日本の戦国時代に伝わっていたユダヤ教について

長崎などの九州の地域に、「サバト寄り」(あるいは「さばと寄り」)という風習が残っている。
かつてはもっと広範囲に存在していたそうだ。


http://www.seibonokishi-sha.or.jp/catholicgraph/197103.htm
https://sites.google.com/site/tomaozaki/Home/toumei-tusin/tu201009
http://ameblo.jp/33744/entry-11115629331.html


サバトとは、土曜日のことで、安息日を意味する。


かくれ切支丹の地域とこの風習が重なることから、戦国時代に伝わったキリスト教の影響とも言われているが、そもそもカトリックにもプロテスタントにも、土曜日を安息日とするような風習はない。
土曜日をシャハットとし、安息日にするのは、ユダヤ教である。


このため、ラビ・トケイヤーの『ユダヤ製国家日本』http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E8%A3%BD%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%97%A5%E6%9C%AC%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%AE%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3-%E3%83%88%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC/dp/4198621217 や、上記紹介の三つ目のブログなどは、この風習はキリスト教渡来以前、日本の古代にユダヤ教が伝わっていた名残ではないかと推測している。
ラビ・トケイヤーなどによれば、日本の古代の渡来人・秦氏ユダヤの失われた十支族である可能性が高く、その風習ではないかと。


しかし、私は別の推測をしている。


つまり、私の推測はこうである。
サバト寄りの風習は、古代ではなく、やはり戦国時代に渡来した。
しかし、これはユダヤ教の風習である。
では、なぜユダヤ教の風習が日本に伝わっているのか。
その理由は、鎖国禁制下の日本に、隠れキリシタンとして伝わっているものの、少なくとも一部は、実はユダヤ教だったからである。


戦国・江戸期の日本にユダヤ教が伝わっていた、などと言うと、多くの人は驚くかもしれない。
しかし、これは決して突拍子もないことではない。


実は、日本にやってきたカトリックの宣教師の中に、マラーノと呼ばれる改宗ユダヤ人が多く含まれていたからである。


たとえば、日本ではじめて外科手術を行い、多くの人を無料で診察し多くの人の命を救ったと伝えられている宣教師・アルメイダは、マラーノである。


ルイス・デ・アルメイダ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%80


マラーノとは、元来の意味は「豚」という意味で、スペインやポルトガルにおいて、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々を指す言葉である。
当時のイベリア半島では、レコンキスタ完了後、ユダヤ人に対する迫害が強まり、多くのユダヤ人が異端審問で殺害され、生きるために多くの人がキリスト教に改宗した。
彼らは改宗後もマラーノと蔑まれ、本国では生業につくことがしばしば難しく、折からの大航海時代の潮流に身を投じて、多くの人が海外に新天地を求めた。


困難であることが当然予想される遠い日本への布教も、本国ではうだつがあがらない多くのマラーノ出身の人々が身を投じていたのである。


スペイン・ポルトガル出身の宣教師が、しばしば日本の文化を見下し、内心では日本の植民地化を進めようと考えていたのに対し、マラーノの人々は、アルメイダに見られるように、心の底から戦国時代の日本の民衆を愛し、医療や教育に身を捧げた。
当時の日本人の多くが心の底から感動し、帰依したのは、どうもルイス・フロイスなどの本国のエリート階層出身の人々に対してではなく、アルメイダなどのマラーノ出身の人物についてであったようである。


ここからが私の推測になるが、どうも、鎖国と切支丹禁制が完了した江戸初期において、それでも日本に残ったマラーノ出身の宣教師たちは、どうもキリスト教を棄てて、もともとの自分たちのユダヤ教に回帰したのではないかと思われる。


そのため、安息日キリスト教の日曜ではなく、ユダヤ教の土曜にし、ユダヤ教シナゴーグにおいて土曜日に必ず集まって皆で祭礼を行うように、「サバト寄り」を習慣づけた。


それだけではない。
相良清兵衛屋敷という、人吉相良藩の家老だった犬童頼兄という人物の屋敷跡に、広大な地下室が存在し、そこに石でつくったプールにしか見えない遺跡が近年発見されている。
ぜひ、以下の写真や概要を見て欲しい。


http://yumeko2.otemo-yan.net/e364484.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84


これも、隠れキリシタンの遺構ではないかと推測されているようだが、これは知っている人が見れば明白にわかるが、ユダヤ教のミクヴェ(ミクワー)であるのは間違いない。


ユダヤ教のミクヴェ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%BC


そもそも、キリスト教はこのような大きなプールを洗礼に必要としない。
こうした設備を必要とするのは、ユダヤ教である。


サバト寄りとミクヴェのことから、かなりの数のマラーノが、本国との交信が途絶えた後、ユダヤ教に戻り、ユダヤ教を長崎や人吉の人々に伝えていたことが推測される。


しかし、おそらく、切支丹となって素朴な切支丹の信仰を持っている日本の庶民の人々に、ユダヤ教キリスト教の歴史を説明することは、非常に困難であったろう。
多くのマラーノは、ことさらキリスト教を否定することはなく、「隠れキリシタン」の教えとして、ユダヤ教を教えていたのではないかと思われる。
また、彼ら自身、安息日やミクヴェなどのユダヤ教の風習や、律法の遵守などは大切にしつつも、イエス・キリストその人については、改宗のあと学ぶにつれて、受け入れていたのかもしれない。


九州地方に伝わるオラショは、ラテン語の原文がとても再現できない、全然違うとしか思えない文章がしばしば伝わっているという。
しかし、それらは、もともとラテン語の文章ではなかったのかもしれない。
ひょっとしたら、ヘブライ語のトーラーの朗誦が訛って、元のものとは似ても似つかないものになったのかもしれない。


江戸時代の三百年間、信仰を保ち続けた隠れキリシタンは、たしかにローマ帝国の弾圧下の初期教会とも似通ったものを感じる。
と同時に、ヨーロッパ中世の、キリスト教に弾圧されて、改宗を装いながら、面従腹背し、自らの信仰を強固に保ったユダヤ教にも似ていたような気がする。


明治開国以後、隠れキリシタンカトリック等に統合された。
サバト寄りなどの風習は徐々になくなっていくのかもしれない。
それはそれでいたしかたないことなのかもしれないが、日本の隠れキリシタンと呼ばれるものの背後に、実はマラーノの人々やユダヤ教があったことを思い起してみることは、より一層、歴史の複雑さと、あの時代の悲しみや切なさや本当の愛とは何だったかを考えさせることとして大切なことではないかと思われる。



(上記のことは、エイプリルフールの嘘ではなく、真面目な論考ですw 各URLも読んでいただければわかりますが、サバト寄りと人吉のミクヴェと思われる遺稿は実際に存在するものです。)