製作なりと申してあります。
今老衲(わたくし)は向外門と申して、外に向かうたときは『記事珠』の説の如く、通に約して偏執我慢のものを破りたまひ、また御文に「しかれば当流のこころは」等とあるより伺えば、向内門と申して、内に向かうて御弟子や同行の聖教を読んで我慢を募るものを暁諭(おさとし)なされたものであります。
蓮師は常に「御法を聴聞したものは、己れこそと知り顔になり易いことである。灯台もと暗し。近きは遠き道理、遠きは近き道理にて、我慢のゆえにせっかく聴聞しながら御慈悲に遠くなるぞ。」と御心を痛めなされてあります。
今の法敬坊・明法坊、唯円坊などは、遠きは近き道理、今日の僧分や同行はややもすれば近きは遠き道理となります。我れ人ともにこの宝章をいただきて深く心得ねばなりません。
この宝章は外に対しても内に対しても、我慢を張るものを押さえて、我慢の旗鉾を折り、弥陀一仏乗に帰せよとの御教化であります。
造由はこれでお分かりでありましょう。


二、編次と申すは、五帖目の全体は前四帖目と違うて年号月日の次第がありません。
してみると、蓮師が次第して御製作なされたものでなく、縁に触れ時に応じて、求法の人々に御与えなされたのであります。
それを御孫の円如上人様が編集なさる時に御次第なされたものであります。それで『末代無智章』の次にこの一章を置きたまうは、いかなる御意(おこころ)でありますか。
ただ何ともなく無意味に次から次と連ね集めあそばしたものでなく、この御次第には深き思し召しがありて末代章の次にこの一章をせひとも置かねばならぬところより次第なされたのでありましょうかと伺い奉るのであります。
これはぜひとも末代・八万と次第(※『末代無智章』から『八万法蔵章』という順番で続か)せねばなりません。
なぜかと申すに、末代章では第十八願の十方衆生の御意(おこころ)を正機について末代無智の在家止住を挙げたまうを、外からこれを見て在家の愚夫や仏法に嫌われたる女人を助けるなどとはつまらぬ宗旨なりと誹り、また内に向うて在家止住のものでも仏法を聴聞し物を知り、かくてありこそと高ぶるものを誡め、たとい一文不知の何も知らぬ、知らぬというたらなんにも知らぬ、信心安心さえしらぬものが往生させていただくと、一文不知のものも真実我が身の後生を知るを智者とするということを示さんために次第なされたものであります。


三に入文と申すは、この一章の御文面について御話するのであります。
この一章は二段に分かれまして、
「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。」までは外に対して古語を引いて、内に向かって当時を誡むという一段であります。
(古き語は即ち天照大神の御託宣を引いて社僧の如き外の人の邪見を破り、また門内の信徒に対しては物知り高慢を誡めたまう一段なり。)
「しかれば当流のこころは」より終わりまでは、祖文を引きて信を勧むという一段であります。
(御開山の御語(おことば)を引きなされて仏智を信ずることを勧めたまう一段なり。)



     ○
八万の法蔵とは八万四千の法門のことで、釈尊一代五十年間の説法のありたけを大数を以て示しなされたものであります。
ちょうど「門々同じからず八万四なり」(※善導大師『般舟讃』)というが如く、八万四千の病なればその病によって八万四千の薬を与えねばならぬように、煩悩のありだけ罪業のありだけを退治せんために、釈尊の説法もまたこれに応じなされたものであります。
『思益経』(※『思益梵天所問経』)第三にいわく、「衆生八万四千の行をなす。ゆえに八万四千の法蔵を説くと。これを知るを智者とす。これを知らざるを愚者とす。」とあります。
今これをつぶさにすると四句分別あります。
一には、「智にして智」。これは竜樹・天親の二菩薩の如きは一切経を読誦し、また願生安楽国と後世を知りたまう。
二には、「愚にして愚」。世の中の人はみなこの部類であります。いかに物を知ると申しても、森羅万象の一端をも知ることができぬ。博士の月桂冠をいただいておる有智の代表者でも、万事に堪能なるものではありません。ゆえに智者の様ではあるが、愚の中に陥るのであります。そして、後生の事になると、「地獄もない極楽もない、仏法の地獄を説いて悪を懲らし極楽を説いて善を勧むるは、畢竟倫理や道徳の白粉(おしろい)を塗り口紅を付けた化粧に過ぎぬ」と真面目相に演壇に弁じ新聞雑誌に書いておるは、後生知らず我が身知らずの大愚者と申さねばなりません。
いわんや、普通世の中の愚人は、犬の如くいたずらに食い、猫の如くに眠り暮らし、鳩の如く淫欲に耽るは愚が中の極愚であります。
ゆえに蓮師もしばしば「露ちりほども心にかけずして、いたづらにあかし暮すは、これつねの人のならひなり。」(※『御文章』二帖)と悲歎なされてあります。
三に、「智にして愚」。これは今日の博士以上の人、即ち提婆達多(※だいばだった、デーヴァダッタ)の如きものであります。
提婆は八万の法蔵の中六万蔵も暗誦(そらん)じ、神通も自在に達し、戒律苦行は極端に実行した人じゃということですが、後世の事は少しも知らぬとも見えて、仏に仇をなし現身堕獄しました。
四に、「愚にして智」。周利般特尊者(※しゅうりはんどく、チューラパンタカ)の如きもの。般特はただ四句の偈文を暗記せんとして百日の時間を費やした愚鈍の人なれども、六十小劫の長き修行にて得べき羅漢の果位(さとり)を、わずかの間に証得(さとら)れました。
この四句分別の中、今この御文は、「智にして愚」と「愚にして智」とを相対して、「智にして愚」の中に「愚にしてしかも愚」なるものを納め、「愚にしてしかも智」のなかに「智にしてしかも智」なるを舎(おさ)めて、外の邪見を破り、内の高慢を砕きたまうのであります。
「八万の法蔵」とは、早くいえば、世界にあらん限りの書を読み尽くすということであります。いかなることを知りても自己(おのれ)の出離を知らず、苦楽昇沈の理(ことわり)を知らざるものをさして、「後世をしらざる人を愚者とす」と仰せられたのであります。
ゆえに大経(※無量寿経)には「死してのちに神明さらに生ずることを信ぜず。」「愚痴矇昧にして(※みづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、(本文は略す))死の趣向するところを知らず。」と御説きなされてあります。
たとい仏者にして後世を知るといえども、ただ道理や理屈に止まりて、己が後世得脱を知らざるものは、知るは知らざるに同じく、今日の不浄説法者は皆この類であります。
『阿育王経』の七に、「聡慧にして法を受けざるその恵はかえって毒となるが如し」と説き、また『宝積経』の三に、「もし衆生あり、四法を成就して、この経を説くことを聞けども、遠離を生ぜず。いかんが四とす。放逸多きがゆえに深く信ずること能わず。業異熟なるがゆえに深く信ぜず。大地獄なるがゆえに深く信ずること能わず。我れまさに死すべきがゆえに深く信ぜず。」とあります。
「たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。」とは吉水大師(※法然上人)の「たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。」と仰せらるると同じ意(こころ)であります。
「尼」とは女の出家して十戒を持てるものを沙弥尼と名づけ、五百戒を持つを比丘尼と申します。
『善見律』(※『善見律毘婆沙』)六(五丁)に「阿摩多々者(あまたたとは)」とあるを註に「ここに言う阿摩はこれは母なり。多々とはこれ父なり。」とあるは、御和讃(※『正像末和讃』)に「多々のごとくにそひたまひ、あまのごとくにおわします」とあると同じく、また、『妙文句』(※ 智邈『法華文句』)二の一(三十一丁)「尼は女なり。通して女を称して尼という。男を那と称す。富楼那と弥多羅尼子の名の如き、那は男、尼は女なり」とある。
本朝では在家にして剃髪するものを尼という。この例は万葉集にも源氏物語にもあります。男を入道というは『宝積経』三十六(十五丁)に「その恵によるが故に浄信心をもって捨家入道す」と説いてあります。
しかるに、本朝は落髪するものを尼入道と申します。次の三通の御文に「在家の尼女房」といえるが如きは愚者無智を呼んだものであります。黒髪の飾りもできぬようになれば、万事についての思案分別が、髪の短きが如く、髪の足らずして止むを得ず落とすように、止むを得ず尼となるのであります。
かかる愚か者なれども後世を知るは智者であるぞと仰せらるるのですから、聴聞したるものは愚者に非ずして智者であることを喜ばねばなりません。
この智者といわるるは、我れかしこくて智者といわるるではない、仏智満入の身であるから、いただきものの仏智より智者といわるるのであります。
『起世経』の中に三天使ということを説いてあります。その中に「遇えども遇わざるは愚にあらずや」という御語(おことば)があります。
もし私どもが命終して閻魔王の前に出たとき、閻魔王は「汝は人間界にありしとき、なぜ博士にならなんだ、なぜ大臣にならなんだ、なぜ学頭にならなんだ、なぜ管長にならなんだ、なぜ富権者にならなんだ」と呵責はしますまい。
「なぜ後生の大事を知らずにいたぞ」と呵責せらるるに違いはない。
その責めを蒙るとき後悔して臍をかむようにもがいてもしかたがない。これを愚といわずして外に愚というものがありますか。
天地の間に五道は分明にある。その目前見事を知らざるは愚が中の愚であります。
それに引き換えて一文不知のものが御教化の如く心を柔順(すなお)にして、「人間は不定の世界なり」と知らしていただき、「極楽は常住の国なり」とお聞かせにあずかり、「されば不定の人間いあらんよりも常住の極楽を願うべきものなり」と大安堵心・大決定心・大歓喜心になれば、これが真実の智恵者にして臨終の夕には、天下無二の大博士・大富権者であります。
「といへり」とは天照大神の託宣を引きたまうがゆえに「といへり」と仰せられたのであります。
ところが天照大神の託宣を引かずとも、かようの御語(おことば)は経文に多くあるゆえ、経文を御引きなさるるが至当の事であろうに、なぜ神託を御引きなされたものでありましょうかと申すに、これは相手の山伏が経文に疎く神託などは心得ておるものゆえ、相手の知るところをもって御諭しなされたものであります。
しかるにこの神託が仏説に合しておるのは実に妙な次第といわねばなりません。
『増一阿含』第二十三の偈に「千章を誦すといえども、義あらざれば何の益ぞ。一義を聞て得益すべきにはしかず。」また『涅槃経』三十一に「善星比丘また十二部経を読誦すといえども、一偈一句をも解せず。」と。
『往生要集』に「調達(※提婆達多)は六万の法蔵を誦すれども那落(※地獄)を免れず」とあります。
「しかれば当流のこころは」等とは、内に対して高慢を破り、後世を知るべきことを誡めたまうのであります。
上の一段は諸宗に通じ、今は別して浄土門を顕したまうのであります。
元祖(※法然上人)の御語(おことば)に「聖道門は智恵をみがきて菩提を期し、浄土門は愚痴にかえって浄土を願う」と。聖道ですら自身の出離を知らぬは、たとい八万の法蔵を知るとも愚者である。まして、愚痴に返って出離を願う浄土門ならば、後世を知らぬ仰信なきものはなおさら愚者といわねばなりません。
よって「しかれば当流のこころは等」と仰せられて、いかほど聖道を読んだ大学者でもこの信心なくば、臨終には閻魔王の裁判をうけねなりません。
『安楽集』下(二十六丁)に『薬師経』の意(こころ)を引いてありますが、平たく御話すると、人間の平生に、司命神という二人の神が始終付き守っておる。一の神は男神で、同名男というて、左の肩にありて常に善事を記しておる。一の神は女神で、同生女というて、右の肩にありて常に悪事を記しておる。
しかし、凡夫の眼では少しも見ることができないから、別段心にもかけず日々に悪事を行うておるが、臨終になると一度は魔王の裁判を享けねばならぬ。いかほどの善人でも裁判を受けねばなりません。
しかるに、ただ弥陀の本願を信ずるものだけは、悪人は一念のところに三世の業障は消滅し、善人は有漏の雑善がたちまち無漏清浄の善となりて、少しも魔王の前に善悪の裁判を受ける必要がないから、魔王の前を素通りすることができるぞ、との意(こころ)であります。
誠にありがたきことではありませんか。今生一旦の公事争訟でも、もし裁判所から呼び出し令状が来たならば、どれほど心配するかもしれません。
たとい自身が正しくして裁判所で負ける気遣いはなくとも、心配でたまりませんでしょう。
まして自分が悪しくあるという考えがあったならば、酒を飲んでも味はあるものではありません。寝ても眠れるものではありません。
それに私どもは、今度はどうであります、善悪の裁判、業道の秤にかけたならば、ぜひとも魔王の前で懲罰の宣告を受けねばならぬ身が、不思議の本願に信順したばかりで、魔王の前を素通りすることができるのであります。素通りどころか、魔王が尊敬して守りてくださることであります。
御和讃(※『浄土和讃』中の「現世利益和讃」)に「南無阿弥陀仏をとなふれば、炎魔法王尊敬す、五道の冥官みなともに、よるひるつねにまもるなり」と仰せられてこれほど結構なしあわせを知らずにおるは、実に愚かのいたりであります。
そこを「あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。」と仰せられたのであります。
古き句に「咲くまでは 草といわれた 野菊かな」という句がありますが、真宗の行者は、「死ぬるまで 愚者といわれた 仏かな」と申したらよろしくありましょう。


「されば聖人の御ことばにも」以下は、祖師の御語(おことば)をもって信を御勧めなさるるのであります。
しかるに祖師の聖教中にこの御語はありません。
『正像末讃』に「末法第五の五百年、この世の一切有情の、如来の悲願を信ぜずは、出離その期はなかるべし」「釈迦の教法ましませど、修すべき有情のなきゆゑに、さとりうるもの末法に、一人もあらじとときたまふ」、
また『高僧讃』に「末法五濁の衆生は、聖道の修行せしむとも、ひとりも証をえじとこそ、教主世尊はときたまへ」「弥陀の名願によらざれば、百千万劫すぐれども、いつつのさはりはなれねば、女身をいかでか転ずべき」等の趣意の文でありましょう。
『安楽集』に「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて、通入すべき路なり。」とは仏の金言、『大集経』の意(こころ)によって御示しなされたものであります。
それと同じく今も高祖(※親鸞聖人)の御意(おこころ)をもって「「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり」と御教化くだされたのであります。
「ふつとたすかるといふことあるべからず」とは『安楽集』の「未だ一人も得るものあらず」の意(こころ)にして「ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり。」を反勧(うらからすすめる)したものであります。
「ふつ」とは不通と書きて義のかよわぬことで、西行法師の『選集抄』にしばしばこの語(ことば)が出てあります。
もし聖道を不通とすれば、聖道は無得果にして成仏得道はできぬように聞ゆる。
しかるに、蓮師は「如説修行せばその益あるべし」と御教化なされた御文もある。
しかれば、蓮師は御自身の御語(おことば)に相違なされてあるように思われるが、これは「如説に修行すればその益あるべし」とは正法時代の教行証具足の人に約して仰せられたもので、もし末法の有教無人の時代には、如実に修行する人なきゆえに無得果といわねばならぬ。
ゆえに、『大集月蔵経』(※『大集経』の「月蔵分」)に「我末法の時の中の億々の衆生、行を起して道を修むるに、未だ一人として得る者あらず。」とのたまうてあります。
ただし、真宗義において唯有一乗の法門を論ずるときは、在世正法の時といえども聖道は無得果として成仏得道は許さぬのであります。このことは他日御話することにいたしましょう。
「このゆゑにいかなる女人なりといふとも」とは彼の社僧の女人往生を難ずるゆえに、弥陀如来の本願によれば障りの重き女人も往生することを顕して、いかなるものも往生することを得るぞと御示し下されたのであります。
「もろもろの雑行をすてて」とは自力のはたらきを捨てよとの仰せ、「一念に弥陀如来今度の」とは他力に帰することを示し下されたのであります。
近来「純全の他力というものはあるべきはずはない。自力・他力の二が相寄りて何事も成就するものである。真宗の他力というも、つまり自力・他力の混和したるものである」と申す人がありますが、それは大いなる間違いであります。
一応聞きますと、阿弥陀如来の御慈悲を自分が信じたによって往生ができる、如来の慈悲と我が心と二物相寄るものですから、なるほど自力・他力の混和したものと思いますが、これは自身と自力との差別(しゃべつ)を知られぬから迷いを生じたのであります。
真宗で自力を捨てよとは、自も力も捨てるのではありません。
自分で力みする力を捨てるので、いわば「如来の力はいらぬ、自分の力でやる」という力みをやめて、「自分の力は間に合わぬ、如来の力に依らねばならぬ」と気づいたのが、自力を捨てたので、また他力をたのむだのであります。
あたかも「この本堂へは泥足無用」と札を出す如きもので、泥も足も無用というのではない。泥のついた足では昇ってはならぬ、泥の付かぬ足にて昇れというごときものであります。
「後生たすけたまへと」とは、「たすけ」は仏の勅命、「たまへ」は衆生の受け心、すなわち「たすけたま」ふの仏勅を「へ」いと信順することであります。
『御裁断御書』にも「たすけたまへといふは、ただこれ大悲の勅命に信順するこころなり」と仰せられてあります。
「ふかくたのみまうさんひとは」とは、深く信ずることであります。私どもが深く信じたと申したところが、二六時中忘れどうしの信心なれば、決して深くとは申されません。
しかしながら「信心浅くとも本願深きがゆえに、たのめばかならず往生す」と横川大師(※源信僧都)の仰せられた如く、深き深き本願を信じさせていただきしゆえ、深信ともいわれ、「この心深く信ずることなおし金剛のごとし」といわるるのであります。
「十人も百人もみなともに弥陀の浄土に往生すべきこと、さらさらうたがいあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。」とは、千無一失を顕して(千人の中で一人もはずれぬこと)万不一生千中無一の雑行に簡(えら)びたまうのであります(万人の中に一人も報土往生ができぬ。千人の中に一人も御待受の浄土へは往生するものがない)。
真実報土に往生する人は他力念仏の行者に局(かぎ)る。もし化土ならば、百人の中で一人か二人、千人の中では三人か五人ぐらいしか往生するものもあろうが、今は弥陀の報土なれば往生はできぬ。
智目行足あるめでたき人でも真実報土へは影もさすことができぬのに、一文不知の私どもが易く往生させてたいだくということは、偏(ひとえ)にこれ本仏のやるせなき御恵みと喜ばねばなりません。
以上、大略この一章を弁じ終わりました。なにとぞ来月の同窓会までは、朝暮にこの一章を拝読して法味を愛楽していただきたいことであります。


八万法蔵章法語 終