昔は、キリストを信じるということや、キリストが最も重要ということがよくわからなかった。
今も、あまりまだよくわかっていないのだろうと思う。
ただ、この頃思うのは、キリストを信じるということや、キリストを人生のかなめ石とするとはどういうことかというと、この世界の根底にあるのは「愛」であり、その「愛」を信じるということなのだと思う。
というと、陳腐な表現になってしまうかもしれないし、人の愛とは隔絶したものなので、パウロもキリストを信じるということを語り続けたのだと思うけれど、要はそういうことじゃないかと思う。
この世界の根底にあるのは「愛」であり、この世界のかなめ石は「愛」だということ。
そのことを、愚直に説き続けて死んでいったのが、パウロであり、ペテロであり、そしてキリストだったのだと思う。
どうにもそのことが信じられないのが、疑いということであり、罪ということなのかもしれない。
一方、では、この世界の根底に「愛」がないと割り切って生きることも、自分には到底できそうもない。
キリストを完全に全く信じるほどの信仰もないが、かといって信仰なしで生きることは自分には到底できそうもない。
おぼろな信仰。
自分にあるのは、そんなものなのだと思う。
ただ、ないよりは、それが救いになるような気もする。
そして、このおぼろな信仰も、ただひたすら恵みによるものなのだろう。