華厳経 メモ 二
「道は他に依って求むべきではない。自分の求める道は、自分自身の苦心と努力とによって発見しなければならぬ。」
(江部鴨村『口語全訳 華厳経』解題)
「あらゆる衆生の得るよろこびは、みな如来の神力によって生ぜしめられる。如来の無量の功徳のゆえに。これを無垢の雑華門と名づける。
もししばしの間でも如来を念ずるならば、乃至、一おもいの功徳のちからですら、永くもろもろの悪世界をとおく離れることを得しめ、その智慧の日のひかりは、愚痴の暗をほろぼすだろう。」
(華厳経 世間浄眼品 41頁)
「ほとけは一切衆生の大地である。よく量りなき善の果報をたもち、衆生をしてことごとく邪道を離れしめ、よく方便の地を安立したまう。
大慈悲の雲、覆わぬはなく、仏身は不思議にしてその数衆生にひとしく、あまねく法雨をそそいで一切を潤したまう。」
(世間浄眼品 46頁)
「あらゆる衆生の怒り腹だつこころは、蔽う蓋・障りの覆い・愚痴の海である。如来無上のおおいなる慈悲は、神足のおちからをもって、これを解脱させてくださる。」
(世間浄眼品 53頁)
「衆生は悪をもとめ、もろもろの見解に執着して、無上の道をさとることができない。
功徳の法海にこころを養いそだて、常によく善知識に親しみ近づけば、つねに諸仏のために護念せらるる。
かくのごとき人々は迷いをはなれて、すぐれた智慧を得ることができる。」
(盧遮那仏品 97頁)
「一切もろもろの業の海は、種々各別であるから、金剛の手のひらのごとく、荘厳せられて坦然平正なものもある。」
(盧遮那仏品 104頁)
「種々の樹木によって、種々の木の実が生ずるごとく、種々の国土によって、種々の衆生がある。
種子に差別があるゆえ、生ずる果実が同じくないように、行業が多様であるから、仏国もまた種々に相違する。」
(盧遮那仏品 133頁)
「よく因縁の法と、業のむくいと、衆生とを知りたまう。ほとけの無礙の智慧は、はなはだ深くて、思議することができない。」
(如来光明覚品 192頁)
「あらゆる人界・天界の楽しみを離れて、つねに大慈のこころを動かし、もってもろもろの群生を救護せよ。これぞ彼の浄妙の業である。
一向に如来を信じて、こころ退転することなく、つねに諸仏を憶念せよ。これぞ彼の浄妙の業である。
とこしなえに生死の海をはなれ、仏法のながれを退くことなく、よく清涼の智慧に止住せよ。これぞ彼の浄妙の業である。
行住坐臥のうちに、ほとけの深き功徳を観じて、昼夜につねに断えしむるな。これぞ彼の浄妙の業である。」
(如来光明覚品 194頁)
「作るところのもろもろの業にしたがって、それぞれの果報を受けるのであって、別に造り手のあるわけではない。―諸仏はかように説かせられる。」
(明難品 215頁)
「もし無量のもろもろの過悪を、除き去ろうと欲するならば、よろしく勇猛無間断に精進するがよい。
たとえば幽かな火は、薪が湿っているときには消えてしまうようなもので、ほとけの教法のなかにおいて、懈怠のものもまたそれと等しい。
たとえば人が木を摺りあわせて火をもとめようとして、まだ火が出ないのにしばしば休めば、火のいきおいが止んでしまうようなもので、懈怠のものもまたそれと等しい。
たとえば珠で日光を集めても、焼点に物を置かなければ、畢竟、火をもとめることができないようなもので、懈怠のものもまたそれと等しい。
たとえば晴れわたった日光のもとで、眼を閉じて物を見ようとするようなもので、ほとけの教法のなかにおいて、懈怠のものもまたそれと等しい。」
(明難品 222頁)
「たとえば水に漂わされた人が、溺死をおそれて渇死するようなもので、説のごとく修行することのできない多聞もまたそれと等しい。
たとえば人が種々さまざまな御馳走を振る舞われて、それを食べないでみずから餓死するようなもので、多聞もまたそれと等しい。」
(明難品 223頁)
「もし如来を拝むならば、衆生とともにことごとく仏眼をえて、もろもろの仏をおたがみたいと願うがよい。
如来をあきらかに観じまつる場合には、衆生とともにことごとく十方を観て、ほとけのごとく端正でありたいと願うがよい。」
(浄行品 253頁)
「信はあらゆる功徳の不壊の種子であって、無上の菩提樹を生えしめ、最勝の智慧の門をそだてる。信はよく一切のほとけを示現する。」
(賢首菩薩品 260頁)
「宿世に善き因縁をむすび、功徳を具足してほとけの道をもとむる衆生は、ことごとく合掌して菩薩をめぐり、仰ぎみて厭くことを知らない。」
(賢首菩薩品 297頁)
「一切のこころを知ろうとおもうならば、まず法眼をもとめるがよい。私の言葉のごとくするものはよく真実のほとけを拝みまつるだろう。
もし人、ほとけを拝みまつって、そのこころに執着するところが無ければ、ほとけの説かれたまえる法のごとく、真実を見ることができるだろう。
もし大いなる智慧のほとけの、微妙な法身をおがみまつったならば、よく如来をおがみまつるゆえ、彼は清浄のまなこを持つものである。
見るということがなければ、すなわちあらゆる真の法を見、法において見るところがあれば、彼はすなわち見るところが無くなる。」
げに不思議なのは真実の法である。ほとけはこれをもって衆生をみちびきたまう。一切万有のうちには、生もなく、また死もない。」
(菩薩雲集妙勝殿上説偈品 332頁)
「無量の劫を、このもろもろの苦悩をうけて生死のうちに流転したわけは、ほとけのみ名を聞かなかったためである。」
(菩薩雲集妙勝殿上説偈品 338頁)
「もし如来をおがみまつるならば、定めて最大の利益をうるだろう。ほとけのみ名を聞いて歓喜するものは世の塔である。」
(菩薩雲集妙勝殿上説偈品 342頁)
「三世のほとけと、あらゆる功徳の業と、無上のさとりの果報とは、みな初発心から生れでる。」(初発心菩薩功徳品 427頁)
「一切のほとけの浄明な智慧のともし火を得たいとおもうならば、よろしく広いちかいの、願いを建てて、すみやかに道をもとむる心をおこすがよい。
あらゆる功徳のなかで、最もすぐれたものは道をもとむる心である。かならず如来の無礙の智慧がえられる。」
(初発心菩薩功徳品 432頁)
「あらゆる衆生のたぐいは、皆ことごとく三世に摂(おさ)められ、三世のもろもろの衆生はすべて五蘊に摂められる。
五蘊は業よりおこり、もろもろの業はこころによっておこる。心法はあたかも幻のごとく、衆生もそれと同様である。
世間はみずから作るのでもなく、また他によって作られるのでもない。その真実の性を知らないならば、生死の輪がつねに転ずる。
いわゆる世間の転ずるのは、皆ことごとく苦の転ずるのである。衆生はそれを知らないから、生死の輪がいつも転ずる。」
(夜摩天宮菩薩説偈品)
十蔵
信蔵・戒蔵・慚蔵・愧蔵・聞蔵・施蔵・慧蔵・正念蔵・聞持蔵・弁蔵
(十無尽蔵品)
聞蔵
「この事があるから、この事がある」、「この事がないから、この事がない」、「この事がおこるから、この事がおこる」、「この事が滅するから、この事が滅する」、と知り、「これは世間の法である」、「これは無為の法である」、「これは有記の法である」、」「これは無記の法である」と知る。
「この事があるから、この事がある」=根本無知があるから、過去の業因がある。
「この事がおこるから、この事がおこる」=愛欲がおこるから、苦がおこる。
「この事が滅するから、この事が滅する」=未来の業因が滅するから、生死が滅する。
世間の法=色・受・想・行・識
出世間の法=戒律・三昧・智慧・解脱・解脱智見
有為の法=欲界・色界・無色界・衆生界
無為の法=虚空・涅槃・擇滅・非擇滅・十二縁起・法界
有記の法=四真諦・四沙門果・四諦・四無畏・四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚分・八聖道分
「一切もろもろの行はみな夢のごとく、あらゆる行業はみな真実でない。
衆生はそれを知らぬために、苦楽の世界に流転する。」
(十無尽蔵品 553頁)
「たとえば目のない人が、内外の色を視ないように、如来が世に出でまさねば、人は一切の法を見ることができない。」
(兜率天宮菩薩雲集讃仏品 610頁)
十回向
救護衆生離衆生相回向、 不壊一切回向、等一切諸仏回向、至一切処回向、無尽功徳蔵回向、随順平等善根回向、 等随順一切衆生回向、真如相回向、無縛無著解脱回向、入法界無量回向
「一切衆生のために炬(たいまつ)となろう、無明の暗を滅せしめんがために。一切衆生のために燈(ともしび)となろう、究竟の明浄に安住することを得しめんがために。」
(金剛幡菩薩回向品 623頁)
等一切仏回向
「この菩薩摩訶薩は随順して過去・未来・現在の諸仏の回向を学ぶ。」
(金剛幡菩薩回向品 650頁)
随順平等善根回向
「願わくばこの善根をもって一切衆生をして悉く諸仏の三昧の花をえて清浄に咲きそろい、妙法のもろもろの花をその心から出さしめよう。」
(金剛幡菩薩回向品 692頁)
「菩薩摩訶薩が身を壊り血を出して布施するときかくのごとく回向する「願わくばこの善根をもって一切衆生をして、菩薩の法身・智身を具足せしめよう。願わくば一切衆生をして微密なる金剛の身を成就せしめよう。願わくば一切衆生をして無尽の身をえて清浄不壊ならしめよう。願わくば一切衆生をして現化の身をえて、十方のあらゆる世界に遍満せしめよう。願わくば一切衆生をして愛らしき身をえ、明浄鮮潔にして、しかも傷害すべからざらしめよう。」
(金剛幡菩薩回向品 747頁)
「菩薩摩訶薩は法を求めんがための故に、もろもろの衆生に代わって苦を受け、善根をかくのごとく回向する
「願わくば一切衆生をして一切の苦をはなれ、安楽・利益をえしめよう。願わくば一切衆生をしてもろもろの苦受をはなれ、妙なる楽を成就せしめよう。願わくば一切衆生をして永えに苦源を滅して、電光のごとき楽をえしめよう。願わくば一切衆生をして苦獄を超出して、智慧の行を具足し、成就せしめよう。願わくば一切衆生をして安穏の道を見て、苦悩の境界を離れしめよう。願わくば一切衆生をして法愛の楽をえて、充満し、具足し、究竟してあらゆるもろもろの苦を寂滅せしめよう。願わくば一切衆生をして大悲の心をおこして、あらゆる苦海をことごとく済度せんと欲求せしめよう。願わくば一切衆生をして諸仏の楽をえて、生・死の苦しみを断たしめよう。願わくば一切衆生をして無比の浄楽をえて、その身とこしなえに一切の苦患を離れしめよう。願わくば一切衆生をしてあらゆる勝れた楽しみをえて、究竟して仏の無礙の楽しみをえしめよう」と。これが菩薩摩訶薩の法を求めんがためのゆえにことごとく衆苦を受けるときの善根回向であって、一切衆生を救護して一切智の無礙の解脱に安住せしめる。」
(金剛幡菩薩回向品 762頁)
「菩薩摩訶薩は不殺等の五戒の善根をもって衆生にかくのごとく回向する
「願わくば一切衆生をして長寿の法をえて菩薩のこころを具え、いのち尽くることなからしめよう。願わくば一切衆生をして無量のいのちを得て、あらゆる諸仏を恭敬し供養せしめよう。願わくば一切衆生をして生死を離れたる法を具足し修習して、あらゆる衆難もよくその命を害することなからしめよう。願わくば一切衆生をして無量の病苦を離れたる身を逮得して、意のごとく自由にその命を持続せしめよう。願わくば一切衆生をして無尽のいのちを得て、時間の尽くるまでことごとく具(つぶさ)に菩薩の行ずるところを修習し、あらゆる衆生を調伏し化度せしめよう。願わくば一切衆生をして浄きいのちの門をえて、十力の善根を皆ことごとく来り入らしめよう。願わくば一切衆生をして善根を具足し、寿命無量にして諸願を成満せしめよう。願わくば一切衆生をしてことごとく諸仏を見たてまつり、窮みなき長寿の善根を修習せしめよう。願わくば一切衆生をして如来の家においてもろもろの所学をまなび、無尽のいのちを具足し成就して、聖法のうちにおいて歓喜の心をえしめよう。願わくば一切衆生をして老と病とのなき不死のいのちを得て、無尽の精進をもって仏智に安住せしめよう」と。
これが菩薩摩訶薩の離殺等の五戒に住して、永く殺業を断つときの善根回向であって、一切衆生をして如来の三種の浄戒に安住し具足して、十力の智慧を究竟せしめる。」
(金剛幡菩薩回向品 766頁)
「菩薩摩訶薩は荘厳せる遊楽の園林を布施するときかくおもう
「自分はよろしく一切衆生のために好愛される法林となろう。自分はよろしく一切衆生のために悦楽のところを示現しよう。自分はよろしく一切衆生のために無量の歓喜を与えよう。自分はよろしく一切衆生のために浄き法門を開いて三界を超出せしめよう。自分はよろしく一切衆生に無上の智慧を与えて諸願を満足せしめよう。自分はよろしく一切衆生のために慈父となり、智慧をもって一切の三界を観察しよう。自分はよろしく一切衆生のために生活の資料を恵みほどこして、欠くるところ無からしめよう。自分はよろしく一切衆生の慈母となり、善根を生み出して諸願を満足せしめよう」と。」
(金剛幡菩薩回向品 793頁)
「菩薩摩訶薩は大いなる施会によって得るところの善根をば次のごとく衆生に回向する
「願わくば一切衆生をしてことごとく無上菩提のこころを得て無量のほどこしを行い、皆ことごとく清浄ならしめよう。願わくば一切衆生をして皆ことごとく無量無辺の清浄の道を究竟せしめよう。願わくば一切衆生をして無量の慈を行ぜしめ、もろ人の求る所に随ってことごとく満足せしめよう。願わくば一切衆生をして無量の悲を行ぜしめ、悉くよくあらゆる衆生を救護せしめよう。願わくば一切衆生をして三世の如来の正教に随順せしめて仏を歓喜せしめよう。願わくば一切衆生をして諸仏のみもとにおいて布施を修行し、中途に悔を生ずることなからしめよう。願わくば一切衆生をして皆ことごとく勝妙の信根を長養して、念々のうちにおいて無量の布施を修行し増進せしめよう。」」
(金剛幡菩薩回向品 795頁)
「菩薩は智慧を回向せんがための故に回向して正法をもとめ、甚深の義に回向し、しかも一切の法において著するところがない。」
(金剛幡菩薩回向品 808頁)
「縁のうちに諸法を求めて、あらゆる因縁の道にそむかない。」
(金剛幡菩薩回向品 809頁)
「願わくば一切衆生をしてもろもろの恐怖をはなれ、甚深の法に入って彼岸に到らしめよう。」
(金剛幡菩薩回向品 822頁)
「願わくば一切衆生をして永えに地獄・餓鬼・畜生・閻魔王のところを離れしめよう。願わくば一切衆生をして悉くよくもろもろの障礙の業を除滅せしめよう。願わくば一切衆生をしてことごとく普遍の心と平等の智慧とをえしめよう。願わくばもろもろの怨敵をして慈心を具え、清浄の智慧を楽(ねが)わしめよう。願わくば一切衆生をして智慧を具足して円満に実現し、あまねく一切を照らさしめよう。願わくば一切衆生をして真実智と垢れを離れた正直の菩提心とを具え、無量の智慧を満足せしめよう。願わくば一切衆生をして平等安穏の善き世界を示現せしめよう」
(金剛幡菩薩回向品 836頁)
「菩薩は正念に世間を観察して、一切はみな業縁のおこす所と知り、救度せんと欲するがために諸行を修め、あまねく三界を摂してあますところがない。」
(金剛幡菩薩回向品 859頁)
「願わくば無縛無著の解脱の心をもって普賢の身・口・意の業を具足しよう。願わくば無縛無著の解脱の心をもって普賢の勇猛精進を具足しよう。」
(金剛幡菩薩回向品 861頁)