雑感 この世の根底にあるのは

この世の奥底に、愛や正義があるのか。

あるいは、この世界は無目的で、偶然や盲目的な衝動が支配しているのか。

どうも自分は、この問題を、かれこれずっと長い間探究してきたような気がする。

人によっては、あまり気にせず、気にもとめない問題かもしれない。

そんなことを考えても仕方がない、という人もいるかもしれない。

しかし、自分の場合は、この問題が解決しないことには、この人生には何の意味も方向性もないのではないかという気が漠然としてきた。

仮に後者だとした場合、はたして人生や人間に何の意味があるのだろう。

意味などないから楽しく強く生きるべきだ、という意見や立場もあるのだろうけれど、どうも自分はそれがしっくりこない。

かといって、前者を信じるには、自分は悲観的に過ぎるし、あまりにも疑い深い。

というわけで、かれこれ十数年、いや二十年か三十年ぐらい、ずっとこの両者の間を、どちらとも判断がつかず、後者ではないと信じたいが、かといって前者を信じきるわけでもない、中途半端な状態で、時に後者に傾きながら、生きてきたような気がする。

その点、キリスト教というのは、断固として後者を排して、前者を信じることを説く宗教なのだと思う。

この世界は神が創造したものである以上、自分を含めた存在は全てなんらかの目的を持って存在しているわけで、いわば意味がある存在である。
また、この世界の根底にあるのは、キリストの愛であり、すべてが偶然や無意味ではなく、神の愛に基づいた御計画のもとにつくられ差配されている。

そう明確に説き明かすのが、キリスト教である。

それだけだと、いまいち疑り深い私はあまり信じることができないし、信じる気になれないのだと思うのだけれど、福音書のキリストの愛の言葉に触れていると、なるほど、これが世界の根底にあるものかもしれないと思うようになってくる。

冒頭にあげた二つのうち、あえて後者ではなく、前者を信じることが、またそのように信じる力を与えてくれるのが、キリスト教であり、聖書の教えるところなのかもしれない。

しかし、どうすれば、愛の神を信じきることができるのだろう。
あまりにもこの世界は不条理と悲惨と無意味さに満ちているような気もする。
いや、そうであればこそ、そこに働く御手を見い出し、少しでも愛や正義を人の世に現していくことが大切なのかもしれない。

たぶん、キリストが他の宗教の開祖たちと根本的に異なるのは、自分はこの世の根底にあるものだと述べたところだと思う。
ロゴスや神の子だというのは、要するに、この世の根底にある精神と同じ精神だということだろう。

この世の奥底にあるものが、キリストの御心と同じだとすれば、だいぶ心が慰められるような気がする。
そうでない無目的な残酷な世界というビジョンに比べて、なんと麗しいことか。