聖書の中にはいろんな声があり、その中のどれを特に聞くか。
それは結局、読む側の読み方、聞く側の聞き方によるのかもしれない。
さらっと聖書を読んだだけの時は、なんとまぁ、血なまぐさく、悲劇と恐怖に満ちている本かと思う。
何度イスラエルの民は敵に踏みにじられ、悲惨な目に遭ってきたことか。
しかし、逆に考えれば、それほど何度も絶体絶命の危機や悲劇に見舞われながら、そのつどかろうじて滅びることを回避し、不思議と間一髪で生き残り、そして不死鳥の如くよみがえってきたのがイスラエルの歴史だったのかもしれない。
また、聖書の中には、神の怒りの声も非常にたくさん載っている。
しかし、イエス・キリストは、その中から、レビ記や申命記の中に出てくる、神の愛と隣人への愛こそをピックアップして示した。
聖書の中には多様な声があるが、特にどれを聞いて、どれを自分の血肉化するかは、その人次第なのかもしれない。
そして、それが選択なのだろう。
単なる恐怖や怒りよりも、愛や信頼のメッセージを聞き取れたら。
それが深い読みであり、また神の御心にかなった読みなのかもしれない。
旧約聖書続編の最後の最後に収録されている「マナセの祈り」に、こんな一節がある。
「あなたは善き御心を示してくださいます。 ふさわしくないわたしを、 深い慈しみをもって 救ってくださるからです。 」
(マナセの祈り 十四節)
マナセは、おそらく列王記に出てくるマナセ王のことで、神をないがしろにし国が亡び、本人も虜囚の憂き目にあった人物である。
どん底で、なおかつ神の善意と慈しみを謙虚にはっきり見出したのが、さまざまな試行錯誤と苦難の末に、イスラエルが見出した精神だったのかもしれない。