深川倫雄和上が昨年の暮れに往生されたとさっき聴いて、驚いた。
御年からいえば、九十ぐらいだったろうから、さほど驚くことではないのかもしれないけれど、なんだかずっと生きておられるような気がしていた。
もう、かれこれ四、五年前のことだけれど、あるお寺で、深川和上の御法話があり、御示談もあって、質問させていただいたことがある。
どういうことを質問したかというと、
「浄土真宗では、宿善開発ということと、信心獲得ということが、たとえば蓮如上人の御文章などを読んでいると出てきます。これはどのように受けとめるべきでしょうか?」
ということだった。
それに対して、深川和上は、
「宿善というのは、宿縁のことで、遠い遠い昔、長い輪廻の中で、私は気付かなかったけれど、少しずつ如来様が、何度も何度も、少しずつ私に働きかけて、御縁を結んでくださった、ということ。
つまり、如来様の働きかけによる仏縁のこと。
その縁がずっと重なって、今仏法を聴いて、念仏申す身となった。
世の中には、いつ信心をいただいたか、ということをやかましく言うものがいるけれど、そんなことはどうでもいい。
いつでも大切なのは今。
今、如来様の御本願を聞き、御救いにあずかる。
それが信心。
いつでも大切なのは今。
それが平生業成。」
という御答えだった。
なるほどーっと思い、その時のことは、その後、とても私にとっては善い導きになったと思う。
また、深川和上は、御法話で、いつも、
「大無量寿経には、全く「私」がどうするかという、私の側のことは書かれていない。
初めから最後まで、徹頭徹尾、如来様の御働きのことが書かれている。
だから、長い間、誰もわからなかった。
何のことが書いてあるか、これは何だ、とわからなかった。
そのことを、わかって、我々にもわかるように書いてくださったのが、御開山様(親鸞聖人)。」
ということを、繰り返しおっしゃられていたのを思い出す。
私の側の働きではなく、如来の側の働きを聞く。
そのことばかりをおっしゃっていた。
そのことをはっきりおっしゃってくださるのが浄土真宗だと、今にしてあらためて思う。
いつかまた御聴聞したいと思いながら、うかうかと過ごしてしまっていた。
生死事大、無常迅速。
なるべく機会を逃さず、御聴聞しとけば良かったと思う。
なんだかムスッとした感じで御法話されるけれど、笑顔の時には愛嬌のある和上様だった。
御聖教や御開山様に対する態度が、本当に端々に、至誠というか、敬虔さとはどういうことか、教えられるような気がした。
この前は中西和上の往生を聞いたけれど、和上様方がだんだんと浄土にいってしまわれるのは、寂しいことだと思う。