華厳経メモ その3

華厳経メモ その3
(江部鴨村 『口語全訳 華厳経』下巻)


「十忍」
随順音響忍、順忍、無生法忍、如幻忍、如炎忍、如夢忍、如響忍、如電忍、如化忍、如虚空忍
(十忍品、17頁)


「いわゆる一切衆生は意業の化である、覚想の起すところだから。」
(十忍品、25頁)


「一切の苦楽は顛倒の化である、妄取の起す所だから。」
(十忍品、25頁)



【仏不思議法品】

「十種の仏事」
一、 あらゆる諸仏はもし人あって正しく念ぜんに、即座にその人の前に示現したまう。
二、 あらゆる諸仏はつねに衆生のために大乗を説きたまう。
三、 あらゆる諸仏は常によく一切衆生の無量の善根を育てたまう。
四、 あらゆる諸仏は人のはじめて生死をはなれて正法の位に入るをことごとく分別して知ろしめす。
五、 あらゆる諸仏は衆生教化の機会を捨てたまわぬ。
六、 あらゆる諸仏はつねに障りなく一切の世界に遊歴したまう。
七、 あらゆる諸仏は大悲をもって常に衆生を捨てたまわぬ。
八、 あらゆる諸仏は不断にその身を変化したまう。
九、 あらゆる諸仏の自在神力はいまだかつて断絶しない。
十、 あらゆる諸仏は常にあまねく清浄の法界に安住して、ことごとく衆生のためにひろく演説したまう。

(87頁)


十種の智慧の大海

一、 あらゆる諸仏は法身の限りなき智慧の大海におわす。
二、 あらゆる諸仏は功徳の限りなき大海におわす。
三、 あらゆる諸仏は仏眼の境界の限りなき智慧の大海におわす。
四、 あらゆる諸仏は思議すべからざる善根の限りなき智慧の大海におわす。
五、 あらゆる諸仏は甘露の法を雨降らす限りなき智慧の大海におわす。
六、 あらゆる諸仏は諸仏の功徳を讃歎する限りなき智慧の大海におわす。
七、 あらゆる諸仏の本願のもろもろの行は限りなき智慧の大海である。
八、 あらゆる諸仏の未来の限り一切衆生のためにいまだかつて休息することなく常に仏事を作したまうことは窮まり尽きない智慧の大海である。
九、 あらゆる諸仏は衆生のこころ・こころの動きを知る限りなき智慧の大海におわす。
十、 あらゆる諸仏は一切智の功徳を生みいだす限りなき智慧の大海におわす。

(88頁)


「あらゆる諸仏はあらゆる世界海のうちの種々の衆生海のために勧めて大善根と念仏三昧とを修め、菩薩の行をまなび、諸仏を観察して厭くことなからしめ、あるいは仏の出世に値いたてまつることの難きを説き、如来を拝見して、量なき一切の善法を生み、功徳を習いおさめ、諸仏の行を行ぜしめたまい、また世にあらわれて衆生を清浄ならしめ、諸仏の量なき功徳を讃歎し、未来の諸仏の種性を長養し、あらゆる善根を修めて諸仏を歓喜せしめ、如来の量なき妙色をさとり、応化する所にしたがってあまねく現前し、不可思議の衆生をして諸仏の国に如来を拝むことをえしめたまう。」
(112頁)

「あらゆる諸仏は等しく念仏を修むる衆生をして意を満たさしめる。」
(117頁)


「十種の住に向かう法」
一、 あらゆる諸仏はことごとく一切法界のさとりに住したまう。
二、 あらゆる諸仏はことごとく大悲に住したまう。
三、 あらゆる諸仏はことごとく本願に住したまう。
四、 あらゆる諸仏はことごとく衆生教化に住したまう。
五、 あらゆる諸仏はことごとく無所依の法に住したまう。
六、 あらゆる諸仏はことごとく無虚妄の法に住したまう。
七、 あらゆる諸仏はことごとく無失念の法に住したまう。
八、 あらゆる諸仏はことごとく無障礙の法に住したまう。
九、 あらゆる諸仏はことごとく三昧のこころに住して未だかつて散乱しない。
十、 あらゆる諸仏はことごとく平等不壊の実際に住したまう。
(118頁)


「十種の速疾の法」

一、 もし人あって如来を拝するならば、疾(すみや)かに一切の悪道を離れることができるだろう。
二、 もし人あって如来を拝するならば、疾かに一切の善根を長養することができるだろう。
三、 もし人あって如来を拝するならば、疾かに一切の善根を満足することができるだろう。
四、 もし人あって如来を拝するならば、疾かに浄妙の天上界に生まれることができるだろう。
五、 もし人あって如来を拝するならば、疾かに一切の疑惑を除くことができるだろう。
六、 もし人あって如来を拝するならば、すでに菩提心をおこしたものは疾かに不退転を得、いまだ発心しないものは速やかに無上の正覚をもとめる心をおこすだろう。
七、 もし人あって如来を拝するならば、いまだ正位に入らないものは疾かに正位に入るだろう。
八、 もし人あって如来を拝するならば、疾かに世間および出世間のあらゆる諸根を、浄めるだろう。
九、 もし人あって如来を拝するならば、疾かにあらゆる障礙を除くことができるだろう。
十、 もし人あって如来を拝するならば、疾かに無畏不断の弁才を得るだろう。
(132頁)


「正念すべき十種のきよらかな法」

一、 あらゆる諸仏の過去の方便を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
二、 あらゆる諸仏の清浄の妙行を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
三、 あらゆる諸仏の波羅蜜過去の満足を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
四、 あらゆる諸仏の大願の満足を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
五、 あらゆる諸仏の功徳の積聚を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
六、 あらゆる諸仏の過去の梵行を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
七、 あらゆる諸仏の正覚の成就を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
八、 あらゆる諸仏の色身の無量無辺を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
九、 あらゆる諸仏の無量無辺の神力の境界を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
十、 あらゆる諸仏の十力・四無畏を、一切の菩薩はつねに正念すべきである。
(133頁)


「おんみらまさに盧舎那菩薩のみもとに趣いて恭敬し礼拝せられよ、五欲に執着してもろもろの善根を障えてはならない。もろもろの天子よ、たとえば劫のおわりに須弥山が猛火に焼かれて皆無になってしまうように、もろもろの天子よ、五欲の纏縛は念仏三昧を修めるkとおによって皆ことごとく除滅される。このゆえにもろもろの天子よ、よろしく恩に報ゆることを知って、一向に盧舎那菩薩を敬念するがよい。」
(仏小相光明功徳品 162頁)


(速やかに菩薩の行を具足する十種の正法)
一、 一切衆生を捨てない。
二、 もろもろの菩薩において如来のおもいを生ずる。
三、 つねに一切の仏法をそしらない。
四、 諸仏の国において無尽の智慧をうる。
五、 菩薩の所行をうやまい信ずる。
六、 虚空法界にひとしい菩薩のこころを捨てない。
七、 菩提を分別し、仏力を究竟して彼岸にいたる。
八、 菩薩の一切もろもろのb根材を修習する。
九、 衆生を教化して疲厭のこころを生じない。
十、 あらゆる世界に受生を示現して、しかもそれらの世界に楽著しない。
普賢菩薩行品、174頁)


(十種の清浄の法を摂取する正法)
一、 甚深の法において清浄に徹底する。
二、 清浄に善知識に親近する。
三、 清浄によく諸仏の正法をまもる。
四、 清浄にことごとく虚空界を分別する。
五、 清浄によく法界に入る。
六、 清浄に智慧をもってもろもろの菩薩の心行をさとる。
七、 もろもろの菩薩の善根を清浄にする。
八、 心はつねにもろもろの劫に執着しないで清浄である。
九、 清浄に智慧をもって三世を観察する。
十、 清浄に諸仏の種姓を成就する。
普賢菩薩行品、175頁)


「自分は世のともし火となり、功徳をもって身を荘厳し、十力の智慧を具足すべく、一切もろもろの群生は貪欲・瞋恚・愚痴に焼かれている、自分は彼らのために無量の悪道の苦を除いてやろう」
普賢菩薩行品、181頁)


「一一の微塵のうちに、あまねく三世の法をあらわし、五趣の生死の道を、皆ことごとく分別して知る。
一一の微塵のうちに、無量の仏国がある、一のうちに無量を知り、無量のうちに一を知る。」
普賢菩薩行品、183-184頁)


「無量無数の劫も、解(さと)っていればすなわち一念であり、念を知ればまた念でなく、世に真実の念はない。
もとの座を動かないで、一念に十方にあそび、無量無辺の劫に、つねにもろもろの衆生を教化する。
吹か節のもろもろの劫は、すなわち一念のあいだであり、しかもまた劫を短縮せしめないで、刹那の法を究竟する。
一切諸々の世間と、及びもろもろの衆生心とは、一でもなく、また二でもないことを、菩薩はことごとく了知する。」
普賢菩薩行品、189頁)


「一でもなく、二でもなく、穢でもなく、浄でもなく、また積集でもなく、すべては因縁より起ることを了知する。」
普賢菩薩行品 194頁)


「過去はすなわち未来、未来はすなわち過去、現在はすなわち過去・未来であると、菩薩はことごとく了知する。」
普賢菩薩行品 196頁)


「仏子よ、如来・応供・等正覚の性起の正法は思いはかることができない。なぜなら、如来はわずかな因縁で等正覚を成就し、世にあらわれたまうのでないから。仏子がたよ、如来は十種の無量無数百千阿僧祇の因縁をもって、等正覚を成就し、世にあらわれたまう。十種とは何であるか?
一、 無量の菩提心をおこして一切衆生を捨てたまわぬ。
二、 過去無数の劫にもろもろの善根を修めたまえる正直の深心のゆえに。
三、 無量の慈悲をもって衆生を救護したまう。
四、 無量の行をおさめて大願を退きたまわぬ。
五、 無量の功徳を積みて心に厭足したまわぬ。
六、 無量の諸仏を恭敬し供養して衆生を教化したまう。
七、 無量の方便智慧を出生したまう。
八、 無量のもろもろの功徳の蔵を成就したまう。
九、 無量の荘厳智慧を具足したまう。
十、 無量の諸法の実義を分別したまう。
仏子よ、如来はこのような十種の無量無数百千阿僧祇の法門をもって、等正覚を成就し、世に出現したまうのである。」
(宝王如来性起品、205頁)


如来は正法を雨降らして、もろもろの煩悩を除滅し、数えることのできない無量の諸善根を生み、
正見をならい修めて、もろもろの顛倒をはなれ、一切もろもろの最勝は、ふかく功徳のたからを解りたまう。
たとえば虚空のうちに、あまねく一味の雨をふらすけれども、衆生の果報力にしたがい、生ずるものは同じくない。
かくのごとく如来は正法を雨降らしたまうに、大悲の一味の水であるけれども、まさに教化を受くべきものに随うゆえ、種々に差別して説きたまう。」
(宝王如来性起品、222頁)


「汝等まさに知るがよい、あらゆる有為の世界はみな苦しみである。いわゆる地獄の苦しみ・畜生の苦しみ・餓鬼の苦しみ・閻羅王の苦しみ・悪行のものの苦しみ・無功徳の苦しみ・我および我所に執着する苦しみである。もし人・天とに生まれようとおもうならば、まさに善根を種え、もろもろの功徳をおさめ、八難を遠離して無難のところを得るがよい。」
「汝等、まさに知るがよい、一切もろもろの行は、たとえば燃ゆる鉄丸のごとくみな苦しみであり、一切衆生はことごとく磨滅を免れえない。ひとり寂滅の涅槃は、悶熱をはなれて清涼安楽である。」
(宝王如来性起品、243頁)






如来智慧は処(ところ)として至らぬということはない。なぜなら、衆生ひとりとして、如来智慧を具足していないものはないから。ただ衆生は顛倒のゆえに如来智慧を自覚せざるのみ。もし顛倒はなれるならば、すなわち一切智・無師の智・無礙の智をおこすだろう。」
(宝王如来性起品 270-271頁)


「その三千大千世界に等しい経巻は一個の微塵のうちに在る。しかしてあらゆる微塵もまた同様である。ときに一人の賢明な人が世にあらわれ、浄らかな天眼をつぶさに成就し、その経巻の微塵のうちに在ることを見ておもうよう、「このような広大な経典が微塵のうちに在って、しかも衆生を利益せぬということはどうしたわけであろう。自分はよろしく勤めて方便をもうけ、この微塵を破って経典を取りいだし、もって衆生を利益しよう」と。そこで、その人は方便をもうけ、微塵を破ってかの経典を取りいだし、もって衆生を利益する。」
(宝王如来性起品 271-272頁)


「仏子よ、如来智慧・無相の智慧・無礙の智慧は、まどかに衆生の身のうちに在るけれども、ただ愚痴の衆生は顛倒のおもいに覆われて、それを知らず、見ず、信心を生じないのみである。そのとき如来は無礙のきよらかな天眼をもって、一切衆生を観察したまい、観察しおわって次のように仰せられる、―「奇なるかな、奇なるかな、衆生はなにゆえに、その身のうちに如来のまどかな智慧を抱いておって、しかもそれを知見せぬのであろう?自分はよろしく彼ら衆生におしえて聖道をさとらしめ、永(とこしな)えにあらゆる妄想顛倒の垢縛をはなれしめ、如来智慧のまどかにその身のうちに在って、ほとけと相違しないことを自覚せしめよう」と。そこで如来は即座に彼ら衆生におしえて、八聖道を修めしめ、虚妄顛倒を棄てしめたまう。衆生がすでに顛倒を離れてしまえば、如来智慧をそなえて如来と等しく衆生を利益する。」
(宝王如来性起品 272頁)


「たとえば微塵のうちに、一大経巻があって、それは三千世界に等しいけれども、衆生のたぐいを利益しない。
そのとき人あって世にあらわれ、微塵をやぶって経典を取りだし、一切の世間を利益する。
如来智慧もまたかくのごとく、衆生はことごとく具有しているけれども、顛倒妄想に覆われて、これを知見しない。
如来衆生におしえ、八聖道を修学し、あらゆる障礙をのぞき、究竟して菩提を成就せしめたまう。」
(宝王如来性起品 277頁)