私訳正信偈 依経段

私訳正信偈 依経段



「はかりしれない光のいのち」に帰りなさい。
「はかりしれない光のいのち」に帰りなさい。


「いのちの奥底にある真実の心」が、自由自在に生きる目覚めに憧れて、さまざまな目覚めた人々の目覚めの原因や、あらゆるいのちの心の中の良いものや悪いものをすべてつぶさに見抜きました。


その上で、「いのちの奥底にある真実の心」は、この上なくすぐれた「願い」を起し、めったにない「誓い」をしました。
途方もない長い間、「いのちの奥底にある真実の心」は、そのために考えに考え抜きました。そして、その「願い」を実現できると考えをまとめあげました。


それから、「いのちの奥底にある真実の心」はもう一度、「南無阿弥陀仏」という名前の働きになって、あらゆる方角の生きとし生けるものに聞くことのできる存在になろうと誓いました。


その瞬間、「いのちの奥底にある真実の心」は「はかりしれない光のいのち」となりました。
そして、はかりしれない光、はてのない光、さまたげるもののない光、比べようのない光、あらゆる煩悩を焼きつくし昇華する光、欲望を清めてきれいな心にする光、怒りを鎮めて生きるよろこびに気付かせる光、迷いから目を覚まさせる智慧の光、途絶えることなく照らし続ける光、小さな考えをはるかに超えた光、褒め尽くすこともできない光、太陽や月よりも明るい光、という十二の光を放ち、生きとし生けるものの心を照らしました。
あらゆる生きとし生けるものの心は、その光に照らし出されました。


「はかりしれない光のいのち」の願いの働きを現わす南無阿弥陀仏という名前は、生きとし生けるものを必ず「はかりしれない光のいのち」の所へ生れ変わらせるカルマとなります。
なぜそんなことが可能かというと、その原因は、「はかりしれない光のいのち」の願いである、
「もしも私が悟りを開いて目覚めた者になったとしても、あらゆる方角の生きとし生けるものが、真実の信心を得て、南無阿弥陀仏とその人にとって可能な限り称えたとして、その人が「はかりしれない光のいのち」の所に生まれ変わることがないならば、私は目覚めた者にはなりません。ただし、父と母と仏弟子の覚った人を殺し、仏弟子の仲を引き裂き、目覚めた方の御身体から血を流す、という五つの重大な罪を犯した人と、正しい真理の教えを自分とは関係ないものだと思って生きている人は除きます。」
という無量寿経に書かれた第十八願にあります。


真実の信心を得た人は、必ず「はかりしれない光のいのち」の所に生まれ変わることが定まった身となり、この命が終わればニルヴァーナに目覚めます。なぜそんなことが実現するかというと、「はかりしれない光のいのち」の願いである、
「もしも私が悟りを開いて目覚めた者になったとしても、「はかりしれない光のいのち」の所に生れた人々や神々が、必ず「はかりしれない光のいのち」の所に生まれ変わることが定まった身となり、必ずニルヴァーナに至ることがなければ、私は目覚めた者になりません。」
という無量寿経の中の第十一願が実現するからです。


お釈迦様がこの世に現れてくださった理由は、すべてこの「はかりしれない光のいのち」の海のように広大な願いの働きをお説きになるためでした(それが無量寿経の説法です)。


時代と人々のものの見方と煩悩と人々の資質と健康状態の五つが濁りつつある末法の世の生きとし生けるものは、お釈迦様の真実の言葉を信じるべきです。


もし、「はかりしれない光のいのち」の願いに対する真実の信心を心に起すならば、その人は煩悩を断ち切ることがないにもかかわらず、ニルヴァーナを得ることになります。


煩悩を身につけている愚かな人々も、清らかな賢い人々も、五つの重大な罪を犯した人も、正しい真理の教えを自分とは関係ないものだと思って生きてきた人も、誰もが平等に、心を改めて「はかりしれない光のいのち」の願いに対する信心を起せば、あらゆる川が海にそそいで一つになるように、ニルヴァーナへと達します。


「はかりしれない光のいのち」の願いの光は、真実の信心の人をいつも照らし、守ってくださいます。
このような真実の信心の人は、疑いという迷いの闇はすでに突破されたことになります。しかし、強い欲望や怒りが雲や霧のように、その心を覆ってしまうことがあります。ですが、すでに真実の信心を得た人は、その心が全く暗くなってしまうことはありません。
たとえるならば、太陽の光が雲や霧に覆われても、雲や霧の下にも光は届いて、決して闇はないのと同じです。


「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心を得て、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きを見て、敬って、大いによろこぶならば、その人は一気に地獄・餓鬼・畜生・人間・神々という迷いの五つの境涯を飛び越えて、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わります。


能力や道徳や身分が良い人も悪い人も、煩悩を身につけているどんな人であっても、「はかりしれない光のいのち」の願いをそのまま聞いてその願いの働きにおまかせするならば、その人のことをお釈迦様は、広大なすぐれた教えをよく理解した智慧の人だと褒められました。
その人のことをお釈迦様は、白い蓮の花と呼ばれました。


「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏は、間違った見解を持った人々やおごりたかぶった心を持つ人々にとっては、信じて受け入れて称えることが非常に難しいものです。これほど難しいものは他にはありません。