雑感 ユダヤ教について

昨年の春ごろ、どういうわけか急にユダヤ教に興味が一時期湧いて、集中的に日本語で出ているユダヤ教の文献をいろいろ読んだ時期があった。

その余波というか、習慣になってしまって、一応、毎日、朝と夜には、日本語訳でだけれど、ユダヤ教のシェマーとアミダーと詩篇の一部を朗読している。

シェマーというのは、申命記の第六章の一部と第十一章の一部と民数記の第十五章の一部。
アミダーというのは十九の祈祷文から成る聖書の内容を踏まえたユダヤ独自の祈祷文。
詩篇は、平日は詩篇の百章と百四十五から百五十篇、安息日は十九、三十四、九十、九十一、百三十五、百三十六、三十三、九十二、九十三、百四十五から百五十、である。

ちなみに、ユダヤ教徒の場合、朝と夜だけでなく、昼も含めて、日に三回の祈祷をするそうである。
さすがに昼はちょっとできないので、その点で私はユダヤ教徒にもなれなそうである。
(もちろん、割礼を受けておらず、食物規定を完全に守れない時点でユダヤ教徒にはなれないのだが)。

しかし、やってみると、けっこう楽しいものである。

これはユダヤ教の習慣だそうで、キリスト教では別にこれらを日々に唱えるということはしないようである。
キリスト教の場合は、主の祈りだけでOKなのだろう。

くどくどと言葉数が多ければ祈りが聞かれるわけではない、ということをキリストも福音書の中で言われているので、主の祈りを唱えるぐらいで信仰上はいいのかもしれないが、習慣としてやってみると、なかなか楽しいし、繰り返し唱えていて、やっと少しずつ意味がわかったり、味わいがわかるものもあるように思う。

シェマーに関して言えば、やはりこの箇所は、聖書全体の肝であり、要であって、さすがにこの箇所を日々の礼拝文にした昔のユダヤ教のラビたちは大したものだと思える。
一神教の真髄とも言うべき文章と思う。
また、民数記の箇所の最後の部分は、はじめの頃は特に気にもとめず気が付かなかったが、日々に神が向こうの方から名のりをあげているような気がして、実に味わい深いありがたい一節と読んでうちに思うようになった。

また、詩篇も、百と百四十五から百五十を特に選んで日々の朗誦に用いているというのは、やはり昔のユダヤのラビはすごいと思う。
というのは、この七つの詩篇はどれも讃美の詩で、詩篇にはいろんな詩があるけれど、特にこの讃美を日々に用いているというのは、やはり大したものだと思う。
緊急事態用の詩も詩篇の中には数多くあるが、日々の日常のベースは讃美、ということなのだろう。
また、その中に、百四十五篇など、本当に人生の支えになる、どん底の人を励まし慰める内容があるところも素晴らしいと思う。

アミダーの祈りも、本当に美しい素晴らしい祈祷文で、おそらく古今東西の祈祷文の中で最もすぐれた素晴らしいものではないかと思う。
ユダヤ教に対する通俗的な厳しいものというイメージと異なり、アミダーの祈りで描かれる神の姿は、なんと美しく優しいものかと思う。

というわけで、これらを日々に読んでいると、非常に心が支えられ、清められ、強められるような気がする。
ユダヤ人がすぐれた民族である秘訣は、日常的にこういうすぐれた文章に接していることにあるのかもしれないと思う。

そういうわけで、ユダヤ教というのはとてもすぐれた宗教なのだろうと日常礼拝文からも思うし、あと安息日も、完全にユダヤ人のように守ることはできないが、とても良い習慣だと思う。
なかなか完璧に守ることはできないが、特に用事がなくて事情が許す時は、安息日、つまり金曜の日没から土曜の日没までは、一切テレビも音楽も見ず聞かず、ネットもメールもせず、メモや文章を書いたりせず、仕事をしない、という風にすると、非常に一日が長く感じるし、聖なるものに感じられるし、とても魂が浄化され休まる気がする。
もっとも、ユダヤ教徒の場合、電気も一切使わず、料理もしないそうなので、ちょっと完璧に守るのは私には無理だが、可能な限り安息日を守るのもなかなか楽しいしためになるものである。
あと、ユダヤ人は詩篇百二十六のシールハマアロットの歌を安息日には歌うそうだが、これもとても良い歌で暗記しているので、安息日には私も歌うことにしているが、本当に安息日の日の夜が聖なる日になったような感覚がする不思議な歌である。

というわけで、ユダヤ教は大変素晴らしいと思うのだが、やはり私は今生ではユダヤ教徒になることは無理そうである。
というのは、やはりその戒律遵守が難し過ぎるからである。
割礼は、その体験者の手記を読んだことがあるが、あまりにも痛そうで、これがまずちょっと無理そうである。
また、食物規定も、豚肉やアンコウやエビがだめなど、ちょっとハードルが高く、これらが自由に食べれるキリスト教は本当にありがたいと思う。
また、安息日も、可能な限りならばともかく、完璧な遵守などまず無理だろう。
日々の礼拝も、昼時のものなど、日本に住んでいると無理っぽい。

こう考えると、これらのユダヤ教のハードルが高すぎる規定をすべて自由にし、それらとは無関係に、信仰によってのみ救われるとしたキリスト教は画期的だったし、ありがたいものだったと思う。

だが、ユダヤ教をある程度知っていると、いかにキリスト教が画期的でありがたいものかということもわかるし、可能な限りの部分で、安息日の精神などから学ぶべきことはあるように思う。

そして何より、詩篇や律法などの学びが深くなるだろうと思う。

キリスト教はたしかに素晴らしく、ありがたいものだが、ユダヤ教から学ぶべきことも多いように思う。
だが、自分として考えた場合は、やはりユダヤ教はちょっと無理で、キリスト教なのかなぁとは思う。