後序
以上のことは、すべて「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心が間違っていることから起こったことでしょうか。
親鸞聖人が語られた御話に以下のものがあります。
法然上人がおられた時に、弟子が大勢いるなかに、同じ「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心の人は少なく、親鸞聖人は御仲間の中で議論になったことがあったそうです。
その理由は、「私・親鸞の信心も、法然上人の信心も、一緒です。」とおっしゃったので、勢観房や念仏房といった御仲間たちが、とんでもないことだと論争になり、「どうして法然上人の信心と親鸞の信心が一緒であろうか」と言われました。
「法然上人の智慧や学識は広いものであり、私の智慧や学識がそれと一緒だと言うならば、間違っていることです。
しかし、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わるという信心に関しては、全く違うところはありません。
全く一緒です。」
と親鸞聖人は御答えになったのですが、それでも「どうしてそんなことがあろうか」という疑問や非難があったので、結局のところ、法然上人の御前でどちらが正しいかを決めるべきだということになり、詳しいことを申し上げたところ、
法然上人がおっしゃるには、
「私・法然の信心も、「はかりしれない光のいのち」からいただいた信心です。
親鸞の信心も、「はかりしれない光のいのち」からいただいた信心です。
ですので、全く一緒です。
これとは違う信心である人は、私・法然が生まれ変わっていく「はかりしれない光のいのち」の場所へは、決して生まれ変わっていくことはできないでしょう。」
とおっしゃいました。
ですので、その当時のひたすら南無阿弥陀仏の念仏を称える人々の中にも、親鸞聖人の信心と一緒ではない人々もあったのだろうと思われます。
どれもどれも同じことの繰り返しではありますが、書き記しておきます。
露が枯れた草の葉っぱの上にあるように儚いつかの間の命ですが、一緒に過ごす人々の疑問やよくわからないことをお聞きして、親鸞聖人がおっしゃったことの中身を述べて来ました。
私が死んだ後は、さぞかしだらしのないことになるだろうと嘆かわしく思います。
今まで述べたような間違った信心のありかたを言っている人々に、惑わされてしまうような時は、親鸞聖人の御心に沿って用いておられた聖典などを、よくよくお読みになられるべきです。
一般的に、仏教の聖典には、真実の教えと仮の教えが混じっているものです。
仮の教えを捨てて真実の教えを選択し実践することこそ、親鸞聖人の御本懐です。
よくよく注意して聖典を読み、混乱させるようなことがないようにして欲しいものです。
重要な聖典の中の証拠となる文章を、いくつか抜粋して、参考としてこの本に添付しておきます。
親鸞聖人はいつも、
「途方もない長い時間をかけた「はかりしれない光のいのち」の願いの働きについて、じっくりと念を入れて考えてみると、全く私・親鸞一人のためのものでした。
ですから、これほどのカルマを持っている身であったのを、救いたいと思ってくださった「はかりしれない光のいのち」の願いの働きのありがたさは言葉で表現することはできません。」
と、おっしゃっておられました。
今、そのことを考えると、善導大師の観無量寿経の注釈に「自分の身は現に重い罪のカルマを持ち、迷いの繰り返しを続けてきた愚かな者であって、はかりしれない昔から、いつも沈み、いつも生まれ変わって流されて、この迷いの繰り返しに終止符を打つきっかけがなかった身だと認識しなさい。」とある御言葉に、少しも異なっていませんでした。
ですので、これは、ありがたいことに、御自分の身に関連づけて、私たちは自分の身の罪のカルマが深いことも知らず、「はかりしれない光のいのち」のおかげを山のように蒙っていることも知らずに迷っているのを、身に染みてわからせようとするためのことでありました。
本当に、世の中の人々は、「はかりしれない光のいのち」のおかげということを論じることもなく、自分も他人も、能力や道徳や身分の良し悪しということばかり言い合っています。
親鸞聖人は、「良いことも悪いことも二つとも、すべて知りません。その理由は、「はかりしれない光のいのち」が良いと思われるほどに良いことについて徹底して知っているならば、良いことを自分が知っていることにもなるでしょう。また、「はかりしれない光のいのち」が悪いと思われるほどに悪いことについて徹底して知っているならば、悪いことを自分が知っていることにもなるでしょう。しかし、煩悩ばかりをこの身に持っている愚かな身と、火事の家のようにあやういこの変化し続ける世界においては、すべてのことはみな、嘘や偽りであって、真実なものはありません。ですので、全て南無阿弥陀仏の念仏だけが真実です。」
とおっしゃいました。
本当に、私も他人も、嘘ばかりを言っている中で、ひとつ痛々しいことがあります。
そのわけは、南無阿弥陀仏の念仏を称えることについて、信心の様子をお互いに質疑応答して、他の人にも言って聞かせる時に、他の人々の口を閉じさせ議論を断ち切るために、全く親鸞聖人がおっしゃっていなかったことまでもおっしゃったことだということがあるからです。これは、情けなく嘆かわしく思われることです。
このことをじっくりとよく考えて理解すべきです。
これは全く私の言葉ではありません。私は、経典や注釈の論理も知らず、仏典の文章の中の深いものと浅いものとを理解していることもないので、きっとおかしなことになってしまうかもしれません。しかし、親鸞聖人がおおせになったことを、百に一つでも、ほんの少しでも思い出して、書き記しました。
悲しいことです。幸いにも南無阿弥陀仏の念仏を称えながら、直接「はかりしれない光のいのち」の真実の場所に生まれ変わることもなく、仮の場所を住みかとすることは。
同じ念仏を称える人々の中に、信心の違いがないようにするために、涙を流しながら筆を墨にひたして、この文章を記しました。
名づけて『歎異抄』といいます。
よその人に見せてはなりません。