メモ 武内洞達
「凡夫の眼は一部を知りて全てを裁くの眼なり、仏の眼は智慧と慈悲の眼、すべてを知りて、全てを救うの眼なり。」(武内洞達)
「初心生涯」
「仏教は、人間は罪が深いなどいうからきらい、いう人あり、そんな人は、日なたに居て、自分の影がうつらなくても、驚かないだろうか。」
「振り返る ものに支えられ 行く先は はからわれつつ 今を生きゆく」
「信心を語るのではなくて、信心で語られよ。」
「生死を忘れたる時、生活は浮き、
生死に怯える時、生活は沈み、
生死をみつめる時、生活はかがやく。」
「欲も、澄めば願となる。本願となる。
又、願も凡夫の我執で濁れば欲となる。」
「憍慢(煩悩)の否定は、人間の廃業を意味し、
憍慢(煩悩)の肯定は、人間の動物化を促し、
憍慢(煩悩)の変革(転成)は人間性の回復を招来する。」
「雑草は未発見の薬草」
「浄土真宗の信心は、「信罪、信福」ではなくて「信機、信法」であります。つまり「このような者こそ御本願の真ただ中」であります。
「大地につまずいて倒れ、大地に支えられて起つ」
「今は今のあるべきように、あらんかな」
「愛執無限なればこそ大悲また無限なり」
「散ると見たのは錯覚であって、桜は大地に還るのであった。」
(武内洞達)
「仰ぐ者には、月はあるが」、
「仰がない者には月はない」という語がある。
阿弥陀如来は、信ずる者にはあるが、
信じない者には、ない、のである。
阿弥陀には隔てる心はなけれども
仰ぐか、仰がないか、である
信ずるか、信じないかである。
(武内洞達)
「花、見事に咲いて、誇りもせず、
花、静かに散りて、つぶやきもせず」
(武内洞達)
「彼岸を持つ、浄土を願う、そうしてそこを真実の依り所として、そこから廻向されてくる真実に遇うてこそ「無常なる生命が永遠なる生命」に転ぜられ、「永遠に立脚して、刹那に努力する」生活が展開される」
(武内洞達)
「散る時が 浮かぶ時なり 蓮の花」
「到彼岸は往生浄土であり、往生は動詞であり、到も往生も生き生きてあらねばならぬ。それは到りつつある、往生しつつあるという今である。今は道中である。」
(武内洞達)
「慢とは聞く耳を失うことである」
「念仏者に苦行は要らないが修行は大切である。
釈尊も親鸞も苦行は捨てられた。
されど御一生は修行の連続であられた。」
(武内洞達)
「光が強ければ髪の毛一本でも影が映る」
(武内洞達)
「まことに本願を信じ、念仏を申す人生とは、喜びだけを慶ぶのではなく、悲しみをも抱きあげて慶びとなすという、いわば「悲喜を慶ぶ」世界がひらかれてくるのです。」
(武内洞達)
「本願力とは如来の「不断常」なり。
人間の努力は「相続常」なり。
不断常に貫かれて、相続常を励むのみ。」
(武内洞達)
「人生は去っても、その人の言葉は去らない。」
(武内洞達)
「蓮の実や まだ花びらの 散らぬ間に」
(武内洞達)
「信心を頂くということは、如来の大悲心に生かさるること」
(武内洞達)
「結果に泣かず 原因に泣け」(武内洞達)
「愚痴は、聞法と求道がないから、無常も常住も知らぬ。
追憶は、聞法が始まるから、無常と常住が知られる。
愚痴は、ただ泣き濡れて、光を求めない。
追憶は、涙の中に永遠の光を探し、求めている。」
(武内洞達)
「本願と念仏に調御せられし己れを大切にして、仏徳を讃歎と、仏恩報謝の生活を営むことこそ、戦争からの真の脱皮ではないでしょうか。」
「慈悲が入れば歓喜が出るぞ、信心が入れば報恩が出るぞ、報恩は行である。浄土真宗においては助かるための行は全く不要。
されど助かった後の行はかならずある。それは報恩行である。しかも「報恩行なすべき命いまだあり」であります。信後の生活の全体は全て報恩行と申してよいでありましょう。」
「何事もすべて如来のはかりと素直に受けてみ名を称えむ」
「地獄はあるものでなく
作るものである」
「念仏者は一歩一歩が到彼岸の道中」
「聞法は代理がきかない」
「ご利益は求めるものにあらず
与えられているのがご利益である。」
「何事も、なるようにしかならないけれども、なるようにはかならずなる」
(武内洞達)
「やり直しのきかぬ人生も、見直すことはできる」
「信ずるとはお助けの邪魔をせぬこと」
「集めたものは滅ぶ
与えたものは遺る」
「念仏して人生を逃れるのではない
念仏して人生を受けるのである。」