真田増丸 「信念の叫び」

真田増丸『信念の叫び』を読んだ。


真田増丸は大正時代に活躍した人物。
浄土真宗の僧侶で、仏教救世軍をつくり、北九州等で貧しい人々の支援に東奔西走したらしい。


名前は聞いたことはあったのだけれど、実際にその著作を読んだことは今までなかった。


感想は、ともかく“熱い”。
魂からの声、信念の叫び、信仰の喜びの声が、本の中に響き渡っている。


体系的な本ではないし、理論的な本ではないので、そういったところがあまり後世に読まれなくなった理由なのかもしれないが、この情熱や熱さは、現代の葬式仏教とは全く異質の、生きた仏教、生きた信仰そのものだと思った。


本を通して感じることができるものは、おそらく実際に生きていた当時の真田増丸師の謦咳に接して伝わったものの千分の一、万分の一なのかもしれないが、この情熱に触れることができてよかった。



吾々はまず自分というものを本当に知らなければならぬ。
「己に帰れ」である。
一、 自分は何のために日暮ししているのか。
一、 自分は善人であるか悪人であるか。
一、 自分は浮世五十年の間のことだけで、はたして本当に満足できるものかどうか。
一、 自分の住んでいるこの世界は、いかなるものであるか。
一、 自分は日々どんな日送りをしているか。そして一体どうなっていくのであるか。
ということをよくよく考えてみなければならぬ。
(77頁)



死を苦にするな、信なきを苦にせよ。
そは、信なきものは、永遠の苦海に沈淪すればなり。
(102頁)


智者は内に輝かんことを欲し、
愚者は外に輝かんことを欲す。
(103頁)


我らが観るべき事実に二つあり。
一は自己の罪悪、二は如来の大悲なり。
(105頁)


「信仰というものは元来、人生問題の終局として現れねばならぬ精神現象である。
福沢先生の臨終の歌に
末はみな仏の道に
落ち葉かな」
(108頁)


まことに仏を信ずる者は、身自ら一ヶの観音菩薩となって、分に応じて世の光となり、力となり、社会有用の人間とならなければならぬ。
といっても、むずかしいことではない。
ただ御恩報謝の生活のほかにはない。
口に念仏称えるも御恩報謝、人に信をすすむるのも御恩報謝、その御恩報謝もまた如来からさせていただくのである。自ら喜びつつ活動し、人にも信をすすめる。そのままが世の光であり、力であるのである。
(148頁)


さしあたる 今日の事のみ 思えただ
かえらぬ昨日 知らぬ明日の日
(155頁)


明日の日も あれど見られず 見せられず
来世のことも かくやあるらん
(192頁)


もつ人の 心によりて 玉となり
瓦ともなる 黄金なりけり
(193頁)


家を思う人は家の人となり、国を思う人は国の人となり、世を思う人は世の人となり、善を思う人は善人となり、悪を思う人は悪人とななるなり。仏を思う人は仏とはなるなり。
(288頁)