ルカによる福音書の第十九章にザアカイという人物が出てくる。
印象深い話なので、知っている人も多いと思う。
徴税人で金持ちだったザアカイは、イエスが街にやってきたときに、背が低くてイエスの姿が見えなかったので、いちじくぐわの樹にのぼってイエスの姿を見ていた。
すると、イエスがザアカイのもとにやってきて、今日はザアカイの家に行く、と言った。
ザアカイは感激して、歓迎した。
おおまかに言うと、こんな話である。
今日、高橋三郎先生の聖書講話のCDを聴いていて、それについてこんな解説がしてあって、とても胸打たれた。
ザアカイは背が低いから樹に登ったというよりも、自分が徴税人で人々から嫌われていると思っていたので、あえて群衆の中に入っていくのを避けて、ちょっと離れたところにある樹にのぼって様子を見ようとしたのだろう、と。
ルカ19章には、背が低いから樹にのぼった、としか書いてないので、てっきりそんな風に今まで思っていたが、高橋先生の解説だと、ザアカイの孤独や心理が本当にリアルに伝わってくるようで、間違いなくそうだったと思えた。
そして、イエスは、誰よりも敏感にそのことを感じ取って、自分の方からザアカイのもとにやってきて、今日はザアカイの家に行くとわざわざ言ったのだろう。
福音書の中の別の箇所で、イエスに長年長血をわずらっている女性が服に触れて癒される話がある。
あの箇所について、遠藤周作が、イエスはきっと、服をその女性が触れただけで、その女性の今までの苦労や悲しみが瞬時にわかったのだろう、という解説をしていて、きっとそうだったのだろうと思ったことがある。
ザアカイの話にしろ、長血をわずらった女性の話にしろ、イエスという方は、本当に人の言葉にならぬ孤独や悲しみや苦労を、瞬時に見抜いて、自分の方から声をかけて手をさしのべる人だったのだろうと思う。
そのような繊細さや優しさは、なんとこの世の中では、稀有な、おろそかにされがちなことだろう。
私が、イエス・キリストという存在に、なんともなつかしさと慕わしさを感じるのは、そういった稀有な優しさや繊細さについてなのだと思う。
二千年経っても、人類が忘れることができないのは、そうしたところであり、おろそかにされがちなことだけれど、実は誰もが心の中で最も欲しているのは、そういった、いわば「愛」なのだと、あらためて思う。