七里恒順は名前は有名だが、今日なかなか一般にはその本が入手しがたく、実際に読んだことがある人は多くはないのではないかと思う。
著作権はとっくの昔に切れているので、今回、『七里和上法話聞書』をタイピングしてみた。
求法・安心・報謝・処世(生き方)の四つを明確に分け、わかりやすく解説している。
これを読めば、いかに浄土真宗が熱意と注意と努力を要すものか明確にわかり、怠けてぼーっと何もせずにいるのを他力と勘違いしているのがいかに間違いか明確にわかる。
多くの人に読んでもらいたい、すばらしい名著と思う。
なお、現代人に読みやすいように、句読点や送り仮名を若干変更した。
『七里和上法話聞書』
平常談話の部
末弟 佐竹智応 集記
【第一 求法心】
「人、世間愛欲の中に在りて、独り生じ独り死し、独り去り独り来る。行に当って苦楽の地に至趣す。身自らこれに当る。代る者あることなし。善悪変化し、殃福処(ところ)を異にす。あらかじめ厳待して、まさに独り趣入すべし。遠く他所に到りぬれば、よく見るものなし。善悪自然に行を追うて生ずるところ、窈々冥々として、別離久しく長し。道路同じからざれば、会ひ見ること期なし。甚だ難く、甚だ難し。復(ま)た相(あ)ひ値ふことを得んや。なんぞ衆事を棄て、おのおの強健のときに曼(およ)んで、努めて善を勤修し、精進に度世を願はざる。極長生を得べし。いかんぞ道を求めざらん。」
(『仏説無量寿経』)
蓮如上人の御言(おことば)に、「身を棄て望み求むる心より、信は得らるるなり」と仰せられて、一心になり本気になりて聴聞せねば、居眠り半分では聞えませぬぞ。
そこでまず第一に我が身の後生の一大事と、真剣になり、熱心に一生懸命になりて、法を求むるの心がなければなりませぬ。浮気の聴聞では、法は得らるるものではありませぬ。
蓮如様は「仏法には、明日ということあるまじき由の仰せに候。たとい大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきく人は、ながく不退にかなうなりと。和讃にあそばされ候。」(『御一代聞書』)
されば、まず我等が今度の一大事の後生、御助け候へと、本気になりて、真実に法を求むるの心を起すのが肝要であります。
「身を棄つる例」
広く世の中のありさまを観察してみますれば、社会の広き、人類の多き、あるいは酒のためにその命を棄て、あるいは欲のため金のために命を棄て、あるいは色情のために一命をなげうつ者、その他、暴食して口のために病を発し、瞋恚のため、愚痴のため、あたら命を棄つる人はたくさんあります。
かかる迷妄の事にすら身を捨つる例(ためし)あり。いわんや、悟りを開き、後生を助かる一大事の法を聞くに、身を捨て、本気になりて法を求め聞くのは、当たり前ではないか。
そもそも我れ人が、人界に生を受けし最第一の目的は、わずか五十年の夢まぼろしの栄耀栄華、愛欲名利にはあらず。生々世々の永き生死の迷いを離れて、涅槃の悟りを開く御法(みのり)を求むるが、人間の目的にして、また法を求むるの精神であります。
「一大事の底」
天親菩薩は「我れ、一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつる」。また、善導大師は、「我が身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなしと深信す」。また、蓮師(※蓮如上人)は、「我らが今度の一大事の後生」と。
いずれも我々と仰せられて、御自身御自身に御身に引き当てて、御深信なされてあるに、それを人のことのように聞き、よそごとに聴聞していて、御慈悲の聞こえるはずがない。
「我が身は風前の燈火(ともしび)、我が身こそは必堕無間である、未来こそは大切である、一大事なり」と、法を求むる本気になり、心のうちに後生大事の底が入らねば、信心は頂かれませぬ。
(喩え)かの桶をご覧じ。外側のたが板は立派でも、またたが輪は新しくても、中に大切の底板がぬけてあるなれば、朝から晩までなにほど水を汲みこんでも、一滴も溜りはせぬ。
(法)参詣下向のたが板は立派でも、帽子肩衣のたが輪は新しくても、胸の中に大切な後生大事という底板がぬけてあるなれば、いかに善知識は弥陀の法水を、朝な夕なに汲みこんで下されても、生涯信心の水は一滴も溜りはいたしませぬ。
「求法は信前」
中興上人(※蓮如上人)の「また不信心の人もあるべし。もてのほかの大事なり」とある。
これは信前(※信心決定の前)の人に求法をすすめたまう御文にて、「されば不信の人も、すみやかに決定の心をとるべし。人間は不定のさかひなり」と勧誡したまう。またすでに信心を獲得せしめたる人は、法味を愛楽して、報恩の称名に余念なきのみ。
しかるを信前の求法と、信後の相続と混同してならぬ。その水際をよく分けて聴聞すべし。
未信の人は精出して、充分に力を入れて、聞くべし。力を入れて聞くと、力の入らぬということが、遂によくわかりて来ます。
不信の人は、熱心に本気になりて、一心に法を求むる心を起さねばなりませぬ。
「四門の水際」
第一の求法心は信前なれば、最も熱心に一生懸命になりて、法を求めて聞かねばならぬを、第二の安心の「このままながらの御助け」を混交して、居眠り半分に聴聞したり。
また第二の安心は、聞信の一念に易く決定のできるのを、第三の報謝をこれに混同して、相続心の喜ばれるの、喜ばれぬの、称えられるのと、後々の相続を以て、初帰の一念の安心に混合したり。
また第三の報謝は、行住坐臥、寝ても覚めても称名念仏せよとあるに、かえりて安心のこのままながらを混交して、称えても称えいでもと、心得あやまるものあり。
第四の処世も、真宗信者は、特に無宗教者よりもその品行を慎み、職業に勉励し、地獄行きの人と、極楽参りの人とは、違わねばならぬに、これに機の深信の我が身は悪しき凡夫じゃものを混雑して、その身の行いを慎むことに注意せざるものあり。
これみな誤りなり。
飯椀には飯を盛り、汁椀には汁を入るるべし。もし汁椀の中に飯粒が入りていたり、飯の中に魚の骨などが入りていては、なにほど結構な御馳走でも、たちまち胸が悪くなりてくる。ついには一所に交えて口へ入るものなれども、御膳の上へ並べて出だすまでは、御飯は御飯、味噌汁は味噌汁と、分明に別々に盛り分けてこそ御馳走なり。金蒔絵の三つ組みの重箱も、第一重は見たばかりも美味そうな新鮮なる烏賊の味噌和え、第二重は水晶のごとき精米の握り寿司、第三重は鯛の煮つけと、かく別々にありてこそ、御馳走なり。
もしこれが混雑して、味噌和えの中へ寿司の飯粒が一つ二つにても入りていては、もはや不潔となり、すたりものなり。
第一の求法の、熱心にならねばならぬ中へ、安心のこのままながらを混入せぬよう。また第二の安心の一念帰命のこのままながらのその中へ、第一、第三の熱心と注意とを混入せぬよう。その盛り分けと配置とを、判然と区別し、第一の求法心と、第三の報謝と、第四の処世とは、充分に注意と熱心を用い、第二の安心は仏勅(※仏の命令)のままに信順するの一大区域をよくよく弁えねばならぬ。
よって飯を盛るは飯椀なり。汁を受くるは汁椀なり。ともに膳の上に並びたれども、その役目は判然区別せり。飯を受くるに汁椀を以てし、汁を入るるに飯椀を以てせば、どちらもその用を失わん。
信心も称名もともに本願の文に見えて、真宗の教義には相違なけれども、正因を談ずるは信心にして往生の果に向かい、報恩を説くは称名にして弥陀の恩海に向かう。この二の法相判然区別せり。混交すれば、ともに利益を失わん。
「求法の用心」
求法の用心が、第一肝要じゃ。盃に酒をつぐ時、酌人は下手でも持ち人が上手なれば、酒は一杯入る。なんぼ酌人が上手でも盃の持ちようが歪んでおりては、一杯満つることはできぬ。乃公(おれ)の酌人、法話は下手でも、聞く方が本気なれば、きっと御法(みのり)の法水は満つるに違いない。
おまえたちは何百里も遠方からわざわざ博多に行き、法話をきく気になりてきた。そもそも国を出る時から、心の法水を入れる盃は、シャンと真っ直ぐになりてある。それじゃによりて、国で御院主(※寺の住職)の法話を聞いたのと、今乃公(おれ)が話を聞くのと、寸分違うところはないけれども、受け心が大層違ってあるように思うのじゃ。
「御馳走の土産」
御馳走にあいて、土産を持ちて帰るに、二通りある。一つは自分で満腹して、残った御馳走を自分のうちへ持って帰る。この御土産はよろしい。
第二は、御平も坪も汁だけ吸って、美味いところは、自分で一口もたべずに自家に持って帰る。これはごくごく下等の方じゃ。
御法話をきき御信心に満腹して、戻りてともに慶ぶはかりしれない喜びはよいけれども、ただ聞き覚えて他人に受け売りするばかりの御土産なら、それは誠に下等の方でいけません。
「設(たと)ひ大火の三千大千世界に、充満するあるとも、要(かな)らずまさにこれを過ぎて、この経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説(せつのごとく)に修行すべし。」(『無量寿経』)
【第二 安心】
「船中にての仕事」
予(よ(※自分のこと))、前年京都に上らんとし、門司に出で旅宿の楼上において汽船の抜錨を待つ時、隣室に商人の客あり。しきりに帳面をひらき、算盤を出して、余念なく勘定をなせり。
ところへ、宿の下女、急ぎ来たり、ただ今抜錨の時間なりと告げ知らせければ、件の商人はたちまち帳面も算盤も皆行李の中に納めて、直ちに汽船に乗り込みぬ。
汽船中、予とまた同室なりしが、船の進行を始めたる時、また帳簿算盤などをとり出して、勘定を始めけり。
よき工夫をなすものかな。出船の時間を告げ来りしとき、今は算用の最中なり、少し手のあきたらんとき乗船すべきなど心得たらんには、ついに乗船の機会をもとりはずすべきに、出船の時には素直に直ちに船にのりて、またさきの仕事を船中にてなすこと、乗船の利益と算用の仕事とを両全さする工夫なり。
世の中の人に仏法を聴聞せよと勧むれば、今は世事に多忙なり、まだ年若くして聴聞の暇なし、と言うものあり。無常の風もこの間にふかぬものかは。何ぞこの商人を学びて、まず大悲の願船に打ちのりて、その多忙なる世業(※世間的な仕事や行為)を願船中の仕事となさざるや。
高祖聖人(※親鸞聖人)のいわく、「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破りて、速やかに無量光明土に到り、大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり。」
また、七里和尚が、ある商業家に与えられたる書中の一節に、「人生の目的は、本願の船に乗りて、商業を勉強し、報恩の資金をつくり、念報相続するにあり」と。同意の文なれば左に掲ぐ。
「第一に人界に受生したる本懐は、六道の迷いを脱して、本願の船に乗ずるを、目的とするにあることを忘却せず、常に大悲の御助けを念ずれば、静かなる海に、大船に乗じたる心地のするものなり。
この心より仏恩報謝の称名を相続すれば、たとえば遊船中にありて謳歌する心持にて、喜びはおのずから身に溢るるなり。この中より商業を勉強(※努力)すれば、念仏相続の資本と、弘教慈善(※教えを広め慈悲の心から良いことをする)の資金とを作る目的を立て、煩悩の楽しみのためには、厘毛(※ほんの少しも)費やさぬよう、よくよく用心を加うべし。
もっとも商業にも、すべて原因・結果を基とし、もとより大なる結果を望むべからず。資金と智力と勉強(※努力)との三つを原因とし、純益を結果とし、小因大果を望むべからず。勉強(※努力)を七分にし、資金を二分とし、智力を一分と心得べし。
智力の過ぎたる商業は、常に失敗するものなり。これ原因・結果の原理に違うが故なり。極端をいわば、勉強さえすれば、結果はその時得ずとも、一度は得るに違わぬものなり。
かかる道理は誰も熟知すれども、実行にかからぬ人多し。このかかりにくき道理を易く実行にかけさせてくださるは、全く御法義(※浄土真宗のみ教え)の御徳なれば、常に御相続を仕事として、その中より商業に勉強するは、おのずからこの道理にかなうものなれば、なにとぞ懈怠を払うて、御相続に注意せられたきことなり。以上
「されば人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」(※ 蓮如上人「白骨の御文」)
生れては死ぬるなりてふことのみぞ、さだめなき世にさだめあり、と詠めるごとく、ひとたび生まれたという始めがあれば、終には必ず死するというは、人間社会の原理原則で、上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがるることのできぬのが無常の風。いかに王公将相の威権あるも、またいかに豪富尊貴の誉栄あるも、いったんこの世に生をうけし以上は、上下の差別(しゃべつ)なく、男女の区別なく、遅かれ早かれ、鳥辺野一片の煙と消え失せねばならぬにさだまりておる。
大体、人生は有為転変の境界で、昨日のことは今日は変わり、今日のことは明日は変わり、諸事一切千変万化、何ものも昨是今非(はやがわり)。さだめなくはかなきが人間浮生の情態で、世間の世の字を遷流の義なりとも申して、うつりかわるというが世の字のこころ。そのかわりやすき世の中に生まれたものが、死なねばならぬということだけは、さだめなき世にさだめありけり。「誰か百年の形体をたもつべきや。我やさき人やさき、今日ともしらず明日ともしらず、おくれさきだつ人は、もとの雫すえの露よりもしげしといえり」(※「白骨の御文」)と。いよいよ死することとさだまりてみれば、その死するは何年何月何日と、前もってさだまりておるかというに、それは不定でいつ死することともはかられぬ。これがすなわちさだめなき世で、すなわち御文にも「されば人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば」と仰せられて、年寄はもちろんなれども若いというて決してたのみにならぬ。電光石火の露命なれば、出息入息、不待命終、出る息は入るをまたぬ習いじゃと、御いましめくだされてある。
それを蓮如様はゆるやかに、明日もしらぬ命にてこそと候に、何事を申すも命終りそうらわば、いたずらことにてあるべく候等と御教化くだされて、命のうちに不審もとくとくはらせよとある。その命のうちというも無常をとりつめてみれば、今日今時現在この場よりほかはない。現在この場において、「誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」。この御言(おことば)はいたりて短簡なれども、実にその意義(こころ)広大にして、往生の大事・出離の要道を、すべてこの中に網羅しての御化導。実に人間は老少不定の境界、今にも知れぬ後生じゃと観じてみれば、漠然茫乎(うかうか)としてはおれぬ。「誰の人も」とあるからは、この座の人はのこらず、貴賤上下・一切万人、みなことごとく早くすみやかに片時も急ぎて、後生の大事を大事とあきらめ、未来の落着(おちつき)をさだめねばならぬ。
しかるに今度の未来後生は、もしこの法によらば度脱(たすかる)し、この法によらざれば流転(たすからず)す。度脱・流転(たすかる・たすからぬ)の分域(わかれみち)。苦楽昇沈の場合なれば、この上もなき一大事。あるいはもっての外(ほか)の大事とも御教化くださるる。この一大事というところに心が据われば、もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の、後生御たすけそうらえと、阿弥陀仏をふかくたのみまいらするより外(ほか)はない。これがすなわち御当流(※浄土真宗)の安心で、専修専念一向一心の御謂れ。たとい念仏は唱えても称名を精(はげ)んでも、定散自力の迷情たる、己がはからいがありては、決して真実報土の往生は相叶わぬ。それゆえ雑行雑修自力の執心をはなれねばならぬ。
たとえば雑行というものは栗のいがのごときもの。また雑修というものは栗の皮のごときもの。自力のこころというものは、栗の中の実に着きておる渋皮のごときもの。それゆえまず第一に雑行のいがを去り、次に雑修の皮を剥きすて、さらにその次に自力のこころたる渋皮をきれいにとらねばならぬ。実に雑行雑修は却りてはなれやすいようなれども、念仏の栗の実に着いておる、定散自力のこころという渋皮が、至りてとれがたきものにて、いよいよ自力はかなわぬと見限りのつくは、一心に弥陀にたのまれた、一念帰命の時である。御本書(※『教行信証』)の上に、「無始よりこのかた助正間雑し、定散心雑(まじ)わるがゆえに、出離その期なし」とも仰せられ、また『御一代聞書』の上には、「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく生死に流転しけるとは、ききわけてえ信ぜぬもののことなり」とも御示し下され、とかく己が機のよしあしにこころをとどめ、定散自力の根性をすつることができぬ。
しかるに、もと本願の御謂れは、有善無善を論ぜず、己が手もとをながむるな、善も要にあらず、悪もさまたげなし、願力無窮にましませば、罪業深重もおもからず、仏智無辺にましませば、散乱放逸もすてられず、上六品の善人も、その善が役に立たず、下三品の悪人も、その悪がさわりにならず、上は等覚の大士より、下は五悪深重の悪凡夫にいたるまで、善悪二機の差別(しゃべつ)なく、そのまま受け取るぞとあるが本願の正意(おこころ)。
しからば、わが機の方の善悪をかえりみず、有善無善を論ぜず、出離ひとえに他力にありと、定散自力の迷情を打ち捨てて、ひたすら仏智他力の不思議を仰ぎ、足を大地にふまえる如く、心大丈夫に往生一定・御たすけ治定と、安堵のできた一念の場合が、とりもなおさず阿弥陀仏をふかくたのまれた深信と申すもの。
「ふかくたのみまいらする」とは、深信の御ことわりで、善導大師が「この心深信せること猶(なおし)金剛の如し」と仰せられ、ふかくたのまれたありさまは、たとえば金剛宝石の火のために焼かれず、水のために朽ちざるがごとく、大丈夫堅固なるものである。この往生一定・御たすけ治定と、安堵安心する一念の信心は、とりもなおさず金剛不壊の真心で、この信たるや己が心をねりかためたる信心にあらず。信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむる等とも仰せられ、御本書信の巻には、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」とも御示しくだされ、弥陀如来御回向の他力の大信心ということは、やがてあらわにしられたり。
凡夫のこころをねりかためた信心では、金剛心とはいわれぬ。仏の金剛心を行者帰命の当体に御回向くださるるから、この心深信せること猶し金剛の如し。この金剛堅固の信心が、すなわち証大涅槃の真因であれば、何時命は終るとも、初生速極証大涅槃の妙果を得さしていただくことである。
「小石は沈み大船は浮かぶ」
石はたとい小なりとも、沈むべき性質のものなれば、これを大海に投ずるに、その底まで沈めり。しかるに船は何ほど大船なりとも、水上に浮かびて、自在に廻転し、よく重荷を乗せて、この岸よりかの岸に運送せり。
今、我ら罪業深重の身、生死の大海に沈むべきはずなるに、弘誓の願船に乗じぬれば、生死の苦海ほとりなきも、「乗せてかならず渡しける」。小石すら沈むのに、岩よりも重き罪業の身が、安々と涅槃の彼岸へ往生遂ぐるは、全く弘誓の船の力なり。「願力無窮にましませば、罪業深重もおもからず」。渡るべからざるをわたし、重荷を重荷とせざるは、大願業力の御はたらきと仰信すべし。「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(※『正像末和讃』)弥陀の大悲を信ずるとは、たのむこと。たのむとは、「船にのりこんだこころもち」。ことわざに、くよくよ物案じする人に、「親船に乗りた機になれ」と言うて聞かせる。船に乗りさえすれば世話はいらぬ。「櫓も櫂も われとはとらじ 法の船 ただ舟人に まかせてぞゆく」(聖徳太子)。「寝てもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし」(※蓮如上人)。御信心が得られたら、あなたの御慈悲を、寝ても覚めても忘れるなと仰せらる。しかし無理に忘れまいとかかったとて、覚えておらるるものではない。たとえば大海の真中で大風にあうて、難船した時、ちょうど助け舟が来て助けてくれたら、その御恩は忘れうと思うても忘れられぬ。今、我々も生死の苦海に沈みこんでおるものを、弥陀弘誓の船のみぞ、我れ助けずんばまたいずれの仏の助けたまわんぞと思し召し、大願の助け船を浮かべさせられ、常楽涅槃の港へ乗せて必ず安々と着けてくださると思えば、忘れられぬ道理じゃ、強いて御慈悲を忘れまい。無理に御称名相続しょうと、御慈悲を我が身に宿そうと掛かるで、かえって忘れる。かかるやつめも御助けの御本願とは、いかなる大悲の親様やらと、あなたの大悲の願船に乗り込めば、御慈悲は常に忘れられず。思い浮かべては喜ばるるなり。
乗彼願力とて、弘誓の船に乗り込むが肝要なり。乗り込みさえすれば、定得往生と、仏のかたより往生は治定せしめたまう。たとえば九州より京都へ上らんとして、博多の海岸に至る時、早く行かんと、心に京都のことのみを思いて、船に乗るを忘れなば、いつまで経るとも、三十六灘を超えらるるものにあらず。ゆえにこの海岸に至りなば、京都のことを思う心をしばらくやめて、船のことを考うるなり。出船時間にはずれぬよう乗り込みさえすれば、自分が京都へ行くと思うの切なるも、それがため早く行くべくもあらず、また忘れたりとて遅刻するにもあらず、全く船の力に任せてその力ひとつにて京都の方へ行くなり。今、願力に往生を任せるとは、この船に乗りたるごとき味わいなり。祖師もただ不思議と信じつるうえは、とかくの御はからいあるべからずとのたまいたれば、わが胸ながめてとやかく思うはみなはからいにて、自力病気ののかぬことと思い、ひとすじに如来の願力に任せ奉るべきなり。
(和讃にいわく、
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず)
「已信未信、老若、両方へ対しての法話」
今日、婆々さんがたも多い、また若い衆も大勢参りていなさる。若い人の中に御いただき(※信心決定)のできた御方もあろう。老人がたにもまだ御いただきのできぬ人もありましょう。けれども、仮に婆々さんたちを信の得られた人となし、若い人を信の得られぬ人と見なして、しばらく御話しいたすつもりなり。しかし、どちらも人にゆずらずよくお聞きなさいや。
まず若い人の中、未決定の人に対して御話いたしますぞ。さて御慈悲の味わいというものは、御信心を得た人同士でなからねば、その旨味は知れませぬ。その信心をいただくというは、むずかしいことかといえば、蓮如様は「あらこころえやすの安心や、あら行じやすの名号や」と仰せられて、実に易行易修、信をいえば一念十念、いかなる愚者もおこしつべし。行を論ずれば一声十声、いかなるこどもも称えつべし。いかなる阿房(あほう)でもきかれる南無阿弥陀仏。どんな老人でも小児でも称えらるる御名号。御信心の味がしりたいなら精出して聞きなさい。
「たたらふめふめ、たたらふめ、たたら、精さえ出せば、金はわくなり」。「御法(みのり)きけきけ、きけきけ、他力の御法きけ、きけば御慈悲で、信は得らるる」。
聞よりおこる信心ともあり。『御一代聞書』には、「聴聞を心を入れそうらわば、御慈悲にてそうろうあいだ、信は得らるる」とも仰せられ、これを御経(※『無量寿経』)には「聞其名号、信心歓喜」と説かせられてありますから、聞き損じのないように、本気になり真剣になりて、よく御聞きなさい。
ところが御慈悲を味わい、御恩を喜ぶ人をみて笑う人もあるが、これはまだ御信心をいただかぬ人とみえる。信を得た人ならば、人の喜ぶをみるにつけても、わが身の仕合わせが喜ばるるものなり。信を得ぬ人は旨い味をしらぬから、おかしく思うて笑うも、もっともじゃが。
それについて分かりやすい喩えがある。ある人が山の先に用事がありて、三人づれにて大雪降りに山を越しかかり。「こころえて いながらすべる 雪の道」、三人ともに雪の中にこけて、手も足も雪まみれになり、二人は寒いやら冷たいやら、とにかく起き上がりがたがたふるえておる。
ところが、一人は雪の中にころりころりところびまわり、あついあついと叫んでおる。そこで二人は合点がゆかぬ。この寒い冷たいに、あついあついというは、気でも上りはせぬかと笑いながらに、その人を引き起しよくしらべてみれば、あついはずじゃ。こけた拍子に懐炉の火が、懐の中にこぼれてありたそうな。あついはずじゃ。ところが二人は持たなんだから、あつい味をしらねば笑うももっともじゃというはなしがある。
今もその如く、御信心の懐炉を、内心にふかくたくわえたる人は、ありがたや尊とやと、御信心の懐炉の火が折々こぼれ、ひとりおりても喜びがあらわるる。
また説教法話中は、なるだけ小声に称えなさいと言うておいても、思わず高声(※大きな声で念仏すること)なる人がある。谷のお袖さんなどは(福岡の谷。八十余の仰信の御同行)懐炉の火がこぼれやすいとみえて、常につつしみなさいとさとしておいても、その下から思わず高声となり、説教中はひょいひょいおらび(※博多弁で叫ぶの意味)だしなさる。信火行煙。内に信心の火があれば、外に称名の煙があらわるると仰せられてあります。しかし、信心の懐炉を持たぬ人は、御慈悲の味が分からぬというて、ほっておくに及ばぬ。人の喜ぶをみるにつけ、聞くにつけても、我が身の懈怠に恥じいりて、仏恩報謝の御念仏じゃもの、どうぞ御相続の御心がけが肝心でござりますぞ。御文には、「その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」と仰せられてあります。
さて、これからは婆々さんたちに対して御話に及ぶ。あんたたちは博多の短いきれぎれの蕎麦ばかり見て、長い蕎麦を見たことがないから、短いきれぎれでなからにゃ蕎麦ではないように思うていなさるが、他県には長う続いた蕎麦が多いものじゃ。蕎麦が短けりゃどうござりますかいなあといいななさろうが、なるほど蕎麦にはさして用事はないけれども、長く続いた御念仏の御相続を見たことも聞いたこともないから、あんたたちの御相続(※念仏を続けること)は、博多蕎麦のようにきれぎれでなからにゃ、御念仏相続では無いように思うていなさろうなぁ。きれぎれでは、相続ではありませぬぞ。長う続いた御念仏は沢山あります。その中、一、二を挙げてみましょう。よく御聞きなさいや。
まず、法然様は御老体、ことに御病中にも、御声つかれたまわず、御念仏相続なされたとある。御開山様(※親鸞聖人)は、御臨終のその時まで、口に世事を交えずただ仏恩のふかきことをのぶ、声に余言をあらわさず、専ら称名絶ゆることなし、乃至終に念仏の息絶え畢(おわ)んぬ、とあり。また蓮如様は、昼はひねもす夜はよもすがら、呼吸の息みな念仏の声なり、と仰せられ、御文には「往生は今一定の間、仏恩報尽の称名は行住坐臥にわすれさること間断なし」とものたまうてあります。それは常人(ただびと)ではござりますまい、私どもは凡夫じゃから、そうはつとまりませぬと言いなさろうが、すべて権者(※仏や菩薩の化身)がたのなさるることは、われわれのつとまるべき御手本をして御見せなさるることじゃ。人のことやら嫁の悪口はきれぎれでもよい。いわねばなおよい。悪口の御相続はよくできましょうが、それほどよく動く口を持ちながら、地獄のがれて極楽まいりをさせていただく御大恩を蒙りたる御報謝じゃもの。一口にも足らぬくらいの御称名、御念仏の御相続ができぬというてはいけませぬぞ。どうぞきれぎれにならぬよう御手本どおり、御報謝御念仏の御相続に懈怠せぬよう、御心がけが肝要でござります。
蓮如様の御歌には「よしあしの 心につけて 念仏の 口に絶へぬを 相続といふ」と仰せられてあります。さてすでに信を得られし上は、かえすがえすも御相続に懈怠なきよう。もし未決定の御方は前に申す如く御聴聞が肝要。六字の御名号は五劫兆載永劫の汗膏の塊じゃから、この六字の中にはかかるいたずらものを、このまま御たすけくださる往相回向の御謂れも、御浄土へ参りて有縁の衆生を思いのままに済度させてくださる還相回向の御謂れも、またその上、現生十種の御利益まで、みな充分こもりてあります。なんとありがたいではありませぬか。「たたらふむ 鋳物師の鋳形(いがた) 土なれど 中に黄金の 仏まします」、六字の御謂れを善知識の御教化のたたらにて、そのままたすくるぞよもらしはせぬととらかして(※ とろかす、溶かす)、泥でかためた鋳形同様の御互い凡夫の耳の穴から流し込んでくださるなり。その場で直ぐに南無阿弥陀仏の主となり、摂取心光の中に生涯住居させていただき、娑婆の縁尽き次第、極楽浄土に化生して、弥陀同体の御さとりをいただくとは、ありがたいではありませぬか。
さて、この上は、王法を本とし、仁義を先とし、行状品行を正しくし、となり近所の交際(まじわり)を明らかにし、渡世家業を勉強し、なお清潔法・衛生に心がけ、真俗二諦うつくしく、仏祖・善知識の御恩を仰ぎ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と我が身の仕合わせを喜び喜び、一人なりとも誘えば、自信教人信(※自ら信心決定し人にも信心をとらせる)の道理にも相かない、何よりありがたいことである。
「一味の安心」
さて、御信心の反対は疑心(うたがい)。御報謝の反対は懈怠。善心の反対は悪心。これらはみな正反対。すべて物は正反対と傍反対というものがある。
たとえば、浮気になりて意(こころ)を静めようと思うはできぬ。これが正反対というものなり。また、健康な人が大酒を呑んだり大食をしたりする。その時、直ぐに健康を害するほどにはなけれども。それが次第次第に身体が衰弱するなどは傍反対というもの。
信心に対する疑い等はまさしく敵となるけれども、これは誰も知りておる。しかるに薬と思うて、かえりてそれがためにあてられることがある。
御荘厳をしたり、御経を読んだりするのは、悪いことではない。実に善きことなれども、それがために心を奪われるようなことがある。そこで大事の御信心をとり落とす。また御称名より御花の方はよほど報謝になる、御経を読むがよほど御礼になるように思うて、どこそこの誰という同行の振舞は、かようかようとそれをうらやましがる。同行を手本にするほどなら、御開山(※親鸞聖人)の御弟子をはなれて、同行の弟子になるがよい。
すべて我々の眼は青い眼鏡をかけると、世界の物が青く見える。赤い眼鏡をかけると赤く見える。広大な御念仏が小さく見えるは、自力の眼鏡をかけて見るからじゃ。そこでたとい他人はどういうても、決してそれに頓着するには及ばぬ。ただ御開山様・蓮如様の御言(おことば)を信じて、御念仏相続さえしておれば、千万人の人の中でも、少しもおそるることはない。
さて、信心について御話しいたしますれば、御開山様が化土の巻に綽和尚(※道綽禅師)を引きて、綽和尚は万行というて念仏に対し、善導は雑行というて念仏に対し、乃至源空(※法然)聖人は導和尚(※善導大師)によると仰せられて、つづめていえば一切行を諸行・念仏の二つとす。さてその諸行というものは、自分がはまりて修してゆくもので、物の命は取らぬという法はありても、その法が功徳にはならぬ。御経を読むという法はありても、その法が功徳にはならぬ。不殺生戒を持(たも)ち、読誦の行をつとめたところで、始めて善根ができる。
今この南無阿弥陀仏は、すべて如来様が我等がために御苦労くだされて御集めなされた、万善万行恒砂(※ガンジス河の砂のかずほどのあらゆる善い行為の功徳)が封じ込んであるから、信ぜぬ先き称えぬ前から広大の功徳があるのじゃ。
このように聞いてみれば信じ心をたよりにしたり、唱え心をたのみにするのは大きな間違い。信じた心は役に立たぬ。称えた心はたよりにならぬ。信ぜられた名号、称えらるる名号が広大だから、かかる悪人がこのままながら御たすけとなる。
百円札(※だいたい当時の一円は今の物価で一万円ぐらいの価値)を塵紙に包みても、奉書紙に包みても、紙は少しも役には立たぬ。役に立つのは中の百円札。百円札を紙に包んでもらうたとて、ちょっとまちなさい、包紙が悪いと言うて捨てます、うけとらぬというような馬鹿はあるまい。絹のハンカチーフに包みたる五十銭の銀貨と、塵紙の中に包みたる五十銭の銀貨と、包みたる外套にこそ優劣の差はあれ、包まれたる五十銭の銀貨には少しも高下の別はなし。等覚の弥勒菩薩と底下薄地の凡夫とは絹ハンカチーフと塵紙よりも甚だしき差別(しゃべつ)あれども、心中に戴たる信心に至りては、ただ一にして異なることなし。
元祖聖人(※法然上人)いわく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空(※法然上人)が信心も善信房(※親鸞聖人)の信心も、さらにかはるべからず、ただ一なり。我かしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさん人々は、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべき事なり」(以上)(※『御伝鈔』)。
また、反故紙包んだとて、十円の札が、九円九十九銭に外(ほか)通用せぬということは決してあるまい。なぜかというに、包紙が通るじゃない。中の金が役に立つのじゃ。口や声は皆包紙じゃ、信じ心や称え心をあてにするのは、かの包み紙に目を付けるようなもの。もし包み紙に価値(ねうち)がありたら、御開山様や法然様の信じ心や称え心は、はるかにすぐれておらねばならぬ道理じゃが、そうではない。あなたがたの御信心も御名号。われわれの信心も御名号をもらうたのじゃ。聖人の御信心も善信が信心も、さらに変わることあるべからず、ただ一つなり。
「大海も釣瓶(つるべ)も同じ今日の月」。広い海にうつりたも、小さい釣り瓶にうつりたも、月影にちがいはない。あなたがたの御胸にうかばれたるも、われわれの貪瞋煩悩の胸にうかびたも、共に阿弥陀如来の四十八願の月影が映りてくだされたのじゃから、少しも違う道理はない。
信ずれども機にとどまらず、仏願の不思議にかえる。称うれども機にとどまらず、正覚の一念にかえる。ゆえに称えながら信じ、信じながら称え、兎の毛の先きでついたほども、我が機のはからいはさらにない。衆水の海に入りて一味なるが如し。下水の汚い水も、河々の清浄(きれい)な水も、海に入れば同じこと。一味のうしおとなりてしまう。これは汚い水じゃから、脇の方へ除けておくというようなことはない。
一味平等腹が立てば立つに付け、欲がおこればおこるに付け、かかるものを御目当てと、御慈悲に立ちかえりてみれば、貪欲瞋恚の悪業も、クルリと変じて善となる。春の雪の海におつるが如く、おつるなりすぐさま消える。煩悩罪障ことごとく、名号の御力でさらりと消え、このままながらの御浄土まいり、わが賢くて信ずるにあらず。わが賢くて称うるにあらず。仏の永劫薫修のあらわれもので、行かせてもらうなり。千鳥の香炉と、破れた土香炉と、香炉は変われども、中の沈香に変わりなければ同じ香(にお)い。智慧のある立派な人と愚かな者と、入れものは異なれども、御称名に変わりはない、一の沈香である。入れ物の詮索はいらぬ。中の名号、あなたの御力一つで、めでたく浄土参りを遂ぐるのなり。
【第三 報謝】
「称名相続」
称名相続は、我等の是非つとめねばならぬ大行なりと、その志を定むべし。この志堅固なれば懈怠と気がつかばすぐに称うべし。人に相談を要することのあるべきや。甲の地より乙地に赴んとわが門口を出たらんには、別に思慮を要せず歩み行くべきものとの思想は一定せり。
ゆえに、途中にて躓き倒れたらんに人を呼びていかにして赴くべきと尋ぬる人のあるべき。すぐ起き上がり砂打ち払うて行くぞかし。
これ最初より倒れつ起きつして乙地へ行かんと心がけるゆえなり。かりにも往生安堵の身の上はねてもさめても称名念仏すべきものと堅固に思想一定してあらんには、怠り倒れたるときは何條相談もあるべき。すぐ起き上がって南無阿弥陀仏と称うべし。
「称名は命令なり」
安心はわが機のはからいは少しも入らず。このままながらの御助けゆえ、それを間違えて、報謝もこのままながら、称えても称えいでもと心得るは大いなる誤りなり。
蓮師は、
「かくのごとく決定してのうへには、寝ても覚めても、命のあらんかぎり、称名念仏すべきものなり。」(『御文章』五帖)
祖師聖人(※親鸞聖人)の御和讃にいわく、
「弥陀大悲の誓願を、ふかく信ぜんひとはみな、寝ても覚めてもへだてなく、南無阿弥陀仏を称ふべし」
右の外、蓮師(※蓮如上人)八十余通の宝章に、一ヶ所として、報謝の称名はどうでもよしと、仰せられたところはない。いつでも、この信決定の上は報謝の称名念仏すべきものなり、と命令詞を使用したまう。御開山は、南無阿弥陀仏と称うべし、とあり。蓮師は称名念仏すべきものなり、といずれも報謝の称名は御命令なるに、しかをこれを称えずして、安心のこのままながらに混じて、報謝の称名はとかく御懈怠がちにて、かえりて安心のこのままながらへ力を入れて、あら心得やすの安心を、むずかしきもののように苦しむは、安心と報謝との水際の区別を心得ぬからの誤りである。
「寝ても覚めても」
ある人いわく、「寝ても覚めてもへだてなく念仏せよ」と承れども、実際に熟睡のうちまで念仏申すことはできざるように思わる。実地にかくなるものにや。
和上いわく、高祖(※親鸞聖人)・蓮師(※蓮如上人)のねてもさめてもとのたまうを、掛け値のある御教化と思うはもったいなし。ねぎる心をもたず、増進の至極は実際かくあらめと思い、ただ倦まず念仏してその習慣をつくべし。車引きの腕、車を曳きだすに最初は車に抵抗力ありて両の手に轅(かなぼう)を持ち、客の方へ向けてうんと一きばりせるが、一町二町と走るほどに習慣力になりて面白きほど走らるるものなり。称名もその如く最初は少し力を入れて、長時間無倦に進み行かば、終に寝ても覚めてもの味わいを覚悟せらるることあるべし。
和上またいわく、そなたは寝た時のことを心配して尋ねらるるが、寝た時はまず寝た時としておいて、とにかく、覚めておる時は称えらるるや否や。
寝ても覚めてもどころか、覚めても覚めても御念仏を忘れ通しではあるまいか。
まず覚めている間なりと、となえられよ。
「御報謝の体」
罪を造り地獄行きの仕事に忙しい体なれば、飲むことも食うこともいりはせぬ。御報謝の念仏を務むればこそ、飲ませもせねばならぬ、食わせる必要もある。この体は御報謝の用に供する大切の品じゃから、充分重宝に保護し養生せねばならぬ。
「報謝のつとめ心地」 (梅野三右衛門 記)
それ報謝行にはいろいろがありて、御経を読むのも報謝行、観察(※阿弥陀如来や浄土の観想)するのも報謝行、御礼(※礼拝)するのも報謝行、念仏するのも報謝行、御給仕(御仏飯の上げ下ろし、おみがき御花御花束御焼香ふきはらいなど)するのも報謝行。その他仏恩に向うて行うところの、身口意三業の行は、みなことごとく報謝行なり。この報謝行はつとめ心地いかんというに、多くはみな大儀ながらつとめる行にして、勇み進んでたのしみたのしみ、有頂天になりて行うことは滅多にはなきことなり。いつもいつもしょうことなしに報謝行をつとめます。
しかるに、心得あやまちて、御報謝ははげんでするように思い、進んでするように思い、大儀ながらしては御報謝にならぬように思う人があります。道理からいえばその通りなれども、道理の如くにまいらんは吾々凡夫の御報謝なり。否、我々凡夫の根性なり。悪性さらにやめがたし。こころは蛇蝎のごとくなり。蛇蝎のごときこころを持ちておる吾々凡夫が、仏智の御不思議に打ちあかされて、しょうことなしにその仏智の御手許にふりむくようになりたるなれば、御報謝のしたくないはこの機(※自分のこと)の本性なり。その本性のままにて御報謝をつとめるゆえ、いつもいつもしとうないはずである。しかればしとうない大儀な御報謝では、まことの御報謝にならぬかというに、そうではない。大儀でもしとうのうても、したらしたのなり。つとめたらつとめたのなり。
大病のその時に急ぎ医師に、ねんごろに診察を請い、服薬をなしたるに、たちまちききめをあらわし、日ならず全快したる時、その診察料や薬代を惜しむこころなく、勇み進んで多分にすべき道理なれども、もとより欲心ふかき人間なれば、熱湯も咽を越せばあつさ忘るる如く、大病にありし時苦しみたることはすでに忘れて、薬代が大儀になります。さりながら勇み進んで包みたる金五円も、大儀ながら包みたる金五円も、包んで出せば同じ値打ちなり。よろこんで包んだとて、五円が十円になりもせず、惜しんで包んだとて五円が二円五十銭になりもせず、五円はやはり五円なり。
今もその如く持ちあぐんたる後生の大事。阿弥陀如来の大医王が、夙(つと)に永々御診察くだされて、信心歓喜と全快させてくだされた御恩おもえば、勇み進んで御報謝の御礼は、充分にすべき道理であるなれども、元来横着千万なる凡夫ゆえ、困りた後生を引き受けてもらうたことは忘れてしまい、御報謝が大儀になります。しかれども喜んでも惜しんでも、五円はいつも五円のごとく、大儀におもうてもおもわいでも、御経読んだら読んだのなり、よろこんで読んだとて功徳が増すの、よろこばずに読んだて功徳がへるというにあらず。勇み進んで有頂天になり、念仏したで報謝行が余計にでき、大儀ながら称えたで報謝行が少なくなるというわけではない。このところが安心なわけ柄である。
もし称え心地や読み心地の塩梅(あんばい)で、御功徳が増し減りがありたり、御報謝になるとならぬがある時は、なかなか心配な相続になります。それならばとても、吾々凡夫は、一生報謝行はできぬことになる。読み心地・称え心地によらぬ、気のもめぬわけのあるが他力相続なり。
人が南殿(※正殿、母屋)で蜂をころした時、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と御念仏いたしたるに、蓮如様たちまちおとがめなされて、その方は今南無阿弥陀仏と称えたるが、なんとおもうて称えたるかと御たずねありたる時、これを答えて人が「蜂をころしたるゆえ、ああ可愛や(※ああ、かわいそうだ)と思うて称えました」と申したるに、中興上人(※蓮如上人)のたまわく、「それが直に仏恩になるぞ」と御教化なされてある。
これみよ、称え心地はなんとあれかとあれ、信心決定の上の称名は、一声一声がのこらず御報謝にそなわります。念仏ばかりではない。御経も御礼も後掃除も、一読一読一礼一礼みなことごとく御報謝になります。かく心得てみれば己が心の照り曇り澄み濁り、出来不出来に目をつけず、口と心と身体とのひまさえあれば余事なく、大儀ながらも辛抱して、はりこんで、御報謝をつとめていとなみたまえ 云々。
「土鍋の喩え」
御報謝の事について、善導様もかねて御教化あそばしてある。五正行(※読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)というて五つの善き勤めでも、第四の御称名を除くの外(ほか)はなかなか惑いが起りやすい。すでにこの御法事などが、第五の讃嘆というもので、これについてもなかなか誤りが出よう出ようとしておそろしうてならぬ。
ちょうど青銅(からかね)や真鍮の鍋なれば、なかなか陶器如きものと違うて、立派なに違いはないけれども、少し油断すると青錆が出て仕方がなくなる。これが大体見たところはその性質が錆の出るものじゃ。ところが土鍋で見れば真鍮鍋のように素人好きはせぬけれども、なかなか持ちようてもとより錆などの出るものではない。御法事などというものが真鍮鍋と同じことで、油断すると錆が出るけれども、鍋が悪いというのではないけれども、錆の出るのが悪いのじゃ。御法事というものが決して悪いことではない。見たところも美しいけれども恐ろしいものが錆じゃ。真鍮や青銅がすなわち錆ではないけれども錆を持った性質じゃ。御法事がすなわち誤りではないけれども、御法事の勤めようで、錆持った性質じゃから悪うすると誤りの錆が出る、その錆一ついうて見よう、私の錆は後へ廻してあんたたちの錆を言うてみようか。
まず当寺の檀家衆じゃが、全体この御法事は私の私有でもなく、またあんたたちの私有でもなく、私とあんたたちとの共有じゃ。そこで我が身の上に引き受けてみねばならぬ。御内仏の御取越は自己一人の営みじゃけれども、報恩講はそうはゆかぬ。そこであんたたちの錆というが、まず第一に参詣人の多少。隣の寺より少なければ、我慢嫉妬の心を起し、多ければ自慢高慢憍慢などが続々起る。その間は御荘厳の美不、色々様々の煩悩を起して、御法義ではない言語道断の間違いとなる。それを御法義とただ思うていたら大変じゃぞ。
その次に、他門徒にせよ、他宗の人にもせよ、日ごろ御法義上に交際あって御法事に参詣しなさった人たちも同様で、とかく右の錆を出すぞや。
その次は遠方より参詣の同行がた。これがまた説教は分かっても分からいでも、ただ一里でも遠いところに参ったが自慢で、それをありがたいこの上なしのように思うておる。そこで会合の時はいつでも、私はこのあいだ博多へ参詣したと一人が話すと、一人の同行がそばから博多へは何里あるかいな、ハイこれから九里と言う。フン私は豊前四日市の御坊へ参ったなど言うと、また傍から人が、豊前までは都合三十里内外であろうが、私はこのうち西京(※京都)へ御礼したなど言う。そこで一里でも遠いところへ参ったが上等信者の積りじゃで、畢竟北海道までも参らねば済まぬようになるなり。これがみな御法事についての錆じゃ。
次に私の錆というは、一人でも余計参詣人があれば善いが、オオ大分は多い、五百と見れば一人一銭ずつなれば五円、だいぶうまいぞ、などいう言語道断の考えも油断すれば起こりかねぬ。御互いの根性、これがみな御法事の真鍮鍋より心の持ちよう一つで出る錆じゃ。
ところが、第四の御称名は、素人目では真鍮鍋より悪いようにあるけれども、私が称えようがあんたたちが称えようが、御相続の称名より決して錆の出るものではない。そこでこれを怠らず相続する身になり、したがって掟の道も麗しく履行(ふみおこな)う身になってこそ、御法事に参詣の所詮この上もないことである。
【第四 処世】
「仏、弥勒菩薩諸天人等に告げたまはく、「我今、汝に世間の事を語(つ)ぐ。人これをもってのゆゑに、坐して得道せず。まさにつらつら思計し、衆悪を遠離し、その善のものを択(えら)んで、勤めてこれを行ずべし。愛欲栄華は、常に保つべからず。みなまさに別離すべし。楽しむべきものなし。」」
(『仏説無量寿経』)
「財宝妻子は御預かり物」
往生ほどの一大事を仏に任せ奉りし上は、この世の財産も、妻子も家屋も、みな仏より預かりし品物と思うべし。そのゆえは、もし我ら弥陀の本願に遇い奉らずば、たとい達しあたわざるまでも、及ぶだけは自力修行の道によりて仏果(※悟り)に進まざるべからず。もししかせんには、妻子・財産、皆未来永劫の大事にかえ難ければ、投捨せざるべからず。
「厭離のゆえに世を益す」
厭離穢土の教は世教に害ありと言う者あり。予は厭離穢土の心ありて、はじめて世道も進むものなりと思えり。仏教はまことに厭世教なり。厭世教なるゆえに世に益あり。世といえるものを分析すれば、酒・色・財・名・利等の悪徳をもて充満せり。これを愛着するゆえに道理明らかならざるなり。世を厭えば酒・色・財等の真相分明にして愛着の念を離る。ゆえに道理分明に見えて、世に処してよく世を利することを得るなり。昔より世に大利益を与えし人々は、みなこの酒・色・財等の世相を厭離せし人なり。この世に執着深き人の大道を唱えたるを聞かず。ゆえに厭世家にあらざれば真実世を利益することなし。
「名利は求めざれば得 求むればかえって得ず」
名利はなおし影法師のごとし。影法師はこれをとらえんと欲すれば、ますます逃げてゆき、到底これを捕うることあたわず。もしこれに反して、影法師などはさらにこれを顧みず、さっさっとわが行くべき道に向かって進み行けば、彼の影法師はひとりでに、後より付き来たりて決してその身を離れず。
この頃の僧侶はこの理を知らず。無暗に金銭を欲しがり、強いてこれをつかまえんとするがゆえに、金銭の影法師はますますにげて、ついにこれをつかまえることあたわず。生涯貧乏にあるなり。もしこれに反して金銭などには一向に目をかけず、一心に仏道を修行し、仏意を伝うる時は、金銭の財施はおのずからその身に随いくるものなり。影の形に随うがごとく、いやでも随いて離れず、ここを道心の中に衣食ありとも言えり。
あまり金銭はほしがらず、金銭はいらぬいらぬと言うて逃げるべし。いらぬいらぬと逃ぐると、妙なもので人が金銭を推し付けて持って来てくれるものなり。金銭をほしがると、金銭の方がにげてゆき、金銭をほしがらず、いらぬいらぬとにげると、金銭の方から追いかけて付いてくるなり。よくよくこの理を会得せでは、仏子とは言われぬなり。
(故 武内升量氏 伝談話)
右と同じ話を、和上みずからあるひとへ送られし。書面中にも見たれば、左にその一段を抄記す。
月夜に路上に立つ人、試みに己の影を追わんか。影はますます走りて、捕うることあたわず。もし影に背いて帰路に赴かんか。影は身に従うて、厭えども離れず。仏道修行の人、これに似たることあり。改正弘教の勤めは、自己本分の修行の影なるのみ。常に熱心に意(こころ)を苦しむるは、徒(いたず)らに影を逐(お)うの甚だしきものなり。逐えばいよいよ去り、ただ身に汗するのみ。むべなるかな、終南師(※善導大師)のこれを雑修に属して、十三失に付し、単に専修(※専修念仏)を勧励したまうこと。貴氏もし弘教改正に希望を懐けば、望を達せざるの兆と予知すべし。すでに大恩を感じ、大願を満つる。何のいとまあってか、他事に心志を費やすべけんや。常に大願の満つるを喜び、恒に仏恩の周(あまね)きを慶び、刹那刹那に意を法海に遊泳せしめて、これを楽しみこれを愛して、厭うことなく厭くことなく、たまたま法海の外に狂走する人を看るも、ただ悲愍度救の心を以て待つのみ。かくの如く勤めて求むるの心を離れて、西帰の志を相続するときは、教人信(※他の人に信心をとらせる)の影は、おのずから随逐するものなるべし。高祖大士(※親鸞聖人)の自修の志行を以て、かねては化他の要術としたまいしは、おそらくはこの機密を活用したまうものならんか。予はこの蹟(あと)を踏まんことを希(こいねが)うのみ。因縁あって多少の生徒を領したまうことなれば、よく御注意の上、御施行これありたく、まずは御回答かたがた、かくの如くに候なり。草々頓首。
「念仏行者は水晶玉」
御信心を頂いて、その上から報謝の御念仏を喜び、嬉しや嬉しやときれいな心になりたところを、水晶の玉に喩えてみましょう。水晶のようなきれいな心の人が、官員になると、悪い奴は勝手が悪い。娼妓の税を廃してもらおうと思い、賄賂を使うても、かかる不正なものは受け付けぬと、帰されてしまう。その他万事、そのとおり。このようになると天下はおのずから治まる。
この水晶の玉を赤い紙に転ばしてみなさい。珊瑚のように見える。御信心をいただいて商法(※商売)する時は、算盤はじくやら、手代を使うやら、目の中に玉を突き込むほど、苦労せねば銭はたまらぬ。その時に脇から見ると、御信心はどこにあるやら分からぬ。水晶が赤い紙の上に転んだ時じゃ。ちょっと見れば珊瑚のように見えるけれども、しかしその玉を再び手に取り上げて、よく見れば元のとおり。決して赤う染んではおらぬ。前(さき)に商法家も御法席の席へ出てみれば、日ごろいただいた御信心のきれいな光りが顕れて、実にありがたい御同行。水晶の気が付いてから、赤い紙の上に下ろしてみれば、中に白い光がある。その商法家の姿をよくよく気を付けてみれば、算盤はじく中から、小さい声で、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と御称名の声が顕れて、番頭手代を使うても、おのずから物柔らかに、にこにことしておるところは、赤い中に白、白い中に赤、赤やら白やら、白やら赤やら、念仏やめて商法するのではない、念仏の行者なりが、この世の商法人なりじゃ。
衣食住は元念仏の助業とあれば、今までは地獄に落つべき体でさえ、大事にかけて可愛がりたもの。いわんや今日の身の上は、仏の御慈悲を御宿しもうし御恩の御称名を勤むる元手のこの体。大事にせいでなるものか。その身を助くる衣食住を求むるためには、夜を日に継いで勉強して、国のためなり君のため、余りの金をこしらえては、慈善の道に用立て、我が身の欲に費やさず、日本臣民の義務を尽くすそのために、農業なり、商業なり、わが職業に勉強して、働かねばならぬ。
水晶を黒い紙に転ばせば黒く映り、青い紙に転ばせば青く映る。御慈悲を頂いてこの世の執着を捨て離れ楽しむところは安養浄土。振り向いて娑婆をながめてみれば、この結構な御法(みのり)を知らずに欲しいとか惜しいとか、この世のことに貪着して、後生とも菩提とも思わず、泥田の中にはまりこんでおるような、その人をみては不憫でならぬという、慈悲の心の起こるのは、すなわち水晶のきれいな玉の光りじゃ。
たとい青やら赤やらの、農・工・商売の種々の紙に映りたその時も、さらに水晶の玉の光りに変わりはない。清浄潔白のその心は、濁らず染まず、この世の仕事を勤めつつ行く。真諦を離れた俗諦でなく、俗諦のままが真諦にかなう。「売り買う声も、法の声」。念仏行者は水晶の玉の如く、きれな心にしてもらい、そしてこの世の有様に任せ、念仏ともろともに、この世を渡る、喜ばしい境界(きょうがい)であります。
(白露の おのがすがたを そのままに 紅葉におけば くれないの玉)
「処世雑話」
○商人に限りた事はないが、第一に信義がなくてはいかん。それにも時間を確守せなくては何事も運ぶものではない。乃公(おれ)は本堂にてこのとおり時計をかけておいて法座を始めるのじゃが、博多で時計の役に立つのは、汽車とわしの説教ばかりじゃろ。
○外国の人は欲が深いから、石油一缶(一斗入)買ってみると、一斗一合ずつも入れてある。日本人は欲が浅いからそんなことはせぬ。一斗というても二、三合ぐらいは減じてやる。よりて一度買ったら二回目に注文する人はない。外国品はいっぺん買うと、いつまでも得意を失うようなことはない、ということじゃ。
○諸君は基督教(キリスト教)は嫌いでもあろう。仏教贔屓ではあろう。けれども軒を並べて虚言をかざり高売りする仏教者と、正実に働きて安価で売る外教信者とあるときは、どの店について買う気になるかしらん。
○人を仕入れるに、あまりコセコセやかましく言いすぎるものでない。結局害がありても益はありませぬ。子どもに砂糖を買いにやる時に、帰り道でねぶる(※砂糖をなめる)ことはならぬぞと言いつけると、子どもの心に、ハハー少々は誰でも戻り道で盗み食いはするものとみえると、それから悪癖がつくものじゃ。
○乃公(おれ)のところに始終来る同行某々が、過日福沢(※福沢諭吉)のところに往きたそうな。そうしたところが、福沢先生が尊公達は宗教信者じゃなあと言うたげな。別に宗教の話はせなかったそうなけれども、どこにか、知れるところがあると見える。
「身を端(ただ)し、行(おこない)を正しふし、ますます諸善を作(な)し、己を修め、体を潔くし、心垢を洗除し、言行を忠信に、表裏相応すべし。」
(『仏説無量寿経』)
平常談話之部(畢)
七里和上法話聞書