内村鑑三の『ロマ書の研究』の中に、しばしば浄土教に関する言及があり、なかなか興味深い。
特に、以下の言葉はとても興味深かった。
「日本において、法然、親鸞らの他力救済宗が広く平民の心に訴ふるところありて、このときよりわが国の仏教が初めて民衆の世界に入り来りしは人の知るところである。
人の行いに依らず、全く弥陀の本願に基づくところの他力救済の繁がかく民衆の心に速かに透入したるは、人が皆本純的に律法による義の実現し難きを感知せるがためであつた。
ゆえに仏教徒にして法然・親鸞の心をよく知れる者は、福音の根本義を聞く時これを理解し、これに共鳴し得るのである。さればわが国の古き宗教もまたある意味において福音を証明すと言い得るのである。」
(内村鑑三全集二十六巻 170頁)
これは、律法、つまり道徳によっては人は救われず、信仰によって人が救われる、というロマ書の内容の解説の中で述べられている一節である。
この箇所によれば、内村は、日本の古い宗教である浄土教は、いわば日本における旧約のようなもので、福音・新約を証明するものである、ということを考えていたことになる。
非常に興味深い箇所である。
もっとも、内村は『ロマ書の研究』の第八講において、浄土教とキリスト教の類似点とともに相違点を指摘している。
その違いというのは、内村が言うには、浄土教の根底は「慈悲」だが、キリスト教の根底は「義」だということである。
しかし、これは内村の浄土教への誤解もあると思う。
というのは、浄土教内部においてもこのことはしばしば誤解されているので、内村がそのように言うのはやむをえないことでもあるのだけれど、浄土教もまた「義」を根底としている。
つまり、第十八願文の唯除文は、曇鸞大士の往生論註を踏まえて理解すれば、当然「義」を根底としており、十善戒等の仏法を他人事と思っている人は誹謗正法ということで、十八願文の救いから除かれることになる。
したがって、浄土教も義を根底とした宗教と言える。
だが、一般的には、内村がそのように言っても仕方がない現状があるのは確かだろう。
内村が、法然・親鸞の理解が福音の理解に資すると述べていることは大変興味深いが、逆に言えば、内村の「ロマ書の研究」は、浄土教の理解にも大いに資するものと言いうるかもしれない。