第十一条
文字も読めず知識もあまりない仲間たちが、「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えているのに会って、
「あなたは「はかりしれない光のいのち」の願いの働きによって救われることを信じて南無阿弥陀仏の念仏を称えているのですか。
それとも、「はかりしれない光のいのち」の名前の南無阿弥陀仏の働きによって救われることを信じているのですか。」
と言って驚かせて、その二つの働きを詳しく明らかに説明することもせず、人の心を混乱させることは、くれぐれも注意して、考え判断すべきことです。
「はかりしれない光のいのち」はその願いの働きによって、簡単にそのまま持ち続けることができ、簡単に称えることもできる南無阿弥陀仏という名前を考え出してくださいました。そして、この名前を称える人は必ず「はかりしれない光のいのち」のところへ迎え入れようという約束があるわけです。
ですので、まずは「はかりしれない光のいのち」の大いなる思いやりと願いの働きによって救われて、小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打つことができると信じ、念仏を称えるわけです。
そのこと自体も、「はかりしれない光のいのち」が企画して処置してくださったと思うならば、
少しも自分の企てや処置が混じることがありません。ですので、「はかりしれない光のいのち」の願いとその人が結びつき、真実の「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わります。
つまり、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きを一筋に信じたならば、南無阿弥陀仏という名前の働きもその人に具わって、願いと名前の働きは一つになるわけであり、全くその二つが異なることはないのです。
さらに、自分の企てや処置を間に入れて、能力や道徳や身分の良し悪しについて、「はかりしれない光のいのち」のところへの生まれ変わりの助けと妨げの二つになると思うとします。
その考え方は、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに任せるものではありません。自分の心に「はかりしれない光のいのち」のところへ生まれ変わるためのカルマを努力してつくるという意味で念仏を自分の修行にしてしまうことです。
このような人は、南無阿弥陀仏という名前の働きをもまた信じていないのです。
(その人は南無阿弥陀仏と称えていても本当にはその名前の働きを)信じていないのですが、「はかりしれない光のいのち」の中の真実の場所ではない仮の場所に生まれ変わって、必ず南無阿弥陀仏の名前によって救いとるという無量寿経の中の第二十願の働きのおかげで、最終的には「はかりしれない光のいのち」の真実の場所に生まれ変わります。
これは、南無阿弥陀仏という名前の働きの作用です。
これはそのまま、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きが原因ですので、ただこの二つは一つのものであるはずです。
第十二条
経典やその注釈を読んで学ぶことがない仲間たちは、「はかりしれない光のいのち」のところへ生まれ変わることが決定していないということ。
このことは、非常に論じるまでもない間違った主張と言うべきです。
「はかりしれない光のいのち」の願いの働きが真実であるという事柄を明らかにしているさまざまな経典や注釈は、「はかりしれない光のいのち」の願いを信じてその名前である南無阿弥陀仏の念仏を称えれば、小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打って「はかりしれない光のいのち」に生まれ変わるということを教えているものです。その他に何の知識や学びが「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わるために重要だというのでしょうか。
本当に、この道理がわからずに迷っている人は、ぜひぜひ学問をして、「はかりしれない光のいのち」の願いの中身を知り理解すべきです。
経典や注釈を読んで学ぶとしても、経典や注釈の本当の心を理解していないことは、最もかわいそうなことです。
文字も読めず知識もあまりなく、経典や注釈の論理も知らない人が、簡単に称えることができるためにあるのが南無阿弥陀仏という名前なのです。
ですので、「簡単にできる実践」というのです。
学問を中心とするのは、「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ念仏に生きるのではない、他の教えの道です。これを「難しい実践」と呼びます。
間違って、学問をすることによって名声や利益を得たいという思いで生きている人は、この人生の次に「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることは、ちょっと難しいのではないかと思うという証拠の文章も(親鸞聖人の御本の中に)あるではありませんか。
現在、もっぱら南無阿弥陀仏という名前を称える人と、それ以外の教えの人と、仏教に関する議論を計画実行し、「私の信じている宗派こそがすぐれて、他の人の宗派は劣っています。」と言っていることがあります。
そうすると、敵も出てくるし、教えを謗ることも生じてきます。
これはすべて、自分が自分の信じている教えを破壊し誹ることではないでしょうか。
たとえさまざまな他の宗派がすべて、
「南無阿弥陀仏の名前を称えることは、能力のない人のためのものです。
その教えは、浅いし、程度の低いものです。」
と言ってきても、
全然争うこともなく、
「私たちは能力の劣った愚かな者で、文字も読めず知識もないものです。
「はかりしれない光のいのち」の願いを信じれば救われるということを、お聞きして信じていますので、全く能力のすぐれた人のためには程度の低いものであろうとも、私たちにとっては最もすぐれた教えでございます。
たとえ念仏以外の教えがすぐれていたとしても、自分にとっては能力が及びませんので実践することが難しいものです。
私も他の人々も、小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打つことこそ、目覚めた方々が本当に望んでおられることです。
ですので、私の道をどうぞ妨害しないでください。」
と言って、憎らしい態度をしなければ、どんな人があって、妨げをすることがあるでしょうか。
また、議論で争うところには、さまざまな煩悩が起り、智慧のある人は離れるべきだという証拠の文章もあるものです。
親鸞聖人はこうおっしゃいました。
「この教えを信じる人々もいるし、誹謗中傷する人々もいるはずですと、お釈迦様が説いておられます。ですから、私はすでに信じていて、他の人々は誹謗中傷することで、お釈迦様がお説きになられたことが本当だったと知られます。
ですので、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることは、ますます間違いないと思います。
何かの間違いで、誹謗中傷する人がいらっしゃらないことがある場合にこそ、どんなにこの教えを信じる人はいても、誹謗中傷する人がいないのはどうしたことかと思ってしまうはずでしょう。
このように言ったからといって、必ず他の人々から誹謗中傷されたいということではありません。
お釈迦様が、あらかじめ信じる人も誹謗中傷する人もいるということを知られて、人々が疑いを起すことがないようにと、お説きになっておられるということを述べているのです。」
と。
今の時代の人々は、学問をして他の人々の誹謗中傷をやめさせようとし、もっぱら議論を主な目的にしようと心がけているのでしょうか。
学問をしたならば、ますます目覚めた人々の本当の御心を知って、その思いやりと願いの中身を理解して、程度の低い自分の身では「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わるなんて難しいと思っている人々にも、
「はかりしれない光のいのち」の願いは、能力や道徳や身分の良し悪しや清らかさや汚さなどは関係ないという主旨を説いて聞かせるならば、学問をした人の値打ちというものもあることでしょう。
ちょうどその時、他に何の疑いもなく、「はかりしれない光のいのち」の願いに結びついて南無阿弥陀仏の名前を称える念仏をしている人がいるとします。その人に対して、学問をしてこそなどと言って脅かすことは、教えを妨げる悪魔であり、お釈迦様に対してあだをなすものです。
自分自身が「はかりしれない光のいのち」の働きの信心が欠けているだけでなく、間違って他の人々を迷わそうとするものです。
親鸞聖人の御心に背くことを、慎重に恐れるべきです。
また、「はかりしれない光のいのち」の願いの対象とはならないことを、重ねて気の毒に思うべきです。
第十三条
「はかりしれない光のいのち」の願いの御働きがあるからといって、悪を恐れないことは、「はかりしれない光のいのち」の願いに甘えてつけあがっていることで、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることはできないということ。
このことは、「はかりしれない光のいのち」の願いを疑っているものであり、能力や道徳や身分における良いことも悪いことも、過去のカルマに規定されているということを理解していません。
良い心が生じるのも、過去の良いカルマが促すことが原因です。
悪いことを自発的に思い行うことも、悪いカルマが企て処置することが原因です。
親鸞聖人は、「うさぎや羊の毛先にある塵ぐらいにかすかな罪をつくることであっても、(あとで振り返った時に)過去につくったカルマにならないということはないと理解すべきです。」とおっしゃいました。
また、ある時に、
「唯円房は、私が言うことを信じますか。」とおっしゃられたので、
「もちろんです。」と言ったところ、
「ならば、私が言うことには背くことはないですか。」と繰り返しおっしゃられたので、かしこまって承諾しますと言うと、
「まずは、人を千人殺してくれないか。そうすれば、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることは決定するはずです。」とおっしゃったので、
「先生がおっしゃることではございますが、一人の人間も私の能力では、殺すことができるとも思えません。」と言ったところ、
「それでは、どうして私が言うことに背きはしませんと言ったのですか」とおっしゃいました。
「このことによって理解すべきです。
どんなことも、自分の思い通りになることならば、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わるために千人の人を殺せと言われたら、そのまま殺すことでしょう。
ですが、一人の人であっても、思い通りに殺せるようなカルマがないので、人に危害を加えることがないのです。
自分の心が良いから殺さないのではないのです。
また、人に危害を加えまいと思っていても、百人や千人の人を殺してしまうこともあることでしょう。」
とおっしゃったことがありました。
ですので、私たちの心が良いことを良いことだと思い、悪いことを悪いことだと思って、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きによって救われるということを知らないことを、おっしゃっておられるわけです。
その昔、間違った見解に落ち込んだ人々がいて、悪いカルマをつくった人を救おうという「はかりしれない光のいのち」の願いなのだから、故意に好んで悪いカルマをつくることが、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わるカルマになるということを言って、次第に悪い様子が聞こえてくることがありました。
その時、親鸞聖人の御手紙に、「薬があるからといって、毒を好むべきではありません。」と書かれてありました。
それは、その間違った見解への執着をやめさせるためです。
全く、悪いカルマは「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わる妨げになるということではありません。
完璧に道徳や規律を守ることによってのみ「はかりしれない光のいのち」の願いを信じるべきだというのであれば、私たちはどうして小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打つことができることでしょうか。
このような情けない身であっても、「はかりしれない光のいのち」の願いに出遇ったからこそ、本当に甘えることもできるのです。
だからといって、今まで自分の身にすでに身につけているわけではない悪いカルマは、まさか自らつくりはしないものでしょう。
また、「海や川で網を引いて釣りをして、生計をたてる人々も、野や山で鹿や鳥の狩りをして生活をしている仲間たちも、商売をしたり、田畑を耕して暮している人々も、全く同じことです。」と親鸞聖人はおっしゃいました。
「そうなるはずのカルマが促すならば、人はどのような行動をする可能性もあることでしょう。」と、親鸞聖人はおっしゃいました。
だというのに、最近は、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることを目指す人のふりをして、能力や道徳や身分の善い状態にある人だけが南無阿弥陀仏の念仏を称えることができるように言ったり、
もしくは、集会場にポスターを張って、「これこれのことをしたような人は、この集会場に入ってはいけません。」などという人がいます。
これは、全くもって賢く良く努力をしているという姿を外面には見せて、内心にはむなしい嘘偽りを抱いているものでしょうか。
「はかりしれない光のいのち」の願いに甘えてつくってしまうであろう悪いカルマも、過去のカルマが促したことが原因です。
ですので、良いことも悪いことも、カルマの結果に任せて、ひたすら「はかりしれない光のいのち」の願いにお任せしていくことこそ、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きの教えに生きるということでしょう。
『唯信抄』にも、
「「はかりしれない光のいのち」が、どのような働きをされていると理解して、悪いカルマを持っている自分の身では、救われることは難しいと思うべきであろうか。」
とこそ書かれているものです。
「はかりしれない光のいのち」の願いに甘える心が起るようであってこそ、「はかりしれない光のいのち」の願いにお任せする信心も間違いないということでしょう。
全く、悪いカルマや煩悩を断ち切った後で、「はかりしれない光のいのち」の願いを信じようとする場合のみ、「はかりしれない光のいのち」の願いに甘える思いも持たなくて済むでしょうが、煩悩を断ち切ったならば、それはつまり目覚めた人になるわけで、目覚めた人には、「はかりしれない光のいのち」の途方もなく長い間の願いと働きは、甲斐がないものになることでしょう。
「はかりしれない光のいのち」の願いに甘えていると他人を注意しておられる人々も、煩悩や汚いものをその身に身につけておられるようです。
そのことは、「はかりしれない光のいのち」の願いに甘えておられることではないのでしょうか。
どのような悪いことを「はかりしれない光のいのち」の願いに甘えているというのでしょうか、どのような悪は「はかりしれない光のいのち」の願いに甘えていないというのでしょうか。
あべこべに、その人の心が幼稚なのではないでしょうか。
第十四条
一回の念仏で八十億劫という途方もない長い間苦しまなければならなかったはずの重い罪のカルマを消しさると信じるべきだということ。
このことは、殺さない・盗まない・不倫をしない・嘘をつかない・無意味な言葉を話さない・悪口を言わない・人の仲を割く言葉を言わない・貪らない・怒らない・間違った見解を持たない、という十の道徳に背き、
父や母や仏の弟子の悟った人を殺し、仏の弟子たちの仲を割き、仏の御身体を傷つけて血を流すという、五つの重大な罪を犯した人が、
今までの日常で南無阿弥陀仏の念仏を称えることもなく、臨終の時に、はじめて良い先生の教えに出遇って、
一回念仏を称えれば八十億劫という途方もない長い間苦しまなければならなかったはずの重い罪のカルマを消しさり、十回念仏を称えれば八百億劫という途方もない長い間苦しまなければならなかったはずの重い罪のカルマを消しさって「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わると教えられます。
これは、十の道徳に背き、五つの重大な罪を犯すことの重さを理解させるために、一回の念仏・十回の念仏と言っており、罪のカルマを消しさる効果について述べているものです。
このことは、まだ私たちが信じている教えには及ばないものです。
その理由は、「はかりしれない光のいのち」の光に照らされて育てられたことが原因となって、信心が一旦心の中に生じれば、ダイヤモンドのように堅固な信心をいただいたことになるので、もうすでに必ず「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることが決定した立場にしていただけるからです。
ですので、臨終になれば、さまざまな煩悩や悪いカルマの妨げを転換して、生まれることも死ぬこともないという目覚めをもった身にさせていただくわけです。
この「はかりしれない光のいのち」の願いと思いやりがなかったならば、このように情けない罪人である私たちが、どのようにして小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打つことができるでしょうか。
そのことを思い、この生涯の間称える念仏は、みな全て「はかりしれない光のいのち」の大いなる慈悲のおかげに感謝し報いるためのものだと思うべきです。
南無阿弥陀仏の念仏を称えるたびに、罪のカルマが消しされるだろうと信じようとすること。そのことは、もうその時点ですでに自分の働きで罪のカルマを消して、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わろうと努力するものでしょう。
もしそうであるならば、このいのちが終る時まで南無阿弥陀仏の念仏を称えることをやめないことによってのみ、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることができることでしょう。なぜならば、この生涯の間に思い考えることは、どれも小さないのちの迷いの繰り返しにつなぎとめるものでないものはないからです。
しかし、カルマの結果には、人を制限する定めがあります。ですので、どのような思いもかけないことに遭遇し、また病気の苦しみや悩みがわが身を責めたてて、意識をしっかりもって念仏を称えて過ごすことが難しくなり、意識をしっかりもって念仏を称えて過ごすことができないままに命が終るかもしれません。
その念仏ができなかった期間の罪のカルマを、どのようにして消しさるというのでしょうか。
罪のカルマが消えなければ、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることはできないのでしょうか。
「はかりしれない光のいのち」の願いは、南無阿弥陀仏の念仏を称えるものを選びとって決して捨てることがありません。その願いにお任せしたならば、どのような思いもかけない出来事があって、罪のカルマをつくって、南無阿弥陀仏の念仏を称えないままに命が終わったとしても、速やかに「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることでしょう。
また、もうすぐ小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打つ目覚めの時が近づく状態になり、それによって自然と南無阿弥陀仏の念仏が称えられる状態になったとします。その時は、ますます「はかりしれない光のいのち」におまかせして、そのおかげに感謝して「はかりしれない光のいのち」の御恩に報いる念仏を称えてこそ、この道の念仏というものでしょう。
念仏で罪のカルマを消しさろうという思いは、自分の働きで救われようという心であり、臨終に正しい意識で念仏しようと願う人の心のありかたなので、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心を持っていないということです。
第十五条
煩悩を身につけた身でありながら、もうすでに小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打って目覚めたと言うこと。
このことは、とんでもないことです。
この今生の身でそのまま目覚めた者となるということは、真言密教の教えの中身であり、心と言葉と身体の修行によって得る結果です。
眼・耳・鼻・舌・身・意を清めるのは、天台宗の法華経に依拠した教えで、心・言葉・身体の行為のすべてにおいて過ちを離れ、生きとし生けるものを目覚めに導こうという慈悲の請願をおこす修行によってその結果を得ます。
これらはすべて、難しい実践で、すぐれた能力の持ち主がなすべきことであり、瞑想を実現して得る目覚めです。
この人生が終わって次に生まれ変わって目覚めることが、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きによって「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わっていくという教えの中身です。また、そのことが、信心によって「はかりしれない光のいのち」に例外なく生まれ変わっていくという道理の根幹をなしています。
この教えはまた、「簡単な実践」であり、劣った能力の者がなすべきことであり、能力や道徳や身分の良し悪しでは区別をつけない教えです。
普通、この人生において煩悩や悪いカルマによる妨げを断ち切ることは、大変難しいので、真言密教や天台法華の道を修行する清らかな人々であっても、今生ではない次の人生に生まれ変わってから小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打ち目覚めることができるようにと祈るものです。
ましてや、道徳も実践も智慧も理解も持たない者は言うまでもないことです。
しかし「はかりしれない光のいのち」の願いの船に乗せていただき、小さないのちの迷いの繰り返しの苦しみの海を越えて、真実の「はかりしれない光のいのち」のところである岸辺に着いたならば、煩悩の黒い雲は速やかに晴れ渡って、真理に目覚めた月の光が速やかに現れて、あらゆる方角にさまたげられることなく照りわたる光と一つになって、生きとし生けるものを助ける存在になります。そうなってこそ、小さな迷いのいのちに終止符を打って目覚めた存在になったということでしょう。
この今生の身でありながら、小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打って目覚めたという人は、お釈迦様のようにさまざまな姿や分身を現わし、三十二相・八十随形好というお釈迦様が持つ身体の特徴を身につけて、人々に教えを説いて助けているのでしょうか。
そうであってこそ、今生で目覚めたと本当に言うことができます。
親鸞聖人の高僧和讃の七十七に、
「ダイヤモンドのように堅固な信心が、この私に定まる時。その時を待っていて、「はかりしれない光のいのち」の御心の光が私をおさめとって護ってくださいます。そして、もうこの先ずっと、小さないのちの迷いの繰り返しから私を離れさせてくださいます。」
とあります。
それは、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心が定まった時に、「はかりしれない光のいのち」がその人をおさめとって二度と捨てることがないので、もう地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・神々といった小さないのちの迷いの繰り返しに終止符が打たれるということです。
ですので、もうこの先ずっと小さないのちの迷いの繰り返しから離れさせてくださるというわけです。
このように理解することを、目覚めたことと混同して言うべきでしょうか。
そのような誤りは気の毒なことではないでしょうか。
「浄土真宗の教えでは、今生では「はかりしれない光のいのち」の願いを信じ、このいのちが終って「はかりしれない光のいのち」のところにおいて目覚めるのだと、法然上人から教わりました。」と、親鸞聖人はおっしゃったものでした。
第十六条
「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心を得て、南無阿弥陀仏の念仏を称える人が、万一腹を立てて、悪いことをし、仲間たちと会った時に口げんかをした場合は、必ず心を改めるべきだということ。
このことは、悪いカルマを除きさって良いカルマを積むことに努めるという考え方でしょうか。
ひたすら南無阿弥陀仏の念仏を称える人においては、心を改めるということは、ただ一度あるはずです。
その「心を改める」ということは、それまでの日常では「はかりしれない光のいのち」の願いの働きにお任せするという真実の教えを知らなかった人が、「はかりしれない光のいのち」の智慧をいただいて、今までの日常の心では「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることは到底できないと思い、それまでの心を転換することです。そして、「はかりしれない光のいのち」の願いにお任せすることをこそ、「心を改める」ということでしょう。
すべての事柄に関して、朝にも夕べにも心を改めることによって「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることができるとします。もしそうならば、心を改めもせず、穏やかな忍耐の心で過ごしているわけではない時にいのちが終ってしまったならば、「はかりしれない光のいのち」の願いはむなしいものになってしまうのでしょうか。なぜならば、人間のいのちというのは、今吐いた息の次に、息を吸う前に終わってしまうかもしれないものだからです。
言葉では「はかりしれない光のいのち」の願いの働きにお任せしていますと言っていても、心ではいくら能力や道徳や身分の悪い人を救うという願いの働きがあるといっても、そうはいっても良くないものを救ってはくださるまいと思い、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きを疑っている人々がいます。そうした人々は、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きにお任せする心が欠如しているので、「はかりしれない光のいのち」の真実の場所ではない仮の場所に生まれ変わります。そのことは、本当に悲しく思うべきことです。
「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心が定まったならば、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わります。そのことは、「はかりしれない光のいのち」の企画と処置によってなされることです。ですので、自分の企てや処置ではありません。
自分の能力や道徳や身分が悪かろうとも、ますます「はかりしれない光のいのち」の願いの働きを敬っていけば、あるがままの道理によって、穏やかな忍耐の心も起ってくることでしょう。
万事すべてに関して、「はかりしれない光のいのち」に生まれ変わるためには、さかしらげな考えを持たずに、ただ我を忘れて「はかりしれない光のいのち」のおかげの深さを、いつも思い出すようにすべきです。
そのようであれば、南無阿弥陀仏の念仏もおのずと称えられるものです。
これがあるがままということです。
自分が企てて処置するのではないことを、あるがままと言います。
これがそのまま「はかりしれない光のいのち」の願いの働きということです。
そうであるのに、「あるがまま」ということと別のものであるかのように、自分は何かを知っているかのように、(念仏や「心を改める」ということについて)言う人がいるということをお聞きしました。
情けないことです。
第十七条
「はかりしれない光のいのち」の真実の場所ではない、仮の場所に生まれ変わる人は、最終的には地獄に落ちるだろうということ。
このことは、何の証拠となる文章が経典にあるというのでしょうか。
こんなことが学問があるように振る舞っている人々の中で言い出されていることこそ、情けなく思えます。
経典やみ教えを、どのように思っているというのでしょうか。
「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに対する信心が欠如していながら南無阿弥陀仏の念仏を称える人は、「はかりしれない光のいのち」の願いを疑うことにより、仮の場所に生まれ変わって「はかりしれない光のいのち」の願いを疑った罪のカルマを償います。そのあとで、「はかりしれない光のいのち」の真実の場所に生まれ変わり目覚めると、(親鸞聖人から)お聞きしました。
「はかりしれない光のいのち」の願いに対する信心をいただいて南無阿弥陀仏の念仏を称える人の数は少ないものです。ですので、仮の場所に生まれ変わるように多くの人にお釈迦様はお勧めになられました。そのことを、最終的にはむなしいことになるだろうと言うことは、お釈迦様のことばを嘘偽りだと言っていることになるのではないでしょうか。
第十八条
お寺や集会場に対して、御布施する物品や金額が多いか少ないかによって、大きな目覚めや小さな目覚めになるということ。
このこと、とんでもない、本当にとんでもないことで、道理にあわないことです。
まず、目覚めに大きい小さいの分量を定めることなど、あるはずもないことです。
「はかりしれない光のいのち」の御身体の大きさが観無量寿経に説かれてあっても、それは人々にわかりやすく示すための仮の御姿のことです。
真理の目覚めは、長さや短さや、四角や丸の形もなく、青・黄・赤・白・黒の色も関係ないことであるというのに、何によって大きい小さいを決めるというのでしょうか。
南無阿弥陀仏の念仏を称えて、「はかりしれない光のいのち」の仮の御姿を見たということがあることは、『大集経』に「大きな声の念仏では大きな仏を見、小さな声の念仏には小さな仏を見た」といったようなことが書かれてあります。もしかしたら、このことなどにこじつけて言っているのでしょうか。
さらに、与えるという修行、つまり布施の修行だと言って、どのように貴重なものを目覚めた人の御像の前にお供えし、あるいは先生に施しをしたとしても、「はかりしれない光のいのち」の願いに対する信心が欠如していれば、その意味や効果はないものです。
一枚の紙や、コインの半分もお寺や集会場に納めなくても、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きに心を投げ出して、深い信心を持っているならば、それこそが「はかりしれない光のいのち」の願いの本当の御心にかなっています。
(布施の金額や物品の大小によって目覚めに違いが生じるということは)すべてお釈迦様の教えにこじつけて、俗世間の欲の心があるために、仲間たちを脅かして言っていることではないでしょうか。