浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル

【私の知人がまとめてくれたもの。
とてもためになる。
多くの人に読んでもらいたい。


テーラワーダ仏教そのものは素晴らしいし、本当のテーラワーダ仏教はアーチャン・チャーやスリ・ダンマナンダ長老に見られるように、決して他宗教や他宗のことを不必要に罵ったり否定したりしない。


しかし、最近、日本の中のあるテーラワーダ仏教の団体の人は、ことさら他宗や他宗教に対して悪口や否定をする傾向があるようである。
一知半解からそのような、仏教に照らしてみても誤った行為をする前に、まずはこの文章を熟読して、そのような過ちを未然に防いで欲しいと思う。】




※【浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル】


某コミュニティ&某所でのやり取りを眺めながら、私なりの対応マニュアルを作ってみました。
議論も収束しお蔵入りする予定でしたが、ご要望を頂いたので公開します。


私の親しくさせて頂いたテーラヴァーダの方は、とても穏やかな方でしたが、
中には浄土門がお嫌いの方もいるようで、そのような方に質問(詰問?)された時にご参照ください。




浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル(1)大乘非仏説の取り扱い』


Q 文献学的に大乘は釈尊(=ゴータマ)の教えではない(大乘非仏説)と言われている。したがって、浄土門釈尊(=ゴータマ)の教えではないのではないか?
A 大乗非仏説は私にとっては「どうでもいいこと」です。


1,まず、「南伝資料が古い」というのは、近代仏教学の文献学的検証に基づく「仮説」に過ぎません。 タイムマーシンで過去に遡って見てきたわけではありませんので、直接知覚に基づくものではなく、どこまでも文献からの推測の域を出ません。
2,文献からの推測の域を出ないのであれば、「南伝資料にない」ことに基づく「大乘非仏説」も「教相判釈」の一つに過ぎません。
3,「教相判釈」は仏教諸宗にそれぞれあり、他宗の「教相判釈」と我々の「教相判釈」は異なって当然です。「大乘非仏説」という「教相判釈」を持つ他宗があっても特に問題はありません。
4,百歩讓って、学問上、浄土三部経をお説きになられた「釈尊」が歴史上のゴータマ・ブッダでないことが証明されたとしても、私の信仰上「どうでもいいこと」であることに変わりはありません。


※「教相判釈」=釈尊がお説きになられた「八万四千の法門」に価値判断を加え、
どの教えが釈尊の本意であり、自らが実践すべき「教え」であるかを決定すること。




浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル(2)直接知覚できないものは妄想?』


Q 阿弥陀仏や極楽浄土は直接知覚できないものである。直接知覚できないものを「ある」というのは、「ある」と「信じている」だけの妄想ではないのか?
A 所謂初期経典の権威を認めるのであれば、直接知覚できないことをもって「妄想」と言うことはできません。


1,所謂初期経典である『大本経』には過去七仏が説かれておりますが、それらの存在はお認めになられますでしょうか?
2,お認めになられるのでしたら、それらを直接知覚されましたでしょうか?
3,もしも直接知覚されていないのであれば、過去七仏を認める根拠は『大本経』などの経典や瞑想の結果過去七仏を見た信頼できる人からの伝聞に基づくものであり、 経典や信頼できる人からの伝聞を「信じている」という点に関しては、浄土門の人が阿弥陀仏や極楽浄土を「信じている」ことと違いはありません。


4,直接知覚に基づかないものは認めになられないので、過去七仏もお認めにならないということでしたら結構です。
5,私は、『大本経』に書かれていることは「仏説」であり、妄語ではないと信じる立場でございます。『大本経』に書かれていることを「仏説」とされず、仏が言われたことを妄語とされるような方に阿弥陀仏や極楽浄土を「妄想」と言われても痛くも痒くもございません。





浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル(3)一世界一仏について』


Q 全世界を支配する転輪聖王が一人しかいないように、全ての衆生を救済する仏は全宇宙に一人しかいない(一世界一仏)。釈尊滅後は未来仏弥勒出現まで仏は出現しないはずなのに、現在多方仏が存在するのは問題ではないか?
A 「世界」の解釈の違いです。問題ありません。


1,部派仏教の皆様と大乗では「世界」の解釈が違っていて、部派仏教では「三千大千世界」(全宇宙)を「世界」と解釈しますが、大乗では一つの「小千世界」(銀河系?)を「世界」と解釈します。


*三千大千世界=小千世界の三乗


2,一つの銀河系が一つの世界と解釈すれば、他の銀河系は別の世界ですから、他の銀河系にそれぞれ仏陀がいてもおかしくないことになります。


★『般舟三昧経』要約(『知恩』2009.4号 p.25)
 雲を霧もない静かな夜に空を仰ぎ見れば、無量の星宿の方角や形や色の違いを見極めることができるように、覚りを求める人が東を観ると、多くの仏を見る。
 百という多くの仏を見る。千という多くの仏を見る。十万という多くの仏を見る。億という多くの仏を見る。数え切れない百千億という多くの仏を見る。
 同じように、南、西、北、四維上下に多くの仏を見る。
 百という多くの仏を見る。千という多くの仏を見る。十万という多くの仏を見る。億という多くの仏を見る。数え切れない百千億という多くの仏を見る。


3,「大乗非仏説」が「どうでもいいこと」 は既に述べた通りです。
4,なお、初期経典では「ブッダ」は、単数形でゴータマブッダを指すのが普通で、複数形でも過去七仏などを意味すると理解されますが、そのようには理解できず、現在にゴータマブッダ以外にもブッダが存在していたと理解せざる用例があります。 そのような用例が一つでも存在するならば、「大乘非仏説」の立場に立ったとしても、「一世界一仏」の立場から「他方仏」を完全に否定することはできなくなります。


※並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』(大蔵出版)pp.24-36 参照





浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル(4)「無量寿」と「諸行無常」』


Q 「無量寿」は、「諸行無常」の仏教の原則に反するものではないか?
A 反しません。


1,まず、「無量寿」(アミターユス)は沢山ある阿弥陀仏の異名の一つで、サンスクリット複合語としては、所有複合語(バフブリーヒ・コンパウンド)として読むべきものです。実体的な「無量」の「寿命」そのものではなく、 「無量の寿命を持つ者」という意味になります。


★無量の光を持つ者(アミターバ)に帰命する。無量の命(アミターユス)を持つものに帰命する。不思議な功徳の源を本質とするもの(アチンタグナーカラートマン)に帰命する。聖者(ムニ)よ、無量の光を持つ者であり、勝者(ジナ)である、貴方に帰命する。あなたの哀れみによって、私は極楽に行く。
サンスクリット無量寿経>冒頭帰敬偈和訳)


2,「諸行無常」の「行」(サムスカーラ)=「つくられたもの」=「有為」の範囲には、「無為」は当然含まれません。「無為」には、「虚空」(ものの存在する場)「択滅」(智慧によって煩悩を滅した状態=涅槃)「非択滅」(智慧によらずに煩悩を滅した状態=涅槃)があります。


3,「不死とは涅槃である」(amatan ti nibbānaṃ)(Pj. I. 185-2)という表現が南伝資料にもあるように、「涅槃」の境地を「不死」と言い換えることは可能です。


 *Pj=パラマッタジョーティカ=スッタニパータの注釈書


5,親鸞聖人は、「涅槃」=「一如」とされ、この「涅槃」=「一如」が凡夫に仮にわかりやすい象徴表現をとったものが、法蔵菩薩であり、阿弥陀仏(=尽十方無碍光如来)であると述べておられます。


★『唯信抄文意』
 「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。
 この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。 この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。


(試訳)
 「涅槃」は滅度(煩悩の滅した状態)といい、無為(無制約の状態)といい、安楽といい、常楽といい、実相(真実のありさま)といい、法身(真理そのものとしてのブッダ)といい、法性(あらゆるものの本性)といい、真如(ありのままの真理)といい、一如(唯一絶対の真理)といい、仏性(ブッダの本来の性質)という。仏性は如来(真理に到達したもの)である。
この如来が、原子の数ほどの世界に満ち満ちている。これはすなわち、大海のような一切の生きとし生けるもの全ての心に、如来が満ち満ちているということである。
この心が、誓願信楽するのであるから、この信心がそのまま仏性であり、仏性はそのまま法性であり、法性はそのまま法身である。
法身は色もなく形も持たない。だから心で考えることもできずに、言葉で表す方法も絶えている。


 この一如(=法性法身)から形をもって現れて、方便法身というすがたを示して、法蔵比丘と名乗って、不可思議の誓願を立ててそれを実現した姿形を、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」と名づけられたのである。この如来を「報身」と言うのである。誓願を立てて行った行為を原因としてその結果報いを得られたから「報身如来」と言うのである。


6,「涅槃」の境地を「不死」と言い換えることが可能なのであれば、涅槃(一如)の象徴表現として「阿弥陀」=「無量寿」(無限の命を持つ者)を使用することも可能であると思います。


7,したがって、テーラヴァーダ教学上も「無量寿」は、「諸行無常」の仏教の原則に反するものではありません。





浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル(5)浄土門における「信」』


Q 釈尊は「信仰」のようなものは一切説かなかった。阿弥陀仏を「信仰」するのは、仏教の本来のあり方とは違うのではないか?
A 不当な批判です。もう少し浄土門を学ばれてからご発言ください。


1,スッタニパータに「サッダー」(=Sk.シュラッダー、「信」)があります。


★サッダー(信)が種子、苦行が雨、智慧が私のくびきと鋤である。(Sn.77)


2,「サッダー」(=Sk.シュラッダー、「信」)は、「知的理解を前提条件とした信念/信条、確信」であり、テーラワーダの方も、この「サッダー」を「信仰」ではなく「確信」とされていました。


3,「サッダー」が「パサーダ」(=Sk.プラサーダ。清らかなこと、心の清らかさ、浄信)であることは、パラマッタジョーティカや『倶舎論』の用例から、部派を越えて仏教共通の認識であったと考えられます。


★[信(サッダー)は]鏡や水面などが清らか(パサーダ)であるように、心が清らか(パサーダ)となったのであり、(Pj. II. 144-6)
★信(シュラッダー)とは心が澄むこと(プラサーダ)である。(AKBh 55-6)


4,浄土門における「信」もこのプラサーダです。


★ およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信(プラサーダ)を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。(サンスクリット文<無量寿経>願成就文)


5,この浄土門におけるプラサーダを、バクティと勘違いしている方が浄土門内部にもおり迷惑しておりますが、それは根拠に基づか(け)ない私見です。


6,浄土門の目指すプラサーダは、阿弥陀仏を「疑わない」ことではなく「疑う余地がない」ことであると、私は師匠に厳しく教えられております。


7,以上、仰せの批判が事実誤認に基づくものであることが明かになりました。




浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル(6)「四重破人」を退ける信』


Q 私は瞑想の結果、極楽浄土も阿弥陀仏も存在しないことを知っている。念仏を申しても意味はないのではないか?
A 貴方様がどれ程の方か存じませんが、私の信が動じることはございません。四重破人と同じように、善導大師のお示しに随って貴方のお言葉を退けるだけでございます。


1, 浄土門における「信」については既に述べました。


※(6)浄土門における「信」 参照


2,善導大師は、「凡夫のお前は往生できない!」と批判してくる挑戦者(四重破人)に対して、 私達がどのように応えるべきかをお示しになられ、 あわせて私達が確立すべき信が如何なるものかをお示しになれています。


【1】別解・別行・異学・異見・異執の人
【2】初地に達していない菩薩・阿羅漢・縁覚
【3】初地より十地の菩薩
【4】化身の仏や報身の仏


【1に対して】 あなたが引用した経典や論書は信用できるものであるが、その経典が説かれた時、場所、相手は、『観無量寿経』などが説かれたのとは異なるから、凡夫が往生できない根拠にはならない。
【2に対して】 初地に達していない菩薩・阿羅漢・縁覚が、私の信心を破ろうとしても無駄である。仏の言葉は何人によっても破ることはできないからである。
【3に対して】 初地より十地の菩薩が何と言おうと私の信心はゆるがない。仏の言葉は真実である、本当の菩薩なら仏の言葉に背くはずがないからである。
【4に対して】仏があらわれて何と説こうと疑いの心は起こさない。一切の仏に区別はなく、互いの説に矛盾はないはずだからである。


3,このように、如何なる挑戦者に「凡夫のお前は往生できない!」と言われても、 決して揺らぐことがない信を、 他の者の言葉ではなく、あくまでも釈尊の言葉によって確立することから、 「人に就いて信を立つ(就人立信)」と言います。


4,凡夫が極楽浄土に往生できることの確信は、あくまで「釈尊の言葉」という「仏語」への信頼が根拠となります。


5,なお、この「仏語」に関して、「大乗非仏説」など「どうでもいい」 ことは既に述べた通りです。


※(1)大乘非仏説の取り扱い 参照




★観経疏』散善義、『選択集』8章 私訳


また、「深心」は深く信じることである、ということについて言えば、
決定した自らの信心を打ち立てて、釈尊の教えに従って修行して、
永遠に疑いや錯乱を除き去り、ありとあらゆる解釈が異なる人(別解)、
修行が異なる人(別行)、学んでいる学問が異なる人(異学)
見解が異なる人(異見)、それらの異なった見解に固執している人(異執)に非難されても、
ひるんだり、動揺したりしないことを言うのである。


問うて言う。
我々凡夫は智慧が浅く、煩悩などの障害に深く捉えられている。
もし解釈や修行が異なる人たちが、経典や論書を多く引用しながら、妨害し、非難を加えて、
「全ての罪深く、障害の多い凡夫は、極楽浄土に往生することができない」
と証言するのに出会ったならば、
どのようにして、このような非難を退けて、自らの信心を完成し、
信心を決定して真っ直ぐに進み、確固たる生き方をすることができるのであろうか?


答えて言う。
【1】もし誰かが経典や論書を引用し、「凡夫が往生できない」と言ったならば、
行者はそれに対して次のように答えて言いなさい。
あなたは経典や論書を引用して、凡夫が往生できないことを証明しようとしているが、
私の心は決してあなたの批判を受け入れない。
それはなぜかというと、私はあなたの引用された多くの経典や論書を信じないのではない。
ことごとく全てを敬い信じているのである。
しかし、仏がそれらの経典を説かれた時は、場所も異なり、時期も異なり、
相手も異なり、経典の利益も異なっているのである。
また、それらの経典を説かれたのは、『観無量寿経』や『阿弥陀経』等を説かれたのとは、別の時である。
ところで仏の説法は、相手の能力(機)に応じるものである。説法の時も同じではない。
あなたの引用する経典は、一貫して人間や天界に生まれるため、あるいは菩薩のための解釈や修行を説かれたものである。
それに対して今この『観無量寿経』において釈尊は、定善と散善の二つの修行を説いて、ただ韋提希のため、さらには釈尊が入滅した後の五種の汚れ、五種の苦しみなどに苦しむ一切の凡夫のために、
「凡夫が極楽浄土に往生することができる」ことを証明されているのである。
それだからこそ、私は今、一心にこの仏の教えを拠り所にして、信心を決定して修行に勤めているのである。
たとえあなた方が百・千・万億人集まり、「凡夫は往生できない」と言ったとしても、
ただひたすらに、私自身の「往生できる」という信心を盛んにして往生を成し遂げるだけである。


【2】また行者は、そのような相手にはこのように言えばよい。
よく聴きなさい。私は今あなたのために、更に決定した信心の有様を説こう。
たとえ初地に達していない菩薩・阿羅漢・縁覚などが、一人であれ多数であれ、あるいはさらに十方の空間に満ち満ちて、皆が経典や論書を引用し、
「凡夫は極楽浄土に往生できない」と証言しても、
それでも私はまだ一瞬たりとも疑いの心を起こさない。
ただ、私の清浄な信心を盛んにして完成しよう。
それはなぜかというと、仏の言葉は決して揺るがない完全な教えであり、
いかなるものであっても、これを打ち破ることはできないからである。


【3】また行者は、よく聴きなさい。
たとえ初地から十地までの位にある修行中の菩薩が、一人であれ多数であれ、あるいはさらに十方の空間に満ち満ちて、異口同音に全員が、
釈尊が、阿弥陀仏を指して称賛し、三界・六道を無価値なものとし衆生を励まし、
『専心して念仏し、また他の善を修行すれば、この生涯が終わった後に、必ず彼の極楽浄土に往生できる』
 と説いているが、これは全くの嘘偽りである。信用してはいけない」と言ったとしても、
私はこのような言葉を聞いても、一瞬たりとも疑いの心を抱くことはない。
ただ私の決定したこの上ない信心を盛んにして往生を成し遂げるだけである。
それはなぜかというと、仏の言葉は真実であり、完全な意味を持つものだからである。
仏は物事をありのままに知り、ありのままに理解し、ありのままに見て、ありのままに覚るのであり、その仏の言葉は、疑惑するような心の中で語られたものではないからである。
また見解や解釈の異なった、あらゆる菩薩によって打ち破られるはずのないものである。
そして、もしそれが本当に菩薩であるならば、すべての仏の説かれた教えに背くはずがない。


【4】また、それはそうとして、行者はまさに知らなければならない。
たとえ化身の仏や報身の仏が、一人であれ多数であれ、あるいはさらに十方の空間に満ち満ちて、
それぞれに光を放ち、舌を伸ばして十方のあらゆる方角をくまなく覆い、口々に、
釈尊が説法し阿弥陀仏を称賛し、あらゆる凡夫に勧めて、
『専心して念仏し、また他の善を修行し、それをもって極楽浄土に往生することを願えば、
 彼の極楽浄土に往生できる』
 と説いているが、これは全くの嘘偽りである。全くそのようなことはない」と言ったとしても、
私はこれらの諸仏の説かれたことを聞いたとしても、決して一瞬たりとも疑いの心を起こし、
「彼の阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができないのだろうか」などと恐れることはない。
それはなぜかというと、どの仏も他のあらゆる仏と同じだからである。
仏の獲得する、あらゆる知識や見解、理解や修行、覚った境地、到達した仏としての位、大悲などは、全て同じであって、全く差別はない。
その故に、ある一人の仏が禁止されていることは、他のあらゆる仏も同じように禁止されている。
例えば、前に出現された仏が殺生をはじめとする十惡業などの罪を厳しく禁じられ、
逆に、決してこれらを犯さず、行わないのを十善・十行・六波羅蜜に随うものと名付けられたが、
もし、その後で別の仏がこの世に現れた場合に、どうして先の十善業を改めて、十悪業を行うようにお勧めになられるなどということがあるであろうか。(いやそのようなことはない。)
この道理から推し量れるように、あらゆる仏逹の言葉も修行も、互いに異なるようなことがないことは、明らかに理解できるはずである。
もし釈尊が、一切の凡夫にお勧めになられて、
「この一生涯「南無阿弥陀仏」を専念専修したならば、命が終わった後に、必ず彼の極楽浄土に往生することができる」と説かれるとするならば、
それはすなわち、十方の釈尊以外の諸仏たちも、ことごとく皆同じように阿弥陀仏を称賛し、同じように凡夫たちにお念仏を勧め、同じようにその教えの正しさを証明されるのである。
それはなぜかというと、釈尊も仏の仏たちも、同じくその本体が大悲であるからである。
一人の仏の教化は、それがそのまま一切の仏の教化であり、
一切の仏の教化は、それがそのまま一人の仏の教化なのである。
(以下『阿弥陀経』の引用)





浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル 番外編(1)浄土宗におけるパーリ仏典の位置づけ』


ここからは、番外編。
浄土門内でテーラヴァーダに関心のある人との対話記録。


Q パーリ仏典が釈尊の直説である可能性が大乗経典に比べて文献学的に高いのであれば、大乗経典を捨てよとは言わないまでも、パーリ仏典をもっと尊重して、少なくとも日本の大乗仏教諸宗派もパーリ仏典を併用するぐらいにした方がいいのではないか?


A 極楽浄土への往生のためにパーリ仏典を学ぶ必要はありません。
 しかし、 パーリ仏典も「浄土宗」内に含まれると見るべきであり、日常生活を正しより豊かにしていくために学ぶことはよいことであると思います。


★往生のためには念仏第一なり。学問すべからず。ただし念仏往生を信ぜん程はこれを学すべし。『諸人伝説の詞』


★浄土宗の中に大小乗の諸経、皆悉くあるべきなり。『漢語灯録』巻八


★八宗九宗みないずれをもわが宗の中に一代をおさめて聖道浄土の二門とはわかつ也。・・・かくして聖道はかたし、浄土はやすしと釈しいるる也。宗を立つるおもむきも知らぬものの三部経にかぎるとはいうなり。『東大寺十問答』


★行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。少し功労を用いるに、多く益を得るなり。『選択集』8章(『観経疏』散善義の引用)




浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル 番外編(2) 「今この瞬間」になされる「死の問題の解決」』


Q 日本の大乗仏教諸宗派は、葬儀儀礼以外に、現にいま人生で苦しんでいる人に、どれほどの生きる指針や智慧を与えることができているのだろうか?
 テーラワーダ仏教がそれらを現に与えているほどには、与えられていないのではないか。


A 阿弥陀仏の本願による「死の問題の解決」は「今この瞬間」になされるものです。このことを積極的に説いていくとともに、念仏申す人となる素晴らしさを、全面に出していくべきであると思います。


1,念仏で病気が治ったり寿命が延びるということはありません。


★宿業限りあれて受くべからん病は、いかなる諸の仏・神に祈るとも、それによるまじき事なり。祈るによりて病も止み、命も延ぶる事あらば、誰かは一人として病み、死ぬる人あらん。後27、『浄土宗略抄』


2,しかし、念仏申す人になることにより、別離の悲しみを乗り越えることができます。


会者定離は常の習い、今始めたるにあらず。何ぞ深く歎かんや。宿縁空しからずば同一蓮に座せん。浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別れは暫くの悲しみ、春の夜の夢のごとし。信謗ともに縁として、先に生まれて後を道かん。引摂縁はこれ浄土の楽しみなり。後29、『十六門記』


★露の身は ここかしこにて きえぬとも こころはおなじ 花のうてなぞ(御詠)


3,阿弥陀仏の救いの光は平生からであり、阿弥陀仏の本願による「死の問題の解決」は「今この瞬間」になされます。


★問うて曰く、摂取の益を、こうぶる事は、平生か臨終かいかん。
 答えて云く、平生の時なり。その故は、往生の心まことにて、我が身を疑う事なくて、来迎を待つ人は、これ三心具足の、念仏申す人なり。この三心具足しぬれば、必ず極楽に、生まれるという事は、観経の説なり。かかる志ある人を、阿弥陀仏は、八万四千の光明を放ちて、照らし給うなり。平生の時、照らしはじめて、最後まで、捨て給はぬなり。ゆえに不捨の誓約と申すなり。『念佛往生要義抄』


4,念仏申す人になることにより、「死生ともにわずらいなし」生き方ができるようになります。


★いけらば念仏の功つもり、しなば浄土へまいりなん。とてもかくても、此の身には、思いわずろう事ぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし。『つねに仰せられける御詞』


★凡そ五種の嘉誉を流(つた)え二尊の影護を蒙る、此れは是れ現益なり。また浄土に往生して乃至成仏す、此れは是れ当益なり。『選択集』11章

*五種の嘉誉=念仏者を誉める五つの称号。『観経』で釈尊が「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と、念仏者を「分陀利華」(プンダリーカ、白蓮華)に喩えて説かれている。これを善導大師は、1)人中の好人(人々の中の好ましい人)、2)人中の妙好人(すばらしく好ましい人)、3)人中の上上人(上上の人)、4)人中の希有人(希有なる人)、5)人中の最勝人(最も勝れた人)の五種に分けて、念仏者をたたえる語とされ、法然上人はこれを「五種の嘉誉」とされた。


*二尊の影護=観世音菩薩や勢至菩薩が常に影のように付き従ってこれを守り、まるで親しい友人や知人であるかのようにしてくれること。


源空はすでに得たる心地にて念仏は申すなり。『つねに御せられける御詞』




浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル 番外編(3)倫理的な頽廃の問題』


Q 僧俗ともに、日本の大乗仏教諸宗派は、テーラワーダ仏教と比較した場合、倫理的な頽廃が進んでいるのではないか?
 

A 誠に残念ですが同感です。浄土門の教えにも倫理的指針となるものがあることをもっと強調する必要がると思います。
 浄土門を生きる者は、既に阿弥陀仏を泣かせているという自覚をし、阿弥陀仏をこれ以上泣かせない生き方を心がけていくべきです。


★念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
 例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
 仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
 良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。 『念佛往生義』


(私訳)
 念仏申せば極楽浄土に往生できる!ということで、やってはいけない悪いことを平気でやって、やらなくてはならないことをまったくやらないで、念仏も頑張って申さないというのは、仏教のあるべき掟に反することなのである。
 たとえば、父母が子どもにかける慈悲の気持ちというのは、よい子であっても悪い子であっても、あたたかく見守ってなんとか育てようとするものであるが、我が子がよりよく育ってくれたら喜ぶし、我が子が悪いことをするようなら嘆いてしまうようなものである。
 ちょうどそのように、阿弥陀仏は一切衆生を憐れんで、よい人であっても、悪い人であっても、へだてなく極楽浄土へと救いとるが、衆生がよい人になってくれたら喜ぶし、悪い人になってしまったら悲しんでしまうものである。
 だから、よい土地によい種をまくように、しっかり心に決めてぜひとも、よい人になろうとして、さらに念仏申すべきである。 それが、本当に、仏の教にしたがう者と言えるのである。




浄土門嫌いなテーラヴァーダ応対マニュアル 番外編(4)諸善万行の位置づけ』



Q 諸善万行、特にテーラワーダ仏教で重視される諸行を、浄土門ではどのように位置づけられるのか?
(単に廃するのか、あるいは御恩報謝として位置づけるのか、あるいは異類善根として位置づけるのか)


A 念仏をセンターに置いた生き方をするならば、諸善万行はもちろん人生そのものが念仏の助けとして位置づけられます(異類助業)。
 また、先に述べたように「阿弥陀仏をこれ以上泣かせない」目的で、諸善万行を可能な限り実践すべきであると考えらえます。


★現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。一所にて申されずば、修行して申すべし。修行して申されずば、一所に住して申すべし。ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。在家にて申されずば、遁世して申すべし。ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行して申すべし。共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。衣食適わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。所知所領も、念仏の助業ならば大切なり。妨げにならば、持つべからず。 
 そうじてこれを言はば、自身安穏にして念仏往生を遂げんがためには、何事も皆念仏の助業なり。三途に帰るべき事をする身をだにも、捨て難ければ、顧み育くむぞかし。まして往生すべき、念仏申さん身をば、いかにも育みもてなすべし。念仏の助業ならずして、今生の為に身を貪求するは、三悪道の業となる。往生極楽の為に自身を貪求するは、往生の助業となるなり。『十二問答』『勅伝』45


(私訳)
 この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。
 一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。
 出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。
 一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。
 衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、他の人に助けてもらいながら申しなさい。他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、自分で生計を立てて申しなさい。
 妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはいけない。
 領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。
 これらをまとめて言うならば、自分自身が安らかで穩やかに、阿弥陀仏の本願を信じ念仏を申し、極楽浄土に往生するためとなるのであれば、何事も全てお念仏申すことの助けになる行為(助業)なのである。


 三悪道に墜ちてしまうような行為をしてしまうこの身でさえも、気になってしまって大切にしてしまうものである。まして極楽浄土に往生することができるような、念仏を申す体なのであるから、なんとしても大切にしていくべきなのである。
 念仏申すことの助けとするためではなく、ただひたすらにこの世に生きるために、体を大切にすることは、三悪道に墜ちてしまうような行為となる。極楽浄土に往生するために、自分の体を大切にすることは、極楽浄土に往生するために、念仏申すことの助け(助業)となるのである。


★念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』


(私訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。