聖母宮という神社を聞いたことはあるだろうか?
壱岐にあり、仲哀天皇由来の、壱岐に存在する神社である。
ちなみに、読み方は、「しょうも」と読む。
聖母宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E5%AE%AE
実は、仲哀天皇の墓がある福岡の香椎宮も、古い名称は「聖母宮」だった。
この場合の聖母は、仲哀天皇の后であった神功皇后を指す。
福岡のあちこちには、神功皇后を祀った神社があるが、古い鳥居や石碑などには、「香椎聖母宮」だとか「香椎聖母廟」、あるいは「聖母大明神」、「聖母大菩薩」などと書かれているものがある。
神功皇后だけを祀っている場合、上記のように、聖母宮として祀られている信仰が中世には存在していたわけだが、神功皇后は八幡三神の一柱として祀られることも多い。
八幡三神、つまり八幡神社の祭神の三柱の神とは、周知のとおり、応神天皇・神功皇后・比売大神である。
九州においては、宇佐八幡宮を中心に、八幡信仰も広く伝わっている。
この応神天皇を祀った神社もあちこちにあり、それぞれの地名を冒頭に冠しながら、「〜御子神社」という神社があちこちにある。
「みこ」神社と読む。
ここまでは、周知のとおりの事実なのだが、そこから先、最近読んでいた本に、奇妙なことが載っていた。
佐伯好郎の景教についての本である。
佐伯好郎は景教、つまりネストリウス派キリスト教の研究者として著名である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%A5%BD%E9%83%8E
これらによれば、実は、聖母信仰と御子信仰は、ネストリウス派キリスト教の影響があるというのである。
そんな馬鹿な話があるかと思ったが、話はこうである。
古代日本において、周知のとおり、秦氏という一族がいる。
この秦氏の始祖は、弓月君であり、渡来人だったことが日本書紀に記されている。
そして、弓月国とうのは、シルクロードにかつて存在し、五胡十六国の時代に前秦をつくった人々で、前秦が滅亡した時に日本に逃れてきたというのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
そして、佐伯好郎は、この弓月君から秦氏は、ネストリウス派キリスト教を奉じるディアスポラのユダヤ系の人々だったと推測している。
ネストリウス派キリスト教というのは、431年のエフェソス公会議で異端の烙印を押され、東方にその後移って行き、隋や唐の時代には長安などで非常に多くの信者を獲得していたことは、多くの人が知っているとおりである。
高野山には今も大秦景教流行碑の複製が存在する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A7%A6%E6%99%AF%E6%95%99%E6%B5%81%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A2%91
実は、このネストリウス派キリスト教は、ディアスポラのユダヤ人に信仰されていることが多かったそうで、それらの人々が、中国を経て、日本にやって来て、それが秦氏となったというのである。
秦氏の代表的人物で聖徳太子を補佐したことでも知られる秦河勝を祭った神社は、大避神社という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
実は、この「大避」あるいは「大辟」、もしくは「大闢」という字は、漢字で、ダビデを意味する。
いまは中国語でダビデは、「大衛王」と表記するが、古い訳は「大闢」と書かれたことは、wikipediaにも明記されている。
「大衛王・・・舊譯大闢」
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A1%9B%E7%8E%8B
聖徳太子は、馬小屋で生まれて厩戸皇子と言われたことや、ある種の復活伝説である片岡の聖伝説があることは周知のとおりで、日本書紀にも記されているが、佐伯は、これはネストリウス派の伝説や信仰が聖徳太子と混淆、あるいは仮託されたことによるとしている。
聖徳太子と秦河勝および秦氏一族が密接な関わりを持ったのは、太秦の広隆寺に顕著に表れていることだが、たしかに、こう考えてくると、なんとも奇妙なことである。
ここからが、一種の推測も交えたことなのだが、聖徳太子を厩戸皇子としてキリストの馬小屋の伝説をそれとなく伝えたように、また「大闢」ダビデを祀った神社を、秦河勝を祀った大避神社としたように、どうも古代においては、ストレートにはネストリウス派キリスト教を信仰することが許されなかったようである。
なんらかの政治的な事情、あるいは迫害をおそれたのか、ストレートにはネストリウス派キリスト教を前面に出さず、土着の日本の信仰や仏教や皇族の逸話と意図的に混淆させ、目だたぬ形で、わかる人にははっきりわかる形で、一種の暗号としてあちこちにネストリウス派キリスト教の信仰を伝えたというのである。
その一つが、実は八幡神社で、なぜ八幡神が三柱の神からできているかというと、これは三位一体を表しているというのである。
そして、神功皇后が聖母宮とか聖母大菩薩というのは、聖母マリアを、応神天皇が御子として崇拝されているのは、イエスを表しているというのである。
もちろん、通常、三位一体といえば、父と子と聖霊であり、応神天皇が仮に御子を仮託しているとしても、聖母マリアを三位一体に入れることはない。
しかし、ここでは、秘められた形で信仰を伝えることと、三位一体の奥義のみひっそりと伝えるために、わかりにくい父や聖霊ではなく、マリアを聖母として入れることで、伝承を伝えようとしたというのである。
では、もう一柱の神、比売大神(ひめのおおかみ)とは、なんなのだろうか。
これは、「売」の字が入っていることからわかるように、売女であったマグダラのマリアを指すそうである。
正統なキリスト教では、マグダラのマリアは登場はしてもそこまで信仰の対象となることはあまりないが、実は、一部の異端やグループでは、マグダラのマリアは極めて熱心に崇拝されている。
南仏やスペインの各地には、黒マリアという、マグダラのマリアあるいは、キリストとマグダラのマリアの間の娘サラを祀った場所があるそうで、中でもセント・マリー・ド・ラ・メールという場所は、ジプシーの聖地として祭りの季節には全国各地から大勢のジプシーが集結する場所として知られている。
http://gypsyqueen.ti-da.net/e7203790.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%EF%BC%9D%E3%83%89%EF%BC%9D%E3%83%A9%EF%BC%9D%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB
比売大神がマグダラのマリアだとして、そうした、正統なキリスト教とはやや異なる、マグダラのマリア崇拝がひそかに持ち込まれ、仮託されているとすると、それほど不自然なことではないのかもしれない。
御子つまりイエスの配偶者という設定も、南仏やスペインに残る信仰とよく似ているのかもしれない。
南仏にはかつてカタリ派という異端が存在し、十字軍による徹底した弾圧を受けたが、カタリ派はネストリウス派と相通じる古い時代の伝承や信仰を持続していたのかもしれない。
実は、話はこれだけにとどまらない。
なぜ、戦国時代に急速にキリシタンが九州の地域に伝播したかというと、もともと九州に広がっていた八幡信仰や香椎聖母信仰や御子信仰の土壌があり、共鳴したからだというのである。
宇佐八幡が存在する大分豊後の国主だった大友宗麟が、最初にキリスト教に触れて回心したきっかけは、実は、「八幡大菩薩行状秘記」という書物に、景教のことが触れてあり、それがカトリックの信仰と一致していたからだというのである。
しかし、カトリック側からすれば、ネストリウス派キリスト教は異端であるし、それが日本土着の信仰や皇族崇拝と混淆した八幡信仰は、なんら理解の対象とはならず、排除の対象とのみなった。
大友宗麟はすっかりカトリックに帰依したが、大友宗麟の妻の奈多夫人が、当初は夫と共に宣教師を歓迎しながら、のちに夫と意見を異にして徹底してキリスト教に反対するようになったのは、八幡信仰をカトリックが軽視し排斥したからだそうである。
ちなみに、「八幡大菩薩行状秘記」は、奈多夫人の実家である奈多八幡宮に伝わる秘伝だったそうである。
(奈多夫人については以下参照)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E5%A4%9A%E5%A4%AB%E4%BA%BA
もし仮に、戦国時代にやってきたカトリックの宣教師たちが、日本に土着化していたネストリウス派キリスト教の跡や伝統をそれなりに理解し尊重し、あまり排斥せずにいたら、キリスト教の布教はもっと円滑にいったのかもしれない。
あるいは、八幡信仰や聖母信仰の側も、奈多八幡宮のように古い伝承を維持しているものは数少なく、大半はカトリックやキリスト教を何か新奇な、自分たちとは無関係のものと受けとめることも、もはや多くなっていたのかもしれない。
かつてプラトンは、想起説ということを唱えた。
私たちが何かを知るということは、私たちがすでに知っていることを思い出すだけなのだと。
日本におけるキリスト教というのも、実は、戦国時代や明治に新たに伝わったことではなく、私たちが実は遠い昔から知っていて、忘れてしまったことを、思い出すだけのことなのかもしれない。
ちなみに、諏訪神社には今もアブラハムがイサクを神に捧げるのとそっくりな子どもを犠牲に捧げる真似をする儀式が残っており、諏訪神社の隣にある山は「守屋山」という名前で、アブラハムがイサクを捧げようとした地である「モリヤ」と完全に名前が一致する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%A4_(%E8%81%96%E6%9B%B8)
これも、古代において、ネストリウス派キリスト教や秦氏がなんらかの形でかかわったことだったのかもしれない。
(以上は、虚実織り交ぜたエイプリルのフールの嘘なので、どうか皆様真に受けないようにしてください。
「八幡大菩薩行状秘記」などという書物は存在せず、奈多夫人は最初からキリスト教から反対だったのであり、途中で変わったわけではありません。)