福音書には、有名なペテロの否認という箇所がある。
つまり、キリストがとらわれた後、キリストの近くにいた人じゃないかと言われて、そんなことはないと否認し、鶏が鳴く声を聴いて、かつてキリストがあらかじめそのことを見抜いて告げていたことを思い出し、激しく泣いたというエピソードである。
ルカによる福音書にだけ、鶏が鳴いた時に、キリストがペテロを見つめた、ということが記されている。
その場にキリストがいたのか、ペテロの心に現れたキリストだったのか、福音書の記述からだけでは判然としないけれど、いずれにしろ、ペテロはキリストのまなざしを感じたのだろう。
そのまなざしは、義と許しの目だった、ということを、最近聴いているネットの音声の聖書講話で解説してあって、なるほどと思った。
義と許しのまなざしを感じた時に、ペテロは泣き伏すのと同時に、立ち上がることができ、本当の意味で立ち直ることができたのだと思う。
本当の愛というのは、義と許しの両方を同時に含んだまなざしなのだろう。
私はもちろんキリストを肉眼でも心眼でもはっきり見るようなことはできないけれど、おぼろげにそのまなざしを感じることができるような気はする。