
- 作者: 三谷隆正
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/01/16
- メディア: 文庫
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本当に素晴らしかった。
すごい名著と思う。
長年、なかなか自分では漠然と思いながら明晰につかめなかったことや、よくわかっていなかったことが、やっと整理され、明晰に見えた気がする。
以前、何回か読もうと思って、どうも難しそうなので、読まずにいてしまった。
というのは、この本は最初から最後まできちっと読まないと全体がつながっているのでなかなか十分にはわからない。
しかも、出だしはいきなりギリシャ哲学のストア派やエピクロス派なので、とっつきにくいことこの上ない。
しかし、きちんと読むと、非常に明晰に書かれているし、別に衒学のためでなく、非常に重要なことを言うためにあえて古代ギリシャから解き明かしていることがよくわかる。
著者が言うには、ソクラテスから始まった主知主義、つまり善を知ることにより行うことができる、ゆえに知が重要である、という伝統は、素朴な快楽主義や共同体主義が徐々に変容し、エピクロスやストア派に至って、個人主義と無感覚主義に行きついたことを指摘する。
つまり、自分自身の幸福を大事にするための探究が、なるべく世間とかかわらず、あらゆる物事に超然と無関心になり、なるべくわずらわしいことを避けるような消極的な姿勢になり、自分自身の内面に幸福やいのちの源を追求した結果、エピクロス派もストア派も自殺を賛美し、多くのそれらの哲学者が自殺するという行き詰まりに至ったという。
この個人主義や内面にのみ目を向けた探究を、全く方向転換させたのが、キリスト教だった。
キリスト教は、いのちの源を自己の内面ではなく、超越的な外在的な絶対者に見出し、人生の方向転換をもたらす宗教だった。
しかし、中世のカトリックは、アリストテレスの影響により、主知主義の傾向を強めた。
それに対し、もう一度、プロテスタントが主知主義ではない主意主義、つまり神と人との関係は知よりも前に愛であることを、信仰が救いであり、知は救いではないことを説き明かした。
この結果、知ることよりも、実際に行動し生きる、積極的な姿勢がプロテスタントの社会に起こり、近代社会を準備した。
そうした世界史の大きな流れを著者は指摘しながら、それが非常に実感のこもった、それぞれの人の内面や人生体験に通底するものとして、普遍的でありながら非常に実存的に語られている。
その点、他に類書のない、稀なる本だと思う。
私も漠然と、セネカやマルクス・アウレリウスなどのストア派の書物や、エピクロスなどは、素晴らしいとは思いつつ、どこか何かが物足りないし、行き詰る気がしていた。
一方、キリストやパウロは、うまくは表現できないが、何か生命力がある気がしていた。
それがなぜなのか、その方向性がどう違うかが、ようやく分かった気がする。
また、自分がなぜ、昨今の日本にも多い、自分探しやスピリチュアリズムや神秘主義の類にいまいち興味が持てなかったのかも、はっきりわかった気がする。
と同時に、どうも自分は、ギリシャ哲学や仏教をかじったせいか、主知主義の傾向が強すぎるので、主意主義の方向で生きたいと明晰に思うようになった。
実に良い一冊だった。