高史明 「歎異抄に導かれて」を見て メモ

先日、NHKの「こころの時代」という番組で、今年の7月15日に91歳で亡くなった作家の高史明さんが出演した「歎異抄に導かれて」という2004年に放映された回が、再放送されていた。

高史明さんが人生の折々に歎異抄に触れて得てきたことをお話されていて、その深い読みと領解にとても感動させられた。

特に四つのことがらが心に残った。

 

ひとつは、善悪のことについて。

歎異抄には、親鸞が善悪の区別について否定的で、自分は善悪について知らないと言い、悪人正機を打ち出している。

これについて、高史明さんは、自分の出自や政治運動に参加して挫折した体験を踏まえて、親鸞が言いたいのは、世間の善悪の基準と阿弥陀如来の善悪の基準というものがあり、前者に振り回される必要はなく、後者はなんだかはっきりとはわらないけれど、そのままの自分で良いと言ってくれているものであり、世間の善悪の基準は気にせず自分のあるがままで価値があるのだということではないか、そういうことを言っているのではないか、と受けとめるようになった、とお話されていた。

そう思うようになり、自分のあるがままのそれまでの人生を、何の意味もないと思っていたけれど、自分なりに価値があると思えるようになり、小説にしたところ、文学賞を受賞したそうである。

 

ふたつめは、自己責任や個人主義よりも、その背景にあるものの大切さについて。

高史明さんには一人息子がいたが、中学生の時にその息子さんが自殺したそうである。

理由はわからないそうだが、後悔されることは、その息子さんが中学生になった時に、とてもうれしかったこともあり、そして自分がそう生きてきたということもあり、これからは自分の行動に自分で責任を持って生きなさい、そしてまた人に迷惑をかけないように生きなさい、と言ったそうである。

今にして思えば、その時にそういうことを言うのではなくて、自己責任ということよりも、自分がこれまで生きてくるまでに、どれだけ多くの人の働きや支えを受けてきたか、またどれだけ多くの命を食べ物としていただいてきたか、そのことを思うようにしなさい、そしてまた、人に迷惑をかけるなということよりも、どれだけ多くの人に支えられているかを思いなさい、と言うべきであった、それが心から悔やまれる、というお話だった。

近代の自己責任や個人主義は、それだけではいのちのつながりを見失わせてしまう、私たちに本当に生きる力を与えるのは、そうしたいのちのつながりである、というお話だった。

 

みっつめは、供養について。

高史明さんは、息子さんの自死のあと、打ちのめされて、なんとか自分も息子も救われる道を見つけたいと思い、供養のために念仏やお経を一生懸命唱えようと思い、また唱えていたそうである。

しかし、その時に、歎異抄の中に、親鸞が自分は親の供養のために念仏は称えない、なぜならば生きとし生けるものは輪廻転生の中で自分の親兄弟だったからである、という意味のことが書いてあることに、衝撃を受けたそうである。

それで、一生懸命その箇所のことを考えて、思うようになったのは、親鸞が問うていることは、本当は私たちは誰もが、生きとし生けるものとつながっていて、いのちのつながりの中で生きているのに、そのつながりが見えていない状態で、自分の先立った親兄弟や子どものために念仏やお経を唱えるとして、その念仏や読経にはどのような意味があるのか、いのちのつながりを見るのが念仏や読経ではないか、ということを問うているのではないか、と思うようになったそうである。

狭い自分のことから解き放つのが念仏であり、逆ではないのではないか、と考えるようになったそうである。

 

四つめは、罪悪深重の凡夫という言葉の意味。

親鸞は罪悪深重の凡夫という言葉を使っているが、高史明さんはそれまではただ罪の重いのが凡夫だという程度に受けとめていたのが、だんだんと、自分もどの人も、人類の長い歴史を背負っている、人類の長い歴史の業を背負っている、そのことを親鸞は言っているのではないかと思うようになったそうである。

そう思うようになってから、以前は世の中の政治家などの悪いと思われる人に対して、その人は悪人で、自分はそれとは違う善の立場の人間で、あいつと自分は違うと思って批判していたけれど、その人も自分も罪悪深重の凡夫であり、人類の深い業を背負っている、なので全くの別物ではない、と感じるようになったそうである。

なので、その番組は2004年の放映なので、イラク戦争を事例に挙げられていたが、ブッシュ大統領についても、以前は悪いやつで自分は違うと思っていたろうけれど、戦争は嫌なので反対するし批判するけれど、しかし自分と全く別の人間ではなく、ブッシュ大統領も人類の長い歴史の業を抱えて苦しんでいる、あるいはこれから苦しむ人だろうし、自分も同様で、そこに違いはない、と感じるようになったそうである。

とても深い話だと思われた。

 

また、煩悩熾盛という言葉について、欲望や罪に火がついているということで、だったらじっとしていられない、その苦しみや悲しみが見えてくると、人を悪人として裁くのではなく、裁くのではないけれど、罪や悪に対してなんとかしたいとじっとしていられなくなる、それが親鸞の言っていた慚愧や念仏往生ではないか、ということをおっしゃられていた。

 

歎異抄は、私も折々に読んできたつもりではあったけれど、高史明さんのおかげで、より深く味わえそうな気がした。

いろんな人の深い読みや深い領解に触れることが、古典においては本当に大切なことなのだとあらためて思った。