梶大介 「生ききらなければ真実はみえてこない わがどん底歎異抄」

生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄

生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄


すごい本だった。

これほど、歎異抄を身読・身証した人はいないのではなかろうか。

私は今まで何を読んできたのだろう、
歎異抄を読めども読まず、なんにも読んでこなかったと、この本を読んで思い知らされた。

念仏に心を寄せる人であれば、必ず読むべき本だと思う。

著者は、山谷のドヤ街で、日雇い労働や屑拾いをしながら、山谷の人々の自立のために「いし・かわら・つぶて舎」をつくり、搾取のない仕組みのために努め、自立のための共同農場をつくった方。

梶さんの人生は、まさに「どん底」、苦難の連続だった。
そして、罪業深重の人生だった。
だが、本当に「不思議」な人との出遇いによって、歎異抄を読み、念仏を申す身となった。

その出遇いの不思議さや、梶さん自身の人生や言葉のすばらしさは、ぜひこの本を読んで多くの方に知ってもらいたい。

本当に深い深い読みを歎異抄にしておられて、何度もうならされた。

きっと、鎌倉時代の、親鸞聖人の念仏や歎異抄というのは、梶大介さんのような念仏や歎異抄だったのだと思う。
今、これほどの念仏や歎異抄を身証した人が、いったい寺院にどれだけいるのだろう。

梶さんの本を読んでいて、昨今格差社会に日本はなったとしきりに言われるけれど、それはもともとの話で、山谷や釜ヶ崎ではずっとひどい格差が厳然として存在しており、一部に押し付けられていたものが、他の地域や人々にもわが身のこととしてふりかかるようになっただけの話なのだと思った。
一億総中流というのは、もともと、山谷の存在などを無視した、神話や虚妄に過ぎないことだったのだろうと思う。

どん底」においても、どこにおいても、念仏があり、不思議がある。
そのことに、この本を読んでいると、本当に感動させられる。

きっと、人は、どのような境遇でも念仏さえあれば生きていけるし、生きねばならないのだと思う。

「生ききらないと真実は見えてこない」

本当に、貴重なメッセージに満ちた、すばらしい本だった。




「いつの時代の何処であろうと、生かされた場を生ききっていかない限り、なんにも観えては来ない。
生き切ったところでしか真実は見えて来ないのである。」
(244頁)

「弥陀の本願は即解放されたいとする大衆の悲願であり、
一つのものであって別のものではない。
 弥陀は遠くに掲げて拝むものではない。
念仏とは大衆をその宿業の一切から解放して行こうとする行である。」
(200頁)


「真理とは簡単なのである。その真理を説く釈尊の説法は難しくないのである。真理を遠いものとし、釈尊の説法を難しいとするのは、人間が人間でなくなったからである。人間が真理に立とうとしなくなったからである。
即ち、
「生かされている」
という不思議の事実を否定しきっているからである。
「生かされている」
という不思議の事実を素直に受け取ったところに安心があり、念仏が発し、無碍の一道がある。
必要なものは必要なだけちゃん