私訳歎異抄 第一条〜第十条


私訳歎異抄



第一条


「はかりしれない光のいのち」の願いによって救われる。
「はかりしれない光のいのち」の願いによって、小さないのちの迷いの繰り返しから脱け出て生まれ変わる。


ということへの理解に基づいた信心をいただいて、「はかりしれない光のいのち」の名前である南無阿弥陀仏を称えようという心が起る時。
その時、「はかりしれない光のいのち」に救い取られて、決してもう二度と捨てられることはありません。


「はかりしれない光のいのち」の願いには、年齢の違いや、能力や道徳や身分の差による区別はありません。
ただ、理解に基づいた信心を根本としていると理解すべきです。


その理由は、悪いカルマが深くて重く、煩悩ばかりが盛んである、そのような存在を救いたいというのが、この「はかりしれない光のいのち」の願いだからです。


ですので、この願いについての信心においては、その他のさまざまな能力や道徳や身分などの良さというものは、別に重要ではありません。
この「はかりしれない光のいのち」の願いを知ったうえでその名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏よりもすぐれた良いことなどないからです。


また、同様に、能力や道徳や身分などに関する悪さなども、何の心配もありません。
「はかりしれない光のいのち」の願いをさまたげるほどの悪さなどは何もないからです。
(といった御話でした。)


第二条



お一人お一人が、十数カ国の国境を越えて、いのちの危険をかえりみずに、私に質問するためにやって来られた。
その思いは、ただひたすら、この小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打って、「はかりしれない光のいのち」に生まれ変わっていくための方法を、尋ねようとするためでしたね。


しかしながら、「はかりしれない光のいのち」の願いを知ってその名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏以外に、生まれ変わっていくための方法を私が知っていて、あるいはそのための本や知識を持っているだろうと思い、そのことをはっきりと知りたいなどと思っておられるならば、大きな間違いです。


もしそうであるならば、奈良の大きなお寺や比叡山などにすぐれた知識人が大勢いらっしゃるので、その人たちに会って、生まれ変わるための根本の教えをよくよく聞かれるべきです。


私・親鸞においては、ただ「はかりしれない光のいのち」の願いを知ってその名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えて、「はかりしれない光のいのち」に救われなさいという、法然上人という良い先生がおっしゃったことを受けとめて信頼していく以外には別に何もありません。


この念仏は、本当に「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わっていく原因なのでしょうか。
あるいは、地獄に落ちるカルマになるのでしょうか。
全くもって私は知らないことです。


たとえ法然上人にだまされて、この念仏を称えて生きて、その結果地獄に落ちたとしても、全然後悔することは私にはありません。


その理由は、この念仏以外の修行に励んで、そのことによって悟りを開いて迷いの繰り返しに終止符を打つはずであった身が、この念仏を称えて生きたことによって地獄に落ちたのであれば、だまされましたという後悔もあることでしょう。
どんな修行によっても迷いの終止符を打つということを達成することが難しいのがこの私ですので、(もし法然上人のおかげで念仏に出遇うことがなければ)どうあろうと地獄こそが間違いなく私の居場所だったことでしょう。


「はかりしれない光のいのち」の願いが真実であるならば、お釈迦様がお説きになった観無量寿経の教えはむなしい嘘偽りの言葉ではないはずです。
お釈迦様のお説きになった観無量寿経の教えが真実であるならば、善導大師の観無量寿経の注釈もまたむなしい嘘偽りを言っているということではないはずです。
善導大師の注釈が真実であるならば、法然上人がおっしゃられていたことがむなしい嘘偽りのことばであろうはずがありません。
法然上人がおっしゃられていたことが真実であるならば、私・親鸞が言う内容もまた、むなしい嘘偽りであるはずがないのではないでしょうか。


結局のところ、愚かな私の身における信心は、このようなものです。
以上のことを申し上げた上には、「はかりしれない光のいのち」の願いを知ってその名前を呼ぶ念仏の道を選んで信じていかれるのも、またこの念仏の道を選ばずに捨てていくのも、お一人お一人各自がお考えになって決めることです。
(といった御話でした。)


第三条


能力や道徳や身分において良い人が、「はかりしれない光のいのち」によって迷いの繰り返しに終止符を打って生まれ変わる、ましてや能力や道徳や身分において悪い人は言うまでもないことです。


そうであるのに、世の中の人々は通常、「能力や道徳や身分において悪い人が、「はかりしれない光のいのち」によって迷いの繰り返しに終止符を打って生まれ変わる、ましてや能力や道徳や身分において良い人は言うまでもないことです。」と言います。


このような言葉は、一応その理由があるように見えますが、「はかりしれない光のいのち」の願いの意向に反しています。


その理由は、自分の働きで良いカルマを積んで迷いの繰り返しに終止符を打って「はかりしれない光のいのち」のところへ生まれ変わろうとする人は、一途に「はかりしれない光のいのち」の願いの働きにおまかせする心が欠けているので、「はかりしれない光のいのち」の願いの対象ではありません。


とはいえ、自分の働きで良いカルマを積んで迷いの繰り返しに終止符を打って「はかりしれない光のいのち」のところへ生まれ変わろうとする心を転換して、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きにお任せするならば、真実の「はかりしれない光のいのち」のところへ生まれ変わります。


煩悩をことごとく身にそなえている私たちは、どのような修行によっても小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打つことはありえないはずのところを、「はかりしれない光のいのち」があわれみをかけて救おうという願いを起してくださった、その本当のお考えは、能力や道徳や身分が悪い状態にある人が迷いの繰り返しに終止符を打って「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わるためです。
ですので、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きにおまかせする能力や道徳や身分が悪い状態にある人こそが、一番「はかりしれない光のいのち」のところへ生まれ変わっていく原因となるものを持っている存在です。
ですので、能力や道徳や身分において良い人が、「はかりしれない光のいのち」によって迷いの繰り返しに終止符を打って生まれ変わる、ましてや能力や道徳や身分において悪い人は言うまでもないことです、と親鸞聖人はおっしゃられました。


第四条


慈悲にも、「はかりしれない光のいのち」の願いにおまかせする道によるものと、そうでない道によるものとでは、違いがあります。


そうでない道による慈悲というのは、さまざまな対象に対してあわれみの心を起し、その悲惨な状況を悲しんだり、その対象を育もうとするものです。
ですが、思い通りにその対象を最後まで助けることができるということは、めったにないことです。


「はかりしれない光のいのち」の願いにおまかせする道の慈悲というものは、「はかりしれない光のいのち」の願いを知ってその名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えて、速やかに小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打って「はかりしれない光のいのち」に生まれ変わり、大いなる慈しみとあわれみを持って、思うとおりにさまざまないのちを助けることを指して言うべきものです。


この生きている間の人生においては、どれほど愛しいと思い、あるいは気の毒に思っても、思う通りには助けることが難しいものです。
ですので、その慈悲というのは、終始一貫しないものです。


ですので、「はかりしれない光のいのち」の願いを知ってその名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えることだけが、最後まで一貫する大いなる慈しみとあわれみの心なのです。
(といった御話でした。)


第五条


私・親鸞は、父や母の追善供養のためには、一度も「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えるということはまだしたことがありません。


その理由は、生きとし生けるものはすべて、何度も生まれ変わってきた中での、父や母や兄弟姉妹だからです。


どのいのちも、どのいのちも、私がこの現在のいのちが終わって次に生まれ変わる時には、小さないのちの迷いの繰り返しに終止符を打って「はかりしれない光のいのち」に目覚めたものとなって、助けてあげるべき存在だからです。


もし南無阿弥陀仏の念仏を称えることが、自分の働きで努力する善いことであるならば、その念仏の功徳を振り向けて父や母を助けることもできることでしょう。しかし、そうではありません。


ただ、「はかりしれない光のいのち」と無関係に自分の働きで生まれ変わろうとすることを捨てて、速やかに「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わって「はかりしれない光のいのち」に目覚めるならば、



地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・神々の六つの世界や、母胎や卵や湿気や業のみから生まれるという四つの生れ方をする、この迷いの繰り返しの中で、


自分の父や母や兄弟やゆかりのある人々や生きとし生けるものが、どんな境涯にいて自分のカルマによってつくりだした苦しみに苦しんでいようとも、


自由自在にさまざまな方法で救うことができ、まずは自分にゆかりのある人々から救うことができるのです。
(といった御話でした。)


第六条


もっぱら「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏に生きる仲間が、自分の弟子だ、他人の弟子だ、という言い争いをすることは、とんでもないことです。


私・親鸞は、弟子は一人も持ちません。


その理由は、自分の企てや処置によって、他の人に「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えさせたのであれば、その人は自分の弟子であるかもしれません。


ですが、「はかりしれない光のいのち」がうながしたことによって南無阿弥陀仏の念仏を称える人を、自分の弟子だということは、非常にとんでもないことです。


一緒になっていく縁があるならばともに過ごし、離れていくべき縁があるならば離れていくものです。
それを、先生に反逆して、他の人に従って念仏するならば、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることはできないなどと言うことは、とんでもないことです。


にもかかわらず、「はかりしれない光のいのち」からいただいた信心を、自分のものであるような顔をして、取り戻そうなどと言うとは。
くれぐれもあってはならないことです。


その人があるがままの道理にきちんと合って生きるならば、「はかりしれない光のいのち」のおかげで生きていることを知り、先生のおかげでこの道を知ったということもわかるはずです。
(といった御話でした。)


第七条


「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称える人は、なんの妨げもない自由な道を歩みます。


その理由は何かと言いますと、「はかりしれない光のいのち」の願いへの理解に基づいた信心によって生きる人に対しては、神々も精霊も敬意を持ってくださるし、悪魔や間違った宗教の人々が障害となって困らせることもないからです。


悪いカルマが結果を与え続けることもできないからです。


能力や道徳や身分におけるさまざまな良いことも、「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏には到底及ばないからです。
(といった御話でした。)


第八条


「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えることは、称える人にとっては修行でもありませんし、良いことをなしているというわけでもありません。


自分が企てて処置する行為ではないので、修行ではないというわけです。


自分が企てて処置してつくる良いことでもないので、良いことをなしているわけではないというわけです。


もっぱら、「はかりしれない光のいのち」の願いの働きであって、それとは関係のないところの自分の働きというものからは離れているので、称える人にとっては念仏は修行ではないし良いことをなしているわけではないというわけです。
(といった御話でした。)


第九条


「「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えるのですが、とびあがって喜ぶような心があんまり起こりません。
また、速やかに「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わっていきたいという心もございません。
これはどう考えるべきことなんでしょうか」、と質問してみました。


すると、


「私・親鸞も、このことは疑問だったものだった。
唯円房も同じ思いだったのですか。


よくよく考えてみれば、天にもおどりあがって、地面の上でもおどって喜ぶべきほどのことを、喜びもしないのは、ますますもって「はかりしれない光のいのち」のところに必ず生まれ変わると思います。
喜ぶべき心を押さえつけて、喜びもしないのは、煩悩がそうさせているからです。


しかしながら、「はかりしれない光のいのち」は以前からそのことを見抜いて理解して、煩悩がことごとく備わっている愚かな人間だとおっしゃっておられるわけです。
ですので、「はかりしれない光のいのち」の願いと思いやりはこのようなものであって、私たちのためのものなのだと理解されて、ますますもって頼もしさを感じます。


また、「はかりしれない光のいのち」のところに速やかに生まれ変わりたいと思う心が起らなくて、ちょっとした心配事でもあれば、死んでしまうのではないかと心細く思うことも、煩悩がそうさせているわけです。

とてつもない遠い昔から今まで、小さないのちの迷いの繰り返しを生きてきました。
その迷いの苦しみという昔からの住みかはなかなか捨てることが難しいもので、まだ生まれ変わっていない「はかりしれない光のいのち」のところは恋しいとは思わないわけです。
このことは、本当によくよく煩悩の働きが強く盛んだからこそです。


別れがつらく心残りを感じても、この現世に生きる縁が尽きれば、力無くこのいのちは終わってしまうわけですが、その時に、「はかりしれない光のいのち」のところへ生まれ変わっていくはずなわけです。


速やかに「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わっていきたいと思う心がない愚かな者を、特に「はかりしれない光のいのち」は思いやってくださるものです。


このことと関連してこそ、ますます「はかりしれない光のいのち」の慈しみと願いはたのもしいもので、「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることは間違いないと思ってください。


おどりあがるほどの喜びの心があって、速やかに「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わっていきたいと思うならば、煩悩がないのだろうかと、かえって変に思うかもしれませんよ。」
(といった御話でした。)


第十条


「はかりしれない光のいのち」の名前を呼ぶ南無阿弥陀仏の念仏を称えることにおいては、称える人が自分の企てや処置を交えないことを正しいこととします。


なぜかというと、念仏は、褒め称えることも、説明することも、頭で理解することも、到底し尽くすことができないものだからです。
親鸞聖人はおっしゃいました。


そもそも、親鸞聖人がまだこの世に生きておられた頃、同じく「はかりしれない光のいのち」のところに生まれ変わることを目指し、はるかな京の都に苦労して足を運び、信心を一緒にして、「はかりしれない光のいのち」に生まれ変わるということを心がけていた仲間たちは、一緒に親鸞聖人の御心を聞いていたものです。


しかし、それらの人々と一緒になって念仏を称えているさまざまな年齢の人々が今やとても数多くいるのですが、その中に、親鸞聖人がおっしゃっていたのとは違う教えを最近はたくさん言いあっている人々がいるとのことを、伝え聞いております。
とんでもないそれらのことを詳しく以下に述べます。