とても感銘を受けた。
メモをとってみた。
美しいものには二種類ある。
はじめはきれいだが、徐々に汚れていくもの。
これは悲しい。
しかし、み仏の美しさのように、触れるものを浄化していく、汚れているものをかえって清めていく美しさもある。
蓮の花は、泥沼に咲いて、その泥沼を美しい花園に変えるので、後者の象徴とされてきた。
悲華経は、仏を蓮に喩えた。
法華経は、法を蓮に喩えた。
それに対して、観無量寿経は、み仏の教えをまことと受け入れて、念仏を称える人を蓮の花だと言った。
妙好人と言った。
数あるお経の中でも、仏法を聞く側の凡夫を蓮と喩えたのは、観無量寿経だけである。
妙好人と呼ばれる人々がいる。
生きるための仕事で毎日精一杯の、ほとんど学問もない、ごく普通の庶民が、本願念仏に育てられて、長い間修行をしたような高僧と全く変わらない高い宗教的境地を実現していた人々のことで、浅原才市や足利源左が挙げられる。
浅原才市の詩の数々は、如来と呼応する世界が開けている。
凡夫ではあるけれど、仏と話し合う世界が念仏の暮らしの中で開ける時に、「浄土のあまり風」がそこに吹き込んで、煩悩はなくならないけれど、如来から見たら自分は憎いと思う人も大切な仏の子なのだと、すこし清らかな風が心に吹き込む。
「煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。 この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。」(入出二門偈)
この中で、親鸞聖人は、本願念仏をいただいた凡夫は、凡夫の数の中に入らない、ただ者ではない、人の中の蓮の花なんだ、とおっしゃられている。
本願念仏をいただいた人は、凡夫ではない、聖者の仲間入りをしている、とおっしゃられている。
凡夫であることの慚愧とともに、このことを味わっていくことが、御念仏をいただくものはとても大切なことである。
妙好人の足利源左は、さまざまなエピソードからわかるように、あたりまえのことを、不思議なこと、ありがたいことと受け取った方だった。
親鸞聖人のみ教えに育てられた人がどのような心の世界が開けるか、あたりまえのことを、どれほど不思議なこと、ありがたいことと受け取れる心の目が開けるか、源左たちから学べる。
(以上)